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ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに

ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに
おりづる手渡しアクション前の集合写真
2024年10月、ノルウェー・ノーベル委員会は2024年の平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に贈ると発表しました。これを受け、日本被団協から30名の公式代表団が、ノーベル平和賞授賞式に参加するために、オスロへと渡航しました。
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おりづる手渡しアクション前の集合写真
2024年10月、ノルウェー・ノーベル委員会は2024年の平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に贈ると発表しました。これを受け、日本被団協から30名の公式代表団が、ノーベル平和賞授賞式に参加するために、オスロへと渡航しました。
これに合わせて、ピースボートは、原水爆禁止日本協議会(原水協)と協力し、「祝!日本被団協ノーベル平和賞授賞式行動ツアー」を実施しました。このツアーには、1956年の日本被団協結成から長年にわたり、核なき世界をともに目指して活動してきた方やピースボートのおりづるプロジェクトメンバーとして乗船した被爆者、被爆2世・3世をはじめ関係団体・個人が参加し、総勢54名のツアーになりました。

公式団と行動ツアーの両方にピースボートのスタッフが同行し、3日間にわたって授賞式や晩餐会、トーチパレードなどといった公式行事に加えて、現地の平和・反核団体が企画したイベントや被爆証言会、議員面会にも参加しました。

手が届く距離での交流

ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに
7年ぶりの再会で育った苗木を抱きしめる佐久間邦彦さん
この期間に合わせて現地で企画された数々のイベントには、多くのオスロ市民の姿がありました。オスロではノーベル平和賞受賞者が発表された直後に、その受賞者を知るための市民イベントが開催されることが通例です。

そこでは、ノーベル委員長が直接市民に授賞理由などを語りかけます。そのようなことを理解した上で、被爆者の生の声を聞きに来た人たちにとって、現地で行われたイベントは、抽象的だった核の恐ろしさが具体的になり「核兵器は無くさなくてはいけない」という理解へ変わっていく一助となっていたようです。

象徴的だったのが、オスロ大学にある植物園での植樹セレモニーです。ここでは広島から贈られた被爆樹木の種子を植えました。実は、7年前に核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が、ノーベル平和賞を受賞した際も、同じように被爆樹木の種子を植えています。

2017年当時もセレモニーに参加した、広島被爆者の佐久間邦彦さんは、自分が植えた種子が育った姿と再会できたことを喜びました。そして、「あれから7年、この苗は今も世界で紛争や戦争が起こり、核使用の危機が高まる世界情勢をどんな気持ちで見守っていたのか。これからもともに核廃絶のために歩んでいきたい」と述べました。

その言葉を、植物園のスタッフを始めとした現地の人たちが受け止め「この植物園で被爆樹木を通じて、平和のメッセージを広めていく」と言っていたシーンには、交流が行動の原動力となる瞬間を垣間見た気がしました。
ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに
橋爪文さんを抱きしめ感謝を伝える現地市民
オスロ図書館で行われた証言会でも、被爆者の声を受け継ぎ、活動をつづける市民の役割を実感するものでした。約200名のオスロ市民が集まったこのイベントでは、被爆者の声を集めたショートムービーを上映し、92歳の橋爪文さんが被爆証言をしました。

当時14歳だった橋爪さんは、爆心地から1.5㎞地点にある広島貯金支局で被爆しました。原爆投下直後の街の様子や、自身が生死をさまよいながらも生き延びたこと、その後の自身が感じている原爆の影響などを話しました。

証言が終わった後、会場にいた人は「思い出すのもつらい体験なのに話してくれてありがとう」と橋爪さんを抱きしめていました。核軍縮に関心を持つ人であっても、日本から離れたオスロでは被爆者に会うことはほとんどなく、今回直接聞いた被爆体験は想像以上に衝撃的だったとも話していました。

政治を担う人にこそ伝えたい被爆の実相

国会議員への働きかけも行いました。滞在初日に国会議事堂の前で行ったのは、出勤する議員や市民に向けて、おりづるを手渡すアクションです。1羽1羽を手渡しながら、込められた平和と核軍縮への想いを伝えました。

カラフルなおりづるに込められた想いを知り「身近な平和を大切にできるよう、自分に何ができるか考えていきます」と笑顔で受け取る人や、「私も友だちや多くの人に平和のメッセージを伝えたいから折り方を教えてほしい」と尋ねる子どもたちもいました。

議員に被爆証言をする場もありました。NATO(北大西洋条約機構)に加盟するノルウェーは、日本と同じように「核の傘」に守られており、核抑止は安全保障上必要不可欠だと考える議員は少なくありません。

そのような中でも、粘り強く反核・核軍縮を訴える野党議員に向けて証言をした西本多美子さんは「ヒバクシャの声だけでは限界がある。私たちは国同士の話し合いに入れないので、やはりここは政府や議員が協力し、ヒバクシャの声を外交や核軍縮に役立ててほしい」と伝えました。

日本被団協が平和賞を受賞してから、議員たちは、メディアや市民から核政策への考えを聞かれることが多くなったと話します。「今回の証言を聞いて、改めて核兵器の恐ろしさを知り、人類とは共存できないと感じた。武力ではなく対話で解決するという、核軍縮への取り組みを強めていかなければ」と西本さんの証言に応える意欲を伝えてくれました。

寒さも忘れるほどのオスロ・ピースデイズ

ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに
トーチパレードで街中にあふれる平和の灯
他のノーベル賞授賞式がスウェーデンのストックホルムで行われる中、平和賞は唯一ノルウェーのオスロで行われます。このことを誇りに思うオスロ市民は、平和に対する関心も高く、12月10日前後は「Peace Days」として、街中にノーベル賞の旗が飾られます。

授賞式会場であるオスロ市庁舎の隣にあるノーベル平和センターでは、パブリックビューイングが行われ、多くの市民が集まります。行動ツアーの参加者は、オスロ図書館でのパブリックビューイングに参加。冒頭で被団協の代表委員3名が会場入りするシーンを見ただけで、これまでのことを思い返しながら涙ぐむツアー参加者もいました。そして20分にわたる田中熙巳代表委員のスピーチが終わると、スタンディングオベーションが起こりました。

オスロ・ピースデイズのハイライトのひとつは、授賞式の夕方に行われるトーチパレードです。当日はマイナス8度という凍てつく寒さでしたが、多くの地元市民が集まりました。パレードでは、ノーベル平和センターから終着点のグランドホテルまでの約700mをゆっくりと行進します。グランドホテルに到着したところで、代表委員3名がバルコニーから出てきて観衆に手を振りました。

「ノーモア ヒロシマ ノーモア ナガサキ」

誰からともなく始まった掛け声は、その場にいる全ての人へと広がり、オスロの空に響き渡りました。オスロの寒さを感じさせないほどの熱狂でした。
ノーベル平和賞・授賞式開催地のオスロへ、被爆者とともに
ノーベル平和センターの特別展示を見学中
その年のノーベル平和賞受賞者・受賞団体をテーマとするノーベル平和センターの特別展示も、ピースデイズの期間中に公開が始まります。日本被団協の受賞を記念する今回の特別展示は、「人類へのメッセージ」と題され、世界にある核兵器の数の推移や、核実験が行われた場所や回数など、核兵器の歴史が学べます。また、被団協がかつて行った原爆被爆者調査をもとに被爆証言を聞いたり、被爆者ひとりひとりを表す1000個の木製のオブジェを手にとることができるコーナーもありました。

この展示は、次の平和賞受賞者が発表されるまで、1年間続きます。オスロ市民のみならず、国内外から訪れる多くの人が、核兵器の歴史や被爆の実相に触れる機会となるでしょう。

ヒバクシャの声を世界に

今回の受賞は、被爆者が自身の体験を語ることで、核兵器のない世界を実現をめざしてきた草の根運動が評価されたことにあります。ノーベル委員会のフリードネス委員長は「被爆80年をより盛り上げるためにも、このタイミングで受賞を渡したかった」とも話します。

ICANがノーベル平和賞を受賞した7年前もそうでしたが、受賞がゴールではありません。かつてないほどに核使用の危機が高まり「武力には武力を」との核抑止論が重要視される今の世界において「核兵器を使用すれば何が起こるのか。核兵器と人類は共存できない」との声をもっと強く伝えていかなくてはいけません。

これからの時代を築き生きていく世代が、当時を経験したヒバクシャからバトンを受け取り「核のない世界」に向けて考え行動することがより一層求められています。

ピースボートは、他団体と協力し、2025年3月に行われる核兵器禁止条約の第3回目締約国会議に向けて、政府へオブザーバー参加を訴え続けるとともに、市民レベルでは何ができるのかを考える「被爆80年 核兵器をなくす国際市民フォーラム」(2月8日・9日)を開催します。

またVoyage120では「戦後80年特別プロジェクト TIME FOR PEACE」を実施し、今も戦禍を生きるたくさんの人たちがいることに目を向けながら、紛争予防や平和構築について取り組む個人や団体と繋がり、世界の平和を改めて希求する取り組みを行います。

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