パンフレットをでお届け
資料請求

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
ピースボートは、旅行会社たびせん・つなぐとの共催で「被爆・沖縄戦体験証言会ツアー」を実施しました(10月3日から7日)。過去のクルーズやツアーに参加した人が、中学生から80代まで15名参加しました。そのツアーの概要を報告します。

ツアーでは、関東や九州から集まった参加者が、琉球以来の沖縄の歴史と文化を知り、沖縄戦の戦跡を訪れ、米軍基地と隣り合わせの現実を学びました。

また、沖縄本島や宮古島では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を沖縄の中高生や一般の方に向けて話す機会も作りました。
INFO
ピースボートは、旅行会社たびせん・つなぐとの共催で「被爆・沖縄戦体験証言会ツアー」を実施しました(10月3日から7日)。過去のクルーズやツアーに参加した人が、中学生から80代まで15名参加しました。そのツアーの概要を報告します。

ツアーでは、関東や九州から集まった参加者が、琉球以来の沖縄の歴史と文化を知り、沖縄戦の戦跡を訪れ、米軍基地と隣り合わせの現実を学びました。

また、沖縄本島や宮古島では、広島や長崎の被爆体験を聞く機会が少ないので、同行した広島の被爆者・小谷孝子さんの腹話術による被爆体験を沖縄の中高生や一般の方に向けて話す機会も作りました。

ひめゆり学徒隊とガマ、首里城から、沖縄戦を学ぶ

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
ひめゆり平和祈念資料館
沖縄戦とは、太平洋戦争末期の1945年3月下旬から6月にかけて、沖縄本島を主戦場に、米国軍を中心とする連合国軍と日本軍との間で行われた、日本国内で最大規模の地上戦です。この戦闘では、多くの軍人と一般住民が巻き込まれ、甚大な犠牲者を出しました。住民が戦闘に直接巻き込まれたり、壕を拠点とするなど、軍人と住民が混在した悲惨な戦いとなったのが特徴です。

ひめゆり平和祈念資料館では、軍の命令で看護要員として沖縄陸軍病院に動員され、負傷兵の看護にあたったひめゆり学徒隊の体験を学ぶとともに、ビデオに記録された生存者の証言を聞きました。

また、沖縄戦を指揮していた日本軍第32軍が最後の司令部を置いた摩文仁の丘を訪れました。ここは、日本軍の組織的戦闘が終結した場所として、「沖縄戦終焉の地」とも言われています。しかし、沖縄での局地的な戦闘は終戦まで続き、犠牲者は膨れ上がりました。摩文仁の丘では、牛島満司令官が自決した洞窟(沖縄では「ガマ」)や、第32軍の補佐として行動をともにしていた鉄血勤皇隊が身を潜めていた洞窟を見学しました。

琉球王国の歴史がはぐくんだ万国津梁の精神

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
世界遺産に登録されている、美しい石垣の中城グスク
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の1つとして2000年に世界遺産に登録された首里城は現在、2019年に発生した火災によって焼失した正殿などの再建中でした。ここでは、首里城の地下にあった日本軍第32軍司令部壕跡や、戦火によって被害を受けながらも生き延びた樹木も見て回りました。

琉球の歴史がはぐくんだ「万国津梁(ばんこくしんりょう)」。それは立地を生かし、万国との津梁=架け橋として、いくさではなく交易や交流で繁栄を目指す精神のことです。その中で重要な役割を果たした具志川グスクと中城グスクを見学し、朝鮮半島や中国大陸、日本と交易をおこなっていたことを想像しました。外洋や交易を意識した石垣などの構造を目にして、沖縄の技術や歴史を感じました。

沖縄に残る戦争の爪痕と現在

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
8つの核ミサイル発射台跡
沖縄が米国統治下だったころ、4つの米軍基地に核ミサイルが配備され、その数は1,300発もあったことを学びました。4つのうち唯一残っている、恩納村にある核ミサイルメースB発射台跡地を訪問しました。

1962年のキューバ危機の際には、ボタンを押せばすぐに発射できる臨戦態勢が取られていました。参加者の一人は、「もし実際に発射され、日本は核兵器の被害と加害の国になっていたと思うと恐ろしい」という感想を述べました。

宜野湾市にある 佐喜真美術館では、丸木位里・俊夫妻の「沖縄戦の図」と、6月23日慰霊の日に合わせてデザインした屋上を見学しました。なお、この美術館の土地は普天間基地から返還されたたものになります。

宮古島に移動した後は、隣りの伊良部島に渡りかつて自衛隊誘致反対運動が起こった出来事を聞き、日米合同軍事演習が行われた渡久地の浜などを訪れました。日本軍「慰安婦」のいた場所や、自衛隊施設がどんどん増えていることなどから、今もなお日常生活の隣に軍事がある宮古島の一面を学びました。

証言会を通して、過去を知り未来につなぐ

沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
原爆被爆者の小谷孝子さん(左)、沖縄戦体験者の玉木利枝子さん(中央)、ピースボート渡辺
ツアーの期間中は、被爆証言会を5回も開催しました。沖縄戦の証言を聞くことが多い沖縄の方にとって、原爆の被害について聞くことは少なく、「改めて聞くと衝撃が大きく、広い視野で戦争をとらえないといけない」という感想が出ました。

1回目の佐喜真美術館では、6歳の時に広島で被爆した小谷孝子さんと11歳のときに沖縄戦を体験した玉木利枝子さんによる証言会を開催し、約50名近い沖縄の方が訪れました。玉木さんの「沖縄も広島も長崎も、日本中で起こった空襲も、どこが悲惨だったのかなんて、簡単に比較できるものではないし、比較するものではない。この悲劇を繰り返さないためにも戦争はしてはいけない」 という言葉は、聞いていた人の心にわかりやすく染み込んでいました。

2回目は、栄町市場にあるひめゆりピースホールで、平和学習などをおこなう高校生平和ゼミナールの中高生や地元市民に向けて話しました。ひめゆりピースホールは、ひめゆり学徒隊の母校である「沖縄師範学校女子部」や「県立第一高等女学校」があった場所につくられました。前半はピースボートの渡辺里香が、国際交流の面白さや難しさなど、自身の経験を話しました。後半は、小谷孝子さんが被爆体験を話しました。3歳で亡くなった弟の姿を腹話術人形に写し、2人で語り合うように話すスタイルが中高学生の心に強く響きました。

3回目となる南城市にある佐敷教会では、長崎で被爆したお母さんの体験を語り継いでいる樋口恵子さんや、「すくぶん」というチーム名で歌や三線で沖縄戦のことなどを伝える活動をしている新垣成世さんも登壇しました。沖縄戦のことやその後の復興への想いが込められた民謡を披露していただいたことが印象的でした。
沖縄戦の体験や軍隊について学ぶ「沖縄ツアー」を行いました
宮古島で「これからは被爆体験だけでなく沖縄戦のことも語っていきます」と小谷孝子さん
4回目からは宮古島で、ピースボートの渡辺里香、小谷孝子さん、樋口恵子さんの3名が、 就労継続支援をしている宮古島カルディアで証言会を行いました。約30名の方が、初めて聞く被爆の話に真剣に耳を傾けました。

最後5回目は、宮古島の市民約40名に向けた証言会でした。今回のツアーで沖縄戦のことを学んだ被爆者の小谷孝子さんは「これからは被爆体験だけでなく沖縄戦のことも学生たちに伝えていきます」と力強く話しました。参加した宮古島の方々は嬉しそうに頷き、なかには涙を流す人もいました。証言会に参加した高校生からは「思い出すのも、お話するのも辛いことだけれど、小谷さんの証言に希望も感じました」というコメントが出ました。

今回の沖縄での学びを経て、核兵器の使用や武力による戦闘を防ぐには、学びあいながら力を合わせて行動していくことの必要性を改めて認識しました。

このレポートを読んだ方におすすめ