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【イベント報告】シリア難民が語る 難民認定は私のパスポート

【イベント報告】シリア難民が語る 難民認定は私のパスポート
講演するジャマールさん
5年に渡って続く中東・シリアでの内戦は泥沼化し、多くの人々が故郷を追われました。難民は国内、国外を合わせると、シリアの人口の半数近い1000万人を越えています。3月2日のピースボート勉強会では、日本で難民認定を受けたジャマールさん(23歳)を招き、難民となった経緯や日本での暮らし、故郷のシリアへの想いについてお話しいただきました。

なお、2011年末から2015年末まで日本に難民申請をした63人のシリア人のうち、政府から難民認定を受けたのはジャマールさんの家族3人だけという状況です。
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講演するジャマールさん
5年に渡って続く中東・シリアでの内戦は泥沼化し、多くの人々が故郷を追われました。難民は国内、国外を合わせると、シリアの人口の半数近い1000万人を越えています。3月2日のピースボート勉強会では、日本で難民認定を受けたジャマールさん(23歳)を招き、難民となった経緯や日本での暮らし、故郷のシリアへの想いについてお話しいただきました。

なお、2011年末から2015年末まで日本に難民申請をした63人のシリア人のうち、政府から難民認定を受けたのはジャマールさんの家族3人だけという状況です。

美しい故郷・シリア

【イベント報告】シリア難民が語る 難民認定は私のパスポート
まずはシリアで戦争が始まる前の話をします。シリアは、日本の方にとって現在は怖いイメージになってしまったかもしれませんが、戦争が始まる前は美しい風景で豊かな国として知られていました。

私の家族は首都のダマスカスに暮らしていました。当時の私は大学3年生で、英文学を学ぶんでいました。妹は小学生で、母は国営テレビで働いていました。父は菓子職人として、カタールに単身赴任をしていました。おかげで私はアルバイトをすることもなく、勉強や好きなサッカーに熱中することができました。

2011年までは私たち家族を含めて、ほとんどのシリア人がそのようなごく普通の日常を送っていたのです。当時はシリアではパレスチナやイラクから逃れてきた難民が、300万人以上も暮らしていたほどです。

2011年にアラブの春が起きて、チュニジアやエジプトで独裁政権が倒れました。そしてシリアでも、独裁政権に対する批判が高まりました。当初はアサド政権の打倒を目指したわけではなく、やり方を変えて欲しいという要求をして、毎週金曜日に人々がデモを行うようになりました。市民による平和的なデモは、首都のダマスカスを始めシリア全土に拡大していきました。

その人々に対して、アサド政権は軍隊を使って弾圧を行いました。ここから、私たちの苦難が始まります。政権を批判した若者たちは逮捕され、拷問を受けました。その中で、私の高校の同級生が何人も殺されてしまいました。

地獄のような日々

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アサド政権のやり方に反発した市民は、武器を手に取るようになりました。それが発展して、現在は自由シリア軍という反政府組織になっています。市民が武装すると、シリア軍はさらに攻撃をエスカレートさせて、市民に対して空爆を行うようになります。日に日に状況は悪化していきました。

毎日が地獄のようでした。目の前で空爆が起き、車が爆発し、人が殺されるような状況が続きました。人々は職場や大学に通うだけでも命がけだったのです。また、アサド政権が反発が起きたような街の電力供給を止めたため、一日のうちに4時間しか電気を使えなくなりました。生活必需品も手に入らなくなります。

そのような状況下で、人口のおよそ半分にあたる1000万人を越える人々が国内外に逃げることになったのです。私は故郷のシリアが大好きだったので、それでもなんとか残れないかと考えました。でもいつまで経っても状況は良くならず、苦しい生活が続きました。2013年になって、母と妹の3人で昼食を食べている時でした。私たちはアパートの2階の部屋にいたのですが、同じビルの3階に爆弾が落ちました。

それまでは、どれだけ悲惨な状況を目にしてもなぜだか自分だけは巻き込まれることはないだろうという気がしていましたが、戦争は、突然自分の家にやってきました。母と妹はショックで動くこともできず、ただ叫んでいました。私はとりあえず2人を連れて、知り合いの家に避難しました。

そのときの気持ちは言葉では表現できません。もちろん財産はほとんど失いました。そして母と相談して、もうシリアを出るしかないと決断しました。私は大学を辞め、母はテレビ局を退職しました。

シリアから日本へ

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自分の国から出ることになるなんて、今も信じることができません。そしてその思いは今も続いています。2013年2月に国を出てエジプトに移動し、7ヶ月間滞在する間に日本に渡る準備をしました。私のおじさんが日本人と結婚して日本にいたので、おばさんに依頼して、観光ビザを発給してもらい日本に来ることができました。有り金をはたいて日本までの航空券を買い、2013年10月に来日しました。

私の家族は他のシリアの人たちに比べて幸運でした。とにかく家族全員が誰一人怪我もせず、シリアから出ることができたからです。私の友人には、家族を失った人も数多くいます。

日本ではおじさんの家に身を寄せ、東京の入国管理局で難民申請を行いました。そこまでは良かったのですが、それから難民認定が出るまでの1年半は、私の人生の中でも最もひどい生活となりました。

家族を支えるために

特に大変だったのは、最初の半年です。働くことが禁止されていたため、いろいろな人に借金をして家族3人で食いつなぎました。人にお金を頼らなければ生きていけないというのは、とても苦しかったです。半年後、労働許可が下りて、レストランで働けるようになりました。そこでは週に6日間、1日15時間も働き続けました。

私はシリアでは大学生で、働いたことがなかったのですが、日本語もできないままいきなり社会人になってすごく大変な思いをしました。でもそんなことは言っていられません。実はこの時、父さんはシリアに戻っていました。カタールでの滞在許可が切れて、戻らなければいけなくなったのです。シリアでは収入が得られない父にも、仕送りをする必要がありました。

当時は22歳でしたが、日本とシリアにいる家族のために、自分が頑張らないといけないと思いました。そういう暮らしが1年ほど続きました。

2014年12月に、日本政府から難民認定を受けることができました。それによって、私たち家族の生活は大きく改善しました。何より嬉しかったことは、2015年の5月に父をシリアから呼び寄せることができたことです。

難民認定を受けて

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認定を受けたことで、やっと普通の生活が送れるようになりました。就業制限はなくなり、医療費の助成や日本語学校にも通えるようになりました。そして今では、サッカーチームに入って趣味のサッカーも楽しめるようになっています。

妹は現在中学3年で、もう日本語は自由に使えるようになりました。母も4月から仕事を始めることになっています。私は、日本の大学に通いたいと勉強をしているところです。日本はほとんど難民認定をしない国、ということは日本に来てから知ったことです。私たちの家族を難民として受け入れてくれた日本には、とても感謝しています。でも認定されていない多くの人たちを助けて欲しいと思っています。

難民を受け入れることは国にとって負担になるという意見もあるようですが、シリア難民の多くは高等教育を受けていて、働く意欲もあります。私自身も日本に来て初めから働くことができれば、自立することができたはずです。政府からお金をもらわなくても生活できるという環境を作ることができれば、私たちは移住先の国にもいろいろな貢献することができると思ってます。 

最後になりますが、私は「White Heart for Syria(ホワイト・ハート・フォー・シリア)」という、シリアの厳しい状況にある家族を支援する活動を、友人と4人で行っています。日本で募金を集め、まずはトルコに送金します。そしてトルコにいる友人が食料や生活必需品をパックにして、シリアの家庭に届けるという活動です。

本当に支援が必要されている家族をサポートする、顔の見える活用なので、支援して頂けると嬉しいです。また締め切りが近いですが、3月10日まではクラウドファンディングサイトの「READY FOR?」でも資金を集めています。ご協力よろしくお願いします。

※クラウドファンディング及びジャマールさんが活動するWhite Heart for SyriaのFacebookページは、下記のリンクからご協力ください。クラウドファンディングは2016年3月10日(木)で締め切りになりますが、その後もシリアの人々への継続的な支援を行う予定です。最新の情報はFacebookページをご覧ください。

※3月16日(水)には、シリア難民支援についてのイベントも予定されています(下記のおすすめ記事から)。こちらもぜひご参加ください。

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