【特集:共生の船】船での日々がいつか必ず日中友好につながると信じて

ピースボートの「地球一周の船旅」は100日に及びますが、約3分の2は船内で過ごす洋上日(航海日)です。船が旅の手段でありながら生活空間でもあるというのは、ピースボートクルーズのひとつの大きな特徴です。これまで本特集で扱ってきたように、船には様々な地域から参加者が集まります。多様なニーズを汲みながら参加者の船内生活をサポートするスタッフの中には、多言語を駆使して働くスタッフが多くいます。
今回は2011年以降クルーズスタッフとして乗船を重ねてきた、中国出身で、現在は日本国籍を持つ谷慶子さん を紹介します。
今回は2011年以降クルーズスタッフとして乗船を重ねてきた、中国出身で、現在は日本国籍を持つ谷慶子さん を紹介します。
- プロジェクト: SDGs キャンペーン
船
2026.3.17
2026.3.30
ピースボートの「地球一周の船旅」は100日に及びますが、約3分の2は船内で過ごす洋上日(航海日)です。船が旅の手段でありながら生活空間でもあるというのは、ピースボートクルーズのひとつの大きな特徴です。これまで本特集で扱ってきたように、船には様々な地域から参加者が集まります。多様なニーズを汲みながら参加者の船内生活をサポートするスタッフの中には、多言語を駆使して働くスタッフが多くいます。
今回は2011年以降クルーズスタッフとして乗船を重ねてきた、中国出身で、現在は日本国籍を持つ谷慶子さん を紹介します。
今回は2011年以降クルーズスタッフとして乗船を重ねてきた、中国出身で、現在は日本国籍を持つ谷慶子さん を紹介します。
「人生の終わりに」と初めて乗ったピースボートでみた景色

第74回クルーズに乗船した中国海洋大学の学生と
谷慶子さんがピースボートに出会ったのは2011年のこと。その年の7月に出航した第74回クルーズに中文教室(中国語講座)の講師として乗船しました。第一言語が中文であるとはいえ、教えた経験は皆無。それでも「選ばれなかったらそれまで、挑戦はしてみよう!」と応募を決めました。
無事選考に通り、乗船。1回目のピースボートでの体験を、谷さんは「こんな場所は他にないと思った」と振り返ります。すでに日本での生活は20年を超えていましたが、日本にいるとどこか外国人だと感じる気持ちが消えなかったと言います。それがピースボートでは「日本人ではないから」と区別されることがなく、その体験は衝撃だったそうです。
乗り合わせた人たちに感化され、知識不足を痛感したのもこの時でした。船内で平和や核廃絶について真剣に考える人た ち、中国海洋大学から乗船していた意欲溢れる若者たち、自分より一回りも二回りも上なのにエネルギーのほとばしる60代・70代の参加者たち。当時50代半ばで「人生はもう終盤」と諦めかけていた谷さんは「このままではダメだ」と思ったといいます。
無事選考に通り、乗船。1回目のピースボートでの体験を、谷さんは「こんな場所は他にないと思った」と振り返ります。すでに日本での生活は20年を超えていましたが、日本にいるとどこか外国人だと感じる気持ちが消えなかったと言います。それがピースボートでは「日本人ではないから」と区別されることがなく、その体験は衝撃だったそうです。
乗り合わせた人たちに感化され、知識不足を痛感したのもこの時でした。船内で平和や核廃絶について真剣に考える人た ち、中国海洋大学から乗船していた意欲溢れる若者たち、自分より一回りも二回りも上なのにエネルギーのほとばしる60代・70代の参加者たち。当時50代半ばで「人生はもう終盤」と諦めかけていた谷さんは「このままではダメだ」と思ったといいます。
気づけば地球9周目、中文教室やひろばダンスで日中の架け橋に

谷慶子さんが担当する中文教室の発表会にて
下船後はその思いを行動に移し、パソコン教室に通い、日本語教師の資格も取得します。日本で働く技能実習生に日本語を教える仕事をしながら、たびたびピースボートにスタッフとして乗船をするようになりました。2025年末に出航した最新のVoyage122(26年3月現在)が地球9周目となります。
乗船を重ねるにつれて、中文教室だけでなく日本語教室も担当したり、現在は毎クルーズ大人気の「ひろばダンス」※も主宰しています。どの企画も日本語と中文が交じり合い、両地域からの参加者が友情を育む大切な交流の場となっています。そのつながりは下船後も続きます。谷さんのLINEを開くとクルーズごとのグループトークが並びます。「今でもたくさんやりとりがあります」と嬉しそうな谷さんの姿が印象的です。
※主に中国の中高年に人気の広場で音楽に合わせて踊るもの。
乗船を重ねるにつれて、中文教室だけでなく日本語教室も担当したり、現在は毎クルーズ大人気の「ひろばダンス」※も主宰しています。どの企画も日本語と中文が交じり合い、両地域からの参加者が友情を育む大切な交流の場となっています。そのつながりは下船後も続きます。谷さんのLINEを開くとクルーズごとのグループトークが並びます。「今でもたくさんやりとりがあります」と嬉しそうな谷さんの姿が印象的です。
※主に中国の中高年に人気の広場で音楽に合わせて踊るもの。
出身は反日感情も根強い街・重慶

幼少期の谷慶子さんとご家族
谷慶子さんの出身地は中国の重慶です。食べ物では真っ赤で辛い火鍋が有名で、夜の景色は「魔法の夜景」と呼ばれる有数の観光地。日本からも観光客が多く訪れます。街の中心部には大きな広場があり、毎日のように「ひろばダンス」がおこなわれています。谷さんが小さい頃に踊りに親しんだのもこの広場です。
しかし、日中戦争の歴史を紐解くと、重慶はまた別の意味を持ちます。日中戦争のさなか、1938年から44年までの6年にわたり、日本軍は重慶への爆撃を繰り返しました。空爆は200回を超え、1万人以上が犠牲となり、特に1941年6月5日の爆撃では数千人が死亡したと言われています。重慶市の中心部には、かつては「抗日戦争勝利記功碑」、今は「人民解放紀念碑」と呼ばれる塔が建ち、今でも6月5日は市民が忘れることのない日です。
しかし、日中戦争の歴史を紐解くと、重慶はまた別の意味を持ちます。日中戦争のさなか、1938年から44年までの6年にわたり、日本軍は重慶への爆撃を繰り返しました。空爆は200回を超え、1万人以上が犠牲となり、特に1941年6月5日の爆撃では数千人が死亡したと言われています。重慶市の中心部には、かつては「抗日戦争勝利記功碑」、今は「人民解放紀念碑」と呼ばれる塔が建ち、今でも6月5日は市民が忘れることのない日です。
人は人として、人を受け入れてくれるのだと知ったきっかけ

谷さんの娘さんの結婚を祝って集まった親族と
実は谷慶子さんは2011年に最初にピースボートに乗船したあと、「絶対に乗るべき」と娘さんにピースボートを勧めました。谷さんと同じく中文教室の講師として翌年の第75回クルーズに乗船した娘さんは、そのクルーズに通訳ボランティアとして乗船していた方と後に結婚することになります。結婚が決まった二人の希望は「重慶でも披露宴をやる」こと、そして「着物を着たい」ということでした。
最初にそれを聞いた時、谷さんは少し心配でした。反日感情が根強い重慶の中心部で、和服を着て街を歩いて大丈夫だろうか。タクシーで広場につけて、会場までの移動の間に心無い言葉をかけられたりしないだろうか。しかしいざ当日を迎えると、街の人々は本当にあたたかく祝福してくれたと言います。中国と日本の国際結婚となったふたり。その後生まれた娘にはふたつの文化の架け橋をという願いを込めて「和華(あいか)」という名前をつけました。
歴史と地続きで今があるけれど、その今を生きる人たちはしっかりと人と人とのつながりの中で日中関係を見ている。今、谷さんはそう思っています。
最初にそれを聞いた時、谷さんは少し心配でした。反日感情が根強い重慶の中心部で、和服を着て街を歩いて大丈夫だろうか。タクシーで広場につけて、会場までの移動の間に心無い言葉をかけられたりしないだろうか。しかしいざ当日を迎えると、街の人々は本当にあたたかく祝福してくれたと言います。中国と日本の国際結婚となったふたり。その後生まれた娘にはふたつの文化の架け橋をという願いを込めて「和華(あいか)」という名前をつけました。
歴史と地続きで今があるけれど、その今を生きる人たちはしっかりと人と人とのつながりの中で日中関係を見ている。今、谷さんはそう思っています。
船でできることを地道にやり続けることが日中友好につながると信じて

一緒に広場ダンスを踊ったスタッフと
日中関係をみると、国家間は決していいとは言えない状況が続いています。15年にわたってピースボートクルーズでの日中の交流をみつめてきた谷さんは「時間をかけて積み上げてきた信頼がある」と言います。評判が評判を呼び、安心して交流できる場としてのピースボートが少しずつ中国でも日本でも広まっていると。
それでも政府レベルでの動きひとつで一気に関係性が冷え込むこともあります。2025年末には高市首相の台湾をめぐる発言を受けて、中国外務省は日本への渡航を自粛するよう呼びかけました。その様子をみても谷さんは冷静でした。「今日この船で、できる交流を続ける。自分の行動で日中関係が少しでもよくなればいい。」
振り返れば、谷さんの人生はちょうど半分ほどが中国、半分ほどが日本となりました。「中国も日本も私の故郷です」と言い切る谷さんは、今日も旧正月を迎えた船の上で、日中を結ぶ懸け橋として走り回っていることでしょう。
それでも政府レベルでの動きひとつで一気に関係性が冷え込むこともあります。2025年末には高市首相の台湾をめぐる発言を受けて、中国外務省は日本への渡航を自粛するよう呼びかけました。その様子をみても谷さんは冷静でした。「今日この船で、できる交流を続ける。自分の行動で日中関係が少しでもよくなればいい。」
振り返れば、谷さんの人生はちょうど半分ほどが中国、半分ほどが日本となりました。「中国も日本も私の故郷です」と言い切る谷さんは、今日も旧正月を迎えた船の上で、日中を結ぶ懸け橋として走り回っていることでしょう。




