カンボジアの人々との交流・森田幸子と「カンボジアから地雷をなくそう100円キャンペーン」(Vol.2)
ピースボート地雷廃絶キャンペーン(P-MAC)は、これまで20年以上にわたって活動してきました。P-MACの活動の1つである「カンボジアから地雷をなくそう100円キャンペーン」は、200万㎡以上の土地の地雷除去を支援し、大きな成果を上げています。その活動の中心メンバーである森田幸子が、これまでの歩みを振り返ります。2回目は、森田が出会ったカンボジアの人々の様子を通じて、地雷がもたらす問題の深刻さを伝えます。
※森田幸子は、長年の地雷廃絶活動での貢献が認められ、カンボジア政府から2014年に「カンボジア王国友好勲章」、2016年に「ソワタラ勲章」を受章しました。
※森田幸子は、長年の地雷廃絶活動での貢献が認められ、カンボジア政府から2014年に「カンボジア王国友好勲章」、2016年に「ソワタラ勲章」を受章しました。
- プロジェクト: 地雷廃絶キャンペーン(P-MAC)
- 寄港地エリア: アジア
- 関連キーワード: 国際協力 / 紛争
船
2021.2.16
2021.3.10
ピースボート地雷廃絶キャンペーン(P-MAC)は、これまで20年以上にわたって活動してきました。P-MACの活動の1つである「カンボジアから地雷をなくそう100円キャンペーン」は、200万㎡以上の土地の地雷除去を支援し、大きな成果を上げています。その活動の中心メンバーである森田幸子が、これまでの歩みを振り返ります。2回目は、森田が出会ったカンボジアの人々の様子を通じて、地雷がもたらす問題の深刻さを伝えます。
※森田幸子は、長年の地雷廃絶活動での貢献が認められ、カンボジア政府から2014年に「カンボジア王国友好勲章」、2016年に「ソワタラ勲章」を受章しました。
※森田幸子は、長年の地雷廃絶活動での貢献が認められ、カンボジア政府から2014年に「カンボジア王国友好勲章」、2016年に「ソワタラ勲章」を受章しました。
地雷を除去しているのはどんな人々?
ピースボートのスタッフになって、カンボジアの地雷除去や被害者への支援に関わるようになると、ひとり1人のストーリーを知ることの重要性を感じました。何個の地雷が埋まっていて何人が地雷被害にあっているかなどのデータは大切ですが、数字だけでは問題の本質が見えてきません。地雷被害者、地雷原の村に暮らす人々、彼らを支援する団体の職員など多くの人々に話を聞き、それをできるだけ詳しく伝えようとしてきました。
そんな時にふと思ったのが、「地雷除去を仕事としている人は誰なのか?」ということでした。メディアや書籍などで地雷問題が取り上げられる時、地雷被害者の話は割とよく出てきます。そういえば、地雷除去団体が紹介されることはあっても、個々の地雷除去員にスポットを当てた話は聞きません。でも、そこにもひとり一人のストーリーがあるはず。そんな想いから実現したのが、2008年に開催した地雷除去員を日本に招いてのトークイベントでした。
パートナーである地雷除去団体「カンボジア地雷対策センター(CMAC)」に相談したところ、1人の地雷除去員を推薦してもらいました。ヤン・サンポスさんという、当時25歳の女性でした。私は、彼女と直接話をするためにカンボジアへ行きました。カンボジア東部プレイヴェン州のとある学校に行くと、子どもたちが勉強している校舎のすぐ横で、不発弾の除去作業が行われていました。その中にサンポスさんがいました。
サンポスさんは、CMACの爆発物探知犬チームの一員として、パートナーのフィレンという探知犬と一緒に働いていました。地雷除去員というと屈強な男性を思い浮かべる人が多いかもしれません。たしかに、男性が多い職業ではありますが、女性も多く活躍しています。
地雷原の村で貧しい生活を強いられている女性は、国境を越えて働きに行かなければならなかったり、中にはだまされて人身売買や売春の被害に遭うケースもあります。CMACでは、そのような状況から女性を救い出し、自分の故郷やその付近の地雷除去をすることで、家族と暮らしながら仕事ができるようにしようと考え、2003年頃から女性を雇用するようになりました。そのような経緯で、地雷原の村出身のサンポスさんはCMAC初の女性地雷除去員になりました。
実際に会ったサンポスさんは、自分の仕事に誇りを持っている落ち着いた芯の強そうな女性でした。そんな彼女のイメージからこのトークイベントのタイトルを「カンボジアの大地をとりもどす女性たち」としました。
そんな時にふと思ったのが、「地雷除去を仕事としている人は誰なのか?」ということでした。メディアや書籍などで地雷問題が取り上げられる時、地雷被害者の話は割とよく出てきます。そういえば、地雷除去団体が紹介されることはあっても、個々の地雷除去員にスポットを当てた話は聞きません。でも、そこにもひとり一人のストーリーがあるはず。そんな想いから実現したのが、2008年に開催した地雷除去員を日本に招いてのトークイベントでした。
パートナーである地雷除去団体「カンボジア地雷対策センター(CMAC)」に相談したところ、1人の地雷除去員を推薦してもらいました。ヤン・サンポスさんという、当時25歳の女性でした。私は、彼女と直接話をするためにカンボジアへ行きました。カンボジア東部プレイヴェン州のとある学校に行くと、子どもたちが勉強している校舎のすぐ横で、不発弾の除去作業が行われていました。その中にサンポスさんがいました。
サンポスさんは、CMACの爆発物探知犬チームの一員として、パートナーのフィレンという探知犬と一緒に働いていました。地雷除去員というと屈強な男性を思い浮かべる人が多いかもしれません。たしかに、男性が多い職業ではありますが、女性も多く活躍しています。
地雷原の村で貧しい生活を強いられている女性は、国境を越えて働きに行かなければならなかったり、中にはだまされて人身売買や売春の被害に遭うケースもあります。CMACでは、そのような状況から女性を救い出し、自分の故郷やその付近の地雷除去をすることで、家族と暮らしながら仕事ができるようにしようと考え、2003年頃から女性を雇用するようになりました。そのような経緯で、地雷原の村出身のサンポスさんはCMAC初の女性地雷除去員になりました。
実際に会ったサンポスさんは、自分の仕事に誇りを持っている落ち着いた芯の強そうな女性でした。そんな彼女のイメージからこのトークイベントのタイトルを「カンボジアの大地をとりもどす女性たち」としました。
カンボジアの大地をとりもどす女性たち
サンポスさんは約2週間、日本に滞在し、東京・大阪・福岡の3か所でトークイベントを行いました。彼女は自身の体験や地雷除去員としての仕事をとおして、カンボジアの地雷や貧困の問題について話してくれました。
サンポスさんは地雷が多く埋まる村で生まれ育ちました。お父さんは地雷被害者です。家が貧しく、中学1年生の時には学校をやめて働きに出なくてはいけなくなりました。20歳の時にCMACが女性の地雷除去員を募集していることを知り、収入を得ることで家族を救いたい、そして私たちを苦しめてきた地雷をなくしたいとの想いから除去員になりました。
トークイベントの参加者は、多くがサンポスさんと同年代の若者でした。そしてサンポスさんには、ピースボートのボランティアスタッフが行っている街頭募金活動にも参加してもらいました。彼らが一緒に何気ない話をしたり、ご飯を食べたりしているのを見ると、違和感はありません。本当に日本のそこら中で見る友だち同士の光景です。自分と同じような年齢で同じように楽しんでいる1人の女性が、地雷が当たり前にある中で育ち、今はその地雷を除去するための危険な仕事をしている。そんな彼女との交流は、日本の人々にとって地雷問題をより身近なものにしたのではないでしょうか。
サンポスさんは「日本にもカンボジアの地雷問題のために活動してくれている人がいることを知れてよかった」と言ってくれました。カンボジアの地雷原の村で生まれ育ち、地雷除去の仕事をしている彼女にとって、まさか会うことがあると思えなかった日本の人々が、カンボジアの地雷除去のために行動していることは、彼女にとっても大きな希望になりました。
サンポスさんは地雷が多く埋まる村で生まれ育ちました。お父さんは地雷被害者です。家が貧しく、中学1年生の時には学校をやめて働きに出なくてはいけなくなりました。20歳の時にCMACが女性の地雷除去員を募集していることを知り、収入を得ることで家族を救いたい、そして私たちを苦しめてきた地雷をなくしたいとの想いから除去員になりました。
トークイベントの参加者は、多くがサンポスさんと同年代の若者でした。そしてサンポスさんには、ピースボートのボランティアスタッフが行っている街頭募金活動にも参加してもらいました。彼らが一緒に何気ない話をしたり、ご飯を食べたりしているのを見ると、違和感はありません。本当に日本のそこら中で見る友だち同士の光景です。自分と同じような年齢で同じように楽しんでいる1人の女性が、地雷が当たり前にある中で育ち、今はその地雷を除去するための危険な仕事をしている。そんな彼女との交流は、日本の人々にとって地雷問題をより身近なものにしたのではないでしょうか。
サンポスさんは「日本にもカンボジアの地雷問題のために活動してくれている人がいることを知れてよかった」と言ってくれました。カンボジアの地雷原の村で生まれ育ち、地雷除去の仕事をしている彼女にとって、まさか会うことがあると思えなかった日本の人々が、カンボジアの地雷除去のために行動していることは、彼女にとっても大きな希望になりました。
サンポスさんと過ごした2週間
私はこの2週間のほとんどをサンポスさんと一緒に過ごしました。一緒に水族館へ行ったり、料理をしたり、京都や奈良を観光したり、日本の小学校を見学したり。その中でも、広島の平和記念公園でボランティアガイドの方の説明を聞きながら、原爆投下について学んだことが、思い出に残っています。
人々に大きな被害をもたらし戦後も苦しめ続ける原爆は、サンポスさんにとっては地雷問題とも重なる部分が多くあったのだと思います。その翌日、一緒に折り鶴を折って平和記念公園に供えました。
彼女は私のことを「お姉さん」と呼んでいて、本当に姉妹のような存在になりました。その後何度か会うことができましたが、ピースボートが地雷除去支援をしている地域は彼女が活動している場所とは離れているため、最近は会う機会がありませんでした。
2016年にカンボジアへ行ったときは、彼女が活動するバッタンバン州を訪問しました。そこで会ったCMACスタッフに聞いてみると、彼女は今も地雷除去員として活動していると聞きました。より高度な技術を身につけて、ベテランの除去員となっていました。いつかまた、彼女と会ってゆっくりと、彼女のその後のストーリーを聞いてみたいと思います。
※サンポスさんのトークイベントの内容は一番下にあるリンク「トークイベント『カンボジアの大地をとりもどす女性たち』」よりご覧ください。
人々に大きな被害をもたらし戦後も苦しめ続ける原爆は、サンポスさんにとっては地雷問題とも重なる部分が多くあったのだと思います。その翌日、一緒に折り鶴を折って平和記念公園に供えました。
彼女は私のことを「お姉さん」と呼んでいて、本当に姉妹のような存在になりました。その後何度か会うことができましたが、ピースボートが地雷除去支援をしている地域は彼女が活動している場所とは離れているため、最近は会う機会がありませんでした。
2016年にカンボジアへ行ったときは、彼女が活動するバッタンバン州を訪問しました。そこで会ったCMACスタッフに聞いてみると、彼女は今も地雷除去員として活動していると聞きました。より高度な技術を身につけて、ベテランの除去員となっていました。いつかまた、彼女と会ってゆっくりと、彼女のその後のストーリーを聞いてみたいと思います。
※サンポスさんのトークイベントの内容は一番下にあるリンク「トークイベント『カンボジアの大地をとりもどす女性たち』」よりご覧ください。
地雷原で暮らすロンさん
地雷原に暮らす人々とも、多くの交流がありました。地雷除去支援は、そこに暮らす人々のために行うものなので、彼らとお互いに理解しあい、信頼できる関係をつくることが大切だと考えています。そのため、カンボジアを訪問するたびに、支援する村の人々と話し合いの時間を持っています。
これまで、村長や先生、お年寄りから子どもまで、いろんな方と話をしました。私がカンボジアに行く頻度はおよそ年に1~2回ですが、何度も訪れている場所では同じ人が歓迎してくれたり、一緒に写っている写真を家に飾ってくれていたりもして、覚えていてくれたことにうれしくなります。
時には、コミュニケーションをとること自体が難しいこともあります。ある村の村長に話を聞いた時は、会話が成り立たない状態でした。現地の方と話しをする時は、日本語・クメール語のカンボジア人通訳者に同行してもらっています。わたしが1つ質問をしたあと、村長と通訳の方が何度もやり取りをしていましたが、答えを得ることはできませんでした。
特に難しい質問ではなく、通訳も問題ないのですが、村長が質問を理解できなかったり、どのように答えたらいいかがわからないようでした。村長は内戦の時代に教育を受けられなかった1人です。こんなところでも深刻な教育問題を実感しました。
2013年に、地雷除去支援をしたシェムリアップ州のトロペアンクナー村で出会った女性のことは、今でも印象に残っています。この村では、人々が畑として使っていた土地が地雷原でした。その地雷原の真横にチェット・ロンさんの家がありました。地雷除去がはじまる前に村を訪問したとき、私はロンさんと長いあいだ話をして、村の状況を教えてもらいました。
「地雷や不発弾が見つかったら、触ったり燃やしたりしないように気をつけています。今は地雷原の草を刈って畑を作ろうとしています。危険なことはわかっているけど、そうしないと生活できない。仕方がないんです」
そのあとすぐに地雷除去が行われて、この土地は安全になりました。除去後にこの村を訪れると、ロンさんが出迎えてくれました。でも、彼女の家はなくなっていました。彼女の夫は交通事故で足を切断する大けがをしました。その治療費を払うために、家を解体して木材を売り、それからは近所の家の軒下に住んでいました。
大変な状況でしたが、彼女はわたしとの再会を喜んでくれ「今は、安全になった畑で育てた作物を売って、もう一度同じ場所に家を建てるためにがんばっています」と語りました。トロペアンクナー村にはその後行っていませんが、今でもロンさんのことはよく覚えていて、彼女が安全に健康に暮らしていることを願ってやみません。
これまで、村長や先生、お年寄りから子どもまで、いろんな方と話をしました。私がカンボジアに行く頻度はおよそ年に1~2回ですが、何度も訪れている場所では同じ人が歓迎してくれたり、一緒に写っている写真を家に飾ってくれていたりもして、覚えていてくれたことにうれしくなります。
時には、コミュニケーションをとること自体が難しいこともあります。ある村の村長に話を聞いた時は、会話が成り立たない状態でした。現地の方と話しをする時は、日本語・クメール語のカンボジア人通訳者に同行してもらっています。わたしが1つ質問をしたあと、村長と通訳の方が何度もやり取りをしていましたが、答えを得ることはできませんでした。
特に難しい質問ではなく、通訳も問題ないのですが、村長が質問を理解できなかったり、どのように答えたらいいかがわからないようでした。村長は内戦の時代に教育を受けられなかった1人です。こんなところでも深刻な教育問題を実感しました。
2013年に、地雷除去支援をしたシェムリアップ州のトロペアンクナー村で出会った女性のことは、今でも印象に残っています。この村では、人々が畑として使っていた土地が地雷原でした。その地雷原の真横にチェット・ロンさんの家がありました。地雷除去がはじまる前に村を訪問したとき、私はロンさんと長いあいだ話をして、村の状況を教えてもらいました。
「地雷や不発弾が見つかったら、触ったり燃やしたりしないように気をつけています。今は地雷原の草を刈って畑を作ろうとしています。危険なことはわかっているけど、そうしないと生活できない。仕方がないんです」
そのあとすぐに地雷除去が行われて、この土地は安全になりました。除去後にこの村を訪れると、ロンさんが出迎えてくれました。でも、彼女の家はなくなっていました。彼女の夫は交通事故で足を切断する大けがをしました。その治療費を払うために、家を解体して木材を売り、それからは近所の家の軒下に住んでいました。
大変な状況でしたが、彼女はわたしとの再会を喜んでくれ「今は、安全になった畑で育てた作物を売って、もう一度同じ場所に家を建てるためにがんばっています」と語りました。トロペアンクナー村にはその後行っていませんが、今でもロンさんのことはよく覚えていて、彼女が安全に健康に暮らしていることを願ってやみません。
地雷原の村に暮らす人々のために行動するチュオンさん
最後にもう一人、紹介したいと思います。「カンボジア地雷対策センター(CMAC)」のシェムリアップセンター副所長だったチュオンさんは、約10年「カンボジアから地雷をなくそう100円キャンペーン」の支援に関わってくださいました。地雷除去支援する自治体や関係者との調整をし、私が現地を視察するときはいつも案内をして、現地の様子を細かく教えてくれました。おしゃべり好きで陽気な、私にとっては長年の頼もしいパートナーでした。
チュオンさんとは、地雷除去支援をしたいろんな村に一緒に行きましたが、常に人々の安全に気を使っていました。地雷原のそばで暮らしている人々には声をかけて、地雷の危険性を伝えて地雷原に入らないよう時間をかけて話していました。ピースボートは、地雷除去とその土地への小学校建設も支援していますが、チュオンさんは地雷除去後の学校建設がスムーズに進むように手配をしてくれていました。「これが滞ってしまったら子どもたちの学ぶ機会が失われてしまう。一刻も早く子どもたちが学校に行けるようになること以上に大事なことはない」と力強く語っていました。
チュオンさんは数年前にCMACを退職して、今は生まれ故郷に戻って農業をしています。今でもたまに連絡をくれたり、交流は続いています。少し前には、ピースボートが2016年に地雷除去と建設を支援したスナハイ村の小学校に、家族で訪問した写真を送ってくれました。スナハイ村は彼の故郷からはずいぶん離れていて、険しい道を進まないとたどり着けない場所です。今もそこに暮らす人々が安全に暮らせることに心を配っています。
地雷除去は、ただ地雷をなくすことが目的ではなくて、その土地が使えるようになり、そこに暮らす人々が安全に、幸せに生きられる環境をつくることです。チュオンさんは、地雷除去に携わる人たちがそのような想いで仕事をしていることを教えてくれました。
※次回は、P-MACが地雷除去支援をしているスナハイ村やピースボートが行なうスタディーツアーを紹介することで、今も続く地雷問題をお伝えします。
※地雷廃絶のための募金にご協力ください。「カンボジアから地雷をなくそう100円キャンペーン」についての詳細は下の「この記事を読んだ方におすすめ」からご覧ください。
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チュオンさんは数年前にCMACを退職して、今は生まれ故郷に戻って農業をしています。今でもたまに連絡をくれたり、交流は続いています。少し前には、ピースボートが2016年に地雷除去と建設を支援したスナハイ村の小学校に、家族で訪問した写真を送ってくれました。スナハイ村は彼の故郷からはずいぶん離れていて、険しい道を進まないとたどり着けない場所です。今もそこに暮らす人々が安全に暮らせることに心を配っています。
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※次回は、P-MACが地雷除去支援をしているスナハイ村やピースボートが行なうスタディーツアーを紹介することで、今も続く地雷問題をお伝えします。
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