被爆者とともに、平和を考える「沖縄ツアー」を行いました

ピースボートは、旅行会社たびせん・つなぐとの共催で「ピースボート&被爆者と訪ねる国境の島&本島 与那国・石垣・沖縄本島」を実施しました(10月1日から5日)。そのツアーの概要を報告します。
ツアーでは、中学生から90代まで15名が参加し、日本最西端の国境の島・与那国と石垣島、沖縄本島で進む軍備増強と住民の思いを学びました。
また、沖縄では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を与那国島の小学生に向けて行いました。また、沖縄本島では2回にわたり、一般の方に向けての証言会の機会を作りました。
ツアーでは、中学生から90代まで15名が参加し、日本最西端の国境の島・与那国と石垣島、沖縄本島で進む軍備増強と住民の思いを学びました。
また、沖縄では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を与那国島の小学生に向けて行いました。また、沖縄本島では2回にわたり、一般の方に向けての証言会の機会を作りました。
- プロジェクト: OKINAWA
INFO
2026.10.23
2026.10.23
ピースボートは、旅行会社たびせん・つなぐとの共催で「ピースボート&被爆者と訪ねる国境の島&本島 与那国・石垣・沖縄本島」を実施しました(10月1日から5日)。そのツアーの概要を報告します。
ツアーでは、中学生から90代まで15名が参加し、日本最西端の国境の島・与那国と石垣島、沖縄本島で進む軍備増強と住民の思いを学びました。
また、沖縄では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を与那国島の小学生に向けて行いました。また、沖縄本島では2回にわたり、一般の方に向けての証言会の機会を作りました。
ツアーでは、中学生から90代まで15名が参加し、日本最西端の国境の島・与那国と石垣島、沖縄本島で進む軍備増強と住民の思いを学びました。
また、沖縄では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を与那国島の小学生に向けて行いました。また、沖縄本島では2回にわたり、一般の方に向けての証言会の機会を作りました。
石垣島で学んだ戦争マラリアと、自衛隊のミサイル配備

石垣島にある八重山戦争マラリア記税者慰霊の碑
昨年の沖縄ツアーでは、太平洋戦争末期1945年3月下旬から6月にかけての沖縄戦を中心に見学しました。一方、今年は離島の石垣島と与那国島を訪れ、そこで暮らす人たちから話を聞きました。
最初に訪れたのは石垣島。ここでは、沖縄本島のような地上戦にはなりませんでしたが、米軍による空爆が続き、日本軍の命令で住民が避難させられた地区ではマラリアが蔓延しました。
その結果、戦時下の食料や薬もほとんど手に入らない状況で、体力を失っていた島民たちは瞬く間に命を落としていきました。住民の3割近くが犠牲となりました。
その中で、学び舎である学校が兵舎や野戦病院と変わり、中高生たちも准看護師として訓練を受けたり、戦争マラリアの犠牲になりました。そのことを示す「暁の塔」や「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」、「八重山平和祈念館」を訪れました。
同時に、この3年くらいで多くの自衛隊駐屯地が増大していて、ミサイル部隊も配備されていることを知りました。学校や農地として使われていた土地が自衛隊の敷地となっていく心地の悪さを感じました。
最初に訪れたのは石垣島。ここでは、沖縄本島のような地上戦にはなりませんでしたが、米軍による空爆が続き、日本軍の命令で住民が避難させられた地区ではマラリアが蔓延しました。
その結果、戦時下の食料や薬もほとんど手に入らない状況で、体力を失っていた島民たちは瞬く間に命を落としていきました。住民の3割近くが犠牲となりました。
その中で、学び舎である学校が兵舎や野戦病院と変わり、中高生たちも准看護師として訓練を受けたり、戦争マラリアの犠牲になりました。そのことを示す「暁の塔」や「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」、「八重山平和祈念館」を訪れました。
同時に、この3年くらいで多くの自衛隊駐屯地が増大していて、ミサイル部隊も配備されていることを知りました。学校や農地として使われていた土地が自衛隊の敷地となっていく心地の悪さを感じました。
日本最西端の島・与那国島にみる国境警備

与那国島の住民たちとの懇親会
台湾まで111キロの日本最西端の島・与那国島。ここは牛や馬がのんびりと草をはんでいるのどかな島です。一方、高台には自衛隊の監視レーダーがあり、周辺の空域・海域の艦艇や航空機を常時監視している緊張感もありました。
島の経済は、自衛隊駐屯地を受け入れたり、基地を作ることに頼らざるを得ない状況です。そんな中、島民たちは離島ならではの特性を生かして、産業育成などへの挑戦を続けています。
2005年には町として「自立ビジョン」を策定。台湾を望む立地を生かし「辺境の島」から「交流の島」への転換を目指しました。地元の方々との懇談会では、自衛隊に頼らざるを得ない島の経済、住民構成の変化を目の当たりにして「ミサイルは食べることができないので、自立経済のために食べられる作物を作る生活を目指したい」と話していたのが印象的でした。
島の経済は、自衛隊駐屯地を受け入れたり、基地を作ることに頼らざるを得ない状況です。そんな中、島民たちは離島ならではの特性を生かして、産業育成などへの挑戦を続けています。
2005年には町として「自立ビジョン」を策定。台湾を望む立地を生かし「辺境の島」から「交流の島」への転換を目指しました。地元の方々との懇談会では、自衛隊に頼らざるを得ない島の経済、住民構成の変化を目の当たりにして「ミサイルは食べることができないので、自立経済のために食べられる作物を作る生活を目指したい」と話していたのが印象的でした。
沖縄に残る戦争の爪痕と現在

嘉数の高台から見下ろす普天間基地
沖縄本土の那覇市では、1944年8月に撃沈された学童疎開の子どもたちを乗せた船を語り伝える「対馬丸記念館」に訪問しました。展示写真から、多くの子どもや若い家族たちが犠牲になったことを知りました。
遺族の一人である語り部の方から、「対馬丸に乗った当時小学生だった家族に二度と会えなかったこと、多くの民間人も巻き込まれた痛ましい事件であったこと」を直接聞く機会もありました。幸せに生きる権利や命をつないでいくことの大切さを感じました。
最終日には、普天間米軍基地を臨む嘉数の高台で「子どもたちに安全な空を」との思いから活動している市民団体、「コドソラ」の代表者から話を聞きました。2017年に普天間基地に隣接する保育園と小学校に、立て続けに米軍ヘリから落下物がありました。
幸いにもけが人はありませんでしたが、子どもたちが安全に暮らせるように、米軍機が定められた飛行ルートを守り学校の上空を飛ばないよう嘆願したり、日本の防衛相や全政党にも訴えを続けています。
ツアー参加者が説明を聞いている間にも、戦闘機がすぐそばを通過していきました。100デシベルの轟音は、耳をつんざくような音量で、耳をふさいでも苦しくなる音でした。この音は普天間では日常のことで、学校では轟音のたびに授業を中断するそうです。
また、米軍の消火訓練から出るPFAS(有機フッ素化合物)汚染水により、川の水も野菜作りをしていた土も汚染されました。住民の体調にも影響を与えているようです。
コドソラの方は「子どもたちに安心・安全に通学させてあげたい。静かに寝かせてあげたい。安全な水と土を提供したいだけ」と言います。「大人の諦めが子どもに連鎖することを避けたい。
家族のための時間をすり減らして活動を続けなければならないことに、大きな葛藤を抱えながらやっている」という最後の言葉には、住民たちの苦しみが滲み出ていました。
遺族の一人である語り部の方から、「対馬丸に乗った当時小学生だった家族に二度と会えなかったこと、多くの民間人も巻き込まれた痛ましい事件であったこと」を直接聞く機会もありました。幸せに生きる権利や命をつないでいくことの大切さを感じました。
最終日には、普天間米軍基地を臨む嘉数の高台で「子どもたちに安全な空を」との思いから活動している市民団体、「コドソラ」の代表者から話を聞きました。2017年に普天間基地に隣接する保育園と小学校に、立て続けに米軍ヘリから落下物がありました。
幸いにもけが人はありませんでしたが、子どもたちが安全に暮らせるように、米軍機が定められた飛行ルートを守り学校の上空を飛ばないよう嘆願したり、日本の防衛相や全政党にも訴えを続けています。
ツアー参加者が説明を聞いている間にも、戦闘機がすぐそばを通過していきました。100デシベルの轟音は、耳をつんざくような音量で、耳をふさいでも苦しくなる音でした。この音は普天間では日常のことで、学校では轟音のたびに授業を中断するそうです。
また、米軍の消火訓練から出るPFAS(有機フッ素化合物)汚染水により、川の水も野菜作りをしていた土も汚染されました。住民の体調にも影響を与えているようです。
コドソラの方は「子どもたちに安心・安全に通学させてあげたい。静かに寝かせてあげたい。安全な水と土を提供したいだけ」と言います。「大人の諦めが子どもに連鎖することを避けたい。
家族のための時間をすり減らして活動を続けなければならないことに、大きな葛藤を抱えながらやっている」という最後の言葉には、住民たちの苦しみが滲み出ていました。
沖縄・広島・長崎の共通点通して、世界のいまと平和を考える

与那国島の小学生に被爆証言をする小谷孝子さん
ツアーの期間中は、被爆証言会を4回開催しました。沖縄の方は原爆の被害について聞くことは少なく、過去の戦争と原爆、現在の日本や沖縄、そして各地で戦争が続く国際情勢を考える大変貴重な機会となったと言ってくれました。
1回目と2回目は、与那国島の小学生を対象に被爆証言会を行いました。証言したのは、6歳の時に広島で被爆した小谷孝子さんと、お母さまが17歳のときに長崎で被爆した樋口恵子さんのお二人です。三つの小学校から約60名の生徒と約10名の先生方が集まりました。
小谷さんは、腹話術人形を3歳で亡くした弟とみたてて、2人で語り合うように被爆の経験を話します。小学生たちは、自然とその会話に参加しながら真剣に聞いていました。
ある先生は「子どもたちも、教師の私も、広島、長崎の被爆の実相をこんなに詳しく個人の視点で聞いたのは初めてでした。世界に被爆証言を届けている方々が、今回は与那国島の私たちにも話しに来てくれた、という強い思いを受け取りたいです」と感想を述べました。
児童の中には、給食の時間にも関わらず、小谷さんの経験をもとにした絵本を床に座って読み通す子がいたり、樋口さんの話に出てきた「腕の皮が指先から垂れ下がっていた」のはどういうことかと質問する子もいました。それぞれに、何か感じたことがあったようです。
1回目と2回目は、与那国島の小学生を対象に被爆証言会を行いました。証言したのは、6歳の時に広島で被爆した小谷孝子さんと、お母さまが17歳のときに長崎で被爆した樋口恵子さんのお二人です。三つの小学校から約60名の生徒と約10名の先生方が集まりました。
小谷さんは、腹話術人形を3歳で亡くした弟とみたてて、2人で語り合うように被爆の経験を話します。小学生たちは、自然とその会話に参加しながら真剣に聞いていました。
ある先生は「子どもたちも、教師の私も、広島、長崎の被爆の実相をこんなに詳しく個人の視点で聞いたのは初めてでした。世界に被爆証言を届けている方々が、今回は与那国島の私たちにも話しに来てくれた、という強い思いを受け取りたいです」と感想を述べました。
児童の中には、給食の時間にも関わらず、小谷さんの経験をもとにした絵本を床に座って読み通す子がいたり、樋口さんの話に出てきた「腕の皮が指先から垂れ下がっていた」のはどういうことかと質問する子もいました。それぞれに、何か感じたことがあったようです。

那覇の牧志駅前ほしぞら公民館で行われた被爆証言会
3回目は、沖縄本島の対馬丸記念館で行われた、一般公開イベント「語りあおう、平和のこと」でした。館の見学の後に行われた企画には約30名が集まり、被爆証言だけでなく、この対馬丸の遺族の方の講和もありました。
若い子どもたちが戦争に巻き込まれた居たたまれなさ、生存者の中で「なんでうちの子じゃなくて、あんたが生き残ったのか」などの心無い言葉に一生ぬぐえない心の傷を負った人がいた話などから、被爆証言と類似している部分があると感じました。
またこの企画では、沖縄本島で平和学習などを行う、沖縄高校生平和ゼミナールの中高生の報告もありました。中高生は、今ツアーの与那国島訪問部分に同行していたので、その感想も述べました。
沖縄本島からも与那国島は遠く、なかなか訪れる機会がないので、「行ってみないとわからないことがたくさんあった。直接地元の人に聞かないと想像もできない状況があることを知った」と語りました。本島だけでなく離島のことももっと知り、声を合わせていく必要性を感じたようです。
4回目の講演会「ピースボートとつなぐ平和の輪」は、牧志駅前ほしぞら公民館で、約40名を迎えて行われました。広島で被爆した小谷さんの話と、長崎で被爆したお母さんの体験を語り継いでいる樋口恵子さんが証言を行いました。
またこの会では、「原爆と戦争展」のパネル展示を同時開催しており、「沖縄 原爆展を成功させる会」の野原郁美さんからの活動紹介もありました。野原さんの「戦争の策略の中で起こった沖縄戦と広島・長崎の原爆には、『国民が戦争にからめとられた』という共通点がある。そんな私たちが連携して沖縄の軍事化と核使用の拡大を防いでいきたい」という言葉は、多くの人の心に響いたようです。
今回の沖縄での学びを経て、日常の暮らしが戦争に繋がらないために、学びあいながら地域を超えて協力して行動していくことの大切さを再認識しました。
若い子どもたちが戦争に巻き込まれた居たたまれなさ、生存者の中で「なんでうちの子じゃなくて、あんたが生き残ったのか」などの心無い言葉に一生ぬぐえない心の傷を負った人がいた話などから、被爆証言と類似している部分があると感じました。
またこの企画では、沖縄本島で平和学習などを行う、沖縄高校生平和ゼミナールの中高生の報告もありました。中高生は、今ツアーの与那国島訪問部分に同行していたので、その感想も述べました。
沖縄本島からも与那国島は遠く、なかなか訪れる機会がないので、「行ってみないとわからないことがたくさんあった。直接地元の人に聞かないと想像もできない状況があることを知った」と語りました。本島だけでなく離島のことももっと知り、声を合わせていく必要性を感じたようです。
4回目の講演会「ピースボートとつなぐ平和の輪」は、牧志駅前ほしぞら公民館で、約40名を迎えて行われました。広島で被爆した小谷さんの話と、長崎で被爆したお母さんの体験を語り継いでいる樋口恵子さんが証言を行いました。
またこの会では、「原爆と戦争展」のパネル展示を同時開催しており、「沖縄 原爆展を成功させる会」の野原郁美さんからの活動紹介もありました。野原さんの「戦争の策略の中で起こった沖縄戦と広島・長崎の原爆には、『国民が戦争にからめとられた』という共通点がある。そんな私たちが連携して沖縄の軍事化と核使用の拡大を防いでいきたい」という言葉は、多くの人の心に響いたようです。
今回の沖縄での学びを経て、日常の暮らしが戦争に繋がらないために、学びあいながら地域を超えて協力して行動していくことの大切さを再認識しました。




