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【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
アデレードでの証言後、参加者が手作りしたバナーを掲げて
今回は、第96回ピースボート・オセアニア一周クルーズ(2018年1月出航)に、「おりづるユース」として乗船した安藤真子さんに寄稿いただきました。当クルーズでは、「おりづるプロジェクト〜オーストラリア特別編〜」として、4名の被爆者と1名のおりづるユースが参加して、オーストラリア5都市で証言活動を行いました。また、広島出身の安藤真子さんは、乗船時22歳。安藤真子さんは、2018年9月1日に出航し現在航行中の第99回ピースボート地球一周の船旅でも、おりづるユースとして乗船しています。
アデレードでの証言後、参加者が手作りしたバナーを掲げて
今回は、第96回ピースボート・オセアニア一周クルーズ(2018年1月出航)に、「おりづるユース」として乗船した安藤真子さんに寄稿いただきました。当クルーズでは、「おりづるプロジェクト〜オーストラリア特別編〜」として、4名の被爆者と1名のおりづるユースが参加して、オーストラリア5都市で証言活動を行いました。また、広島出身の安藤真子さんは、乗船時22歳。安藤真子さんは、2018年9月1日に出航し現在航行中の第99回ピースボート地球一周の船旅でも、おりづるユースとして乗船しています。

チャンスを活かした自分に感謝したい

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
三宅信雄さんとともに
私は、第96回ピースボートに「おりづるユース」として乗船しました。このクルーズで、被爆者の方々と共に旅をした56日間のことは、旅が終わって半年近くが経つ今も鮮やかに思い出すことができます。あんなに濃く、そして心を動かされた時間は、きっとこれからもないのではないかと思うほどです。

私が96回クルーズのおりづるユースの募集を知ったのは、出発まで1ヶ月を切った時期でした。あのとき「このチャンスは逃しちゃいけない!」と思い即決した自分に、いまは感謝したいくらいです。

本当にたくさんの印象的な出会いがありました。広島・長崎の被爆者、福島第一原発事故の被害者、オーストラリアの核実験被害者、ウラン採掘をはじめとする核産業に反対するアボリジニの人々…。どの出会いも、語り出したらいくらでも語れる気がします。

大好きな○○さんは「被爆者」になった

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
ともに旅をした田中煕巳さんとともに
特に、広島・長崎の被爆者の方々との出会いは、私のこれまでの「被爆者」との関係を大きく変えました。私は船内で、3名の「被爆者」の方たちと出会います。しかし、56日間という決して短くはない時間を共に過ごすうちに、彼らはいつの間にか「被爆者」という存在から、「私の大好きな◯◯さん」という存在に変わっていきました。

広島出身の私は、高校時代から平和活動に携わり、被爆体験のインタビューも行ってきました。インタビューを通して出会う方々との関係は、多くても2〜3回で終わってしまいます。今回の旅を通じて、被爆者の方々と関わることが特別なことではなかった私の中でも、彼らを「被爆者」としてラベリングしている面があったのだと気付かされました。

「被爆者の◯◯さん」から「私の大好きな〇〇さん」に変わっていく中で、もう一つ視点が大きく変わったことがあります。それは、「あの日、大好きな◯◯さんが被爆者になった」ということです。私は家から自転車で20分の距離に原爆ドームがあり、地元の公園では73年前に遺体が焼かれていました。そんな地元広島で生まれ育った私にとって「あの日」は確かに刻まれていると感じていました。

しかし、どれだけ被爆者の話を聞いても、原爆ドームの前に立っても、島病院(爆心地)の下から原爆が炸裂した空を見上げても、私には「あの日」をわかることができませんでした。被爆者から聞く話はどれも怖すぎて現実味を帯びておらず、原爆絵図はそれが実際に起きたことだと理解するには難しいほど、おどろおどろしいからです。

でも、大好きな3名の方々と一緒に旅をして、被爆体験を聞いたり、一緒にお酒を飲みながらおしゃべりをする中で、確かに「あの日、大好きな〇〇さんは被爆者」になったのだと感じるようになりました。そして同時に、あの原子爆弾が、〇〇さんを被爆者にしたということも。すこしだけ「あの日」が近くなったように感じたのは、この3名の方々との出会いがあったからです。

ウランの被害を受けたアボリジニ

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
メルボルンで証言をするアボリジニのカリーナ・レスターさん
このクルーズの「おりづるプロジェクト」は、「オーストラリア特別編」と名付けられている通り、オーストラリアで寄港した5都市のすべてで証言活動を行いました。

特に、ウラン採掘や核実験が行われ、核廃棄物貯蔵予定地になっているオーストラリアで、広島・長崎の被爆者らが証言をすることには本当に意義があったと感じています。

先住民族アボリジニの女性で、お父さんが核実験の被害にあったカリーナ・レスターさんは、こんな話をしてくれました。地中に埋まっているウランは放射性物質ですが、彼らの中では毒性があることが科学的に明らかになるずっと以前から、「(ウランという)毒はそのまま触らずに残しておけ」と言い伝えられてきたそうです。

にもかかわらず、自分たちの住んでいた場所にやってきた外国人によって、文化も住むところも言語も奪われ、核実験が行われました。そしてウラン鉱山開発が現在も続いています。

私は、アボリジニの方たちが大切なものを奪われてきた歴史、あるいはいま現在も奪われ続けている歴史を知りました。そして、それでもなお立ち上がり、闘い続ける姿を目の前にして、胸がしめつけられました。どんな苦しみなのか、どんなに長い闘いなのか、私には想像が及びません。

ヒバクシャになるのはいつも誰かの大事な人

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
シドニーの日本大使館前での核兵器禁止条約への署名を求めるアピール
もうひとつ、ウランについて印象的な話をアボリジニの方から教えてもらいました。

「長い間、『ウランは危険だ』と伝えられてきました。そして、それが他の場所で使われることを恐れていました。ヒロシマにウランを使った爆弾が落とされた時、私たちの土地のウランが他の国の人々を傷つけることになるなんて!と、とても悲しみました。それから6ヶ月間もの間、私たちは体に白い粉を塗り、アボリジニの伝統的なやり方で喪に服しました。今でも、そのことで心を痛めています」

私は広島に生まれ育ち、多くの被爆者の話を聞いてきました。でも、広島から遠く離れたオーストラリアの地で6ヶ月間も、地獄と化した広島のことを想ってくれていた、ということを初めて耳にしました。

そして「申し訳ない。本当にごめんなさい」と謝るその姿に、涙が溢れました。広島と同じように核によって傷ついてきた多くの先住民族。そしてどうにか食い止めようと闘ってきた人たちが、どうして謝らなければならないのでしょうか?そんな複雑な気持ちに、胸がいっぱいになりました。

ヒバクシャになるのは、いつでもふつうの市民です。誰かの大事な人です。核産業、核エネルギー、核廃棄物、核兵器…。ヒバクシャを生み出すそのような脅威と、人類はどうして共に生きてく必要があるのでしょうか?

いつまでそんな構造を受け入れていくのでしょうか?オーストラリアでの出会いは、そんな原点に立ち返ることができる時間となりました。

広島と長崎の日に

【寄稿】被爆者になるのはいつも誰かの大事な人(おりづるユース:安藤真子さん)
日本に帰国して、73回目の「はちろく(8月6日)」と「はちく(8月9日)」を、広島と長崎で過ごしました。私は広島の平和祈念式典には、平和活動に携わりはじめた高校1年生からずっと出席してきました。

毎年、黙祷の鐘が鳴ると同時に、目をつむり、想像します。原子爆弾が島病院上空約580メートルで炸裂する。ピカッと光り光線が広島の街を包み込む。少し遅れて「ドンッ!」とくる。そして、私がこれまで聞いてきた被爆証言の中の光景や原爆絵図の光景を描きます。今年も同じでした。

でも、今年ははじめて、黙祷をしながら涙が溢れてきました。想像の中の広島の街に、確かに「大好きなあの人がいる」と感じることができたからです。いままでは理解したくてもわかることができなかったあの日に、少しだけ色が加わったように思います。

長崎の平和祈念式典では、被爆者の田中煕巳さんが、「平和への誓い」を読まれました。田中さんは、オーストラリアの区間に乗船された水先案内人で、私の大好きな人の一人です。私は田中さんが読む「平和への誓い」を聞きながら、田中さんと一緒にメルボルンを散歩したことを思い出していました。

話したことのない被爆者の「平和への誓い」を聞くのとは、大きな違いだったはずです。田中さんと出会えたことで、長崎が少し近くなったように感じました。被爆者の方たちとともに旅をしたことで、そんな8月を広島と長崎で過ごすことができて、本当に良かったと思っています。

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