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わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
ヤスナ・バスティッチ
ピースボートで平和教育に携わるスタッフの中に、過酷な戦場をくぐり抜けてきた人がいます。スイスを拠点に活動するヤスナ・バスティッチは、紛争前の旧ユーゴスラビアのボスニア共和国で生まれ、開放的な街サラエボで育ちました。ところが、ひとつの国だったユーゴスラビアで1991年に紛争が勃発。翌92年にはボスニアにも飛び火し、ヤスナが暮らすサラエボは軍隊に包囲されました。命がけで脱出した彼女は、スイスでの難民生活を経てジャーナリストとして再出発を果たします。ピースボートと関わっておよそ25年。彼女はどのような思いで、平和教育に携わってきたのでしょうか?3回シリーズでお届けします。
ヤスナ・バスティッチ
ピースボートで平和教育に携わるスタッフの中に、過酷な戦場をくぐり抜けてきた人がいます。スイスを拠点に活動するヤスナ・バスティッチは、紛争前の旧ユーゴスラビアのボスニア共和国で生まれ、開放的な街サラエボで育ちました。ところが、ひとつの国だったユーゴスラビアで1991年に紛争が勃発。翌92年にはボスニアにも飛び火し、ヤスナが暮らすサラエボは軍隊に包囲されました。命がけで脱出した彼女は、スイスでの難民生活を経てジャーナリストとして再出発を果たします。ピースボートと関わっておよそ25年。彼女はどのような思いで、平和教育に携わってきたのでしょうか?3回シリーズでお届けします。

包囲された街

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
山に囲まれたサラエボの風景
Q:紛争は、ヤスナさんが20代後半のときに始まりました。紛争前はどのようなことをしていたのでしょうか?

ヤスナ:大学では哲学と社会学を専攻していました。何かを観察して、解析をすることに関心があり、卒業後はジャーナリズムの世界で働き始めました。当時はメディア・アナリストとして、メディアのプロパガンダや政治家のプロファイリングなどを担当しました。

それとロックンロールが大好きで、音楽関係の仕事にも携わっていました。でも旧ユーゴでは紛争が近づくにつれて、文化的な活動が大切にされなくなっていきました。

Q:1992年から95年まで3年半続いたボスニア紛争は、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最悪の紛争となりました(死者20万人、難民200万人とされる)。特にヤスナさんが暮らしていたボスニアの首都、サラエボでは、市街地が軍隊に包囲されて多くの一般人が犠牲になっています。包囲されていた時はどうだったのでしょうか?

ヤスナ:私の生まれたサラエボで起きた戦争は、いわゆる典型的な「戦争」ではなく、30万の市民が住む街が包囲されるという異常な状態で行われました。私は母と兄の3人で暮らしていましたが、包囲された早い段階で食糧がなくなり、水や電気も止まりました。

山に囲まれたサラエボの街は、山を占拠した軍隊からの砲撃を受け続けました。街の近くにもスナイパーが潜んでいました。街中に出る人は必ず狙撃されるのです。

実際に何度もこの目で銃撃を見ましたが、現実に起きていることとはとても信じられませんでした。戦争というと、とてもとても遠い物語のように考えていたからです。ヨーロッパの戦争といえば、二度にわたる世界大戦、そしてナチスの独裁政治やホロコーストといったイメージでとらえられてきました。

そうした過酷な経験を経てきたヨーロッパでは、そんなことはもう二度と起きないと考えられていたのです。しかもサラエボはヨーロッパの中でも開放的な雰囲気の街です。戦争のような理不尽なことが、まさかこの場所で起こるとは想像もできませんでした。

ただ生き延びるために

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
1992-93の冬、サラエボ包囲中の生活。家から凍った路上に容器を運び、水を給水するだけでもスナイパーに狙われる危険にさらされた。(©Sarajevo Siege Part III, Hedwig Klawuttke / CC-BY-3.0)
Q:包囲されていた時は、どのように過ごしたのでしょうか?

ヤスナ:全てはその瞬間のことしか考えられませんでした。毎日どうやって生き延びるかということだけです。将来のことは何も考えられず、どうやって水や食糧を手に入れ、何が起きているのか情報を集める、といったことばかりを考えてきました。

私たちは幸運で、近所の人たちはとてもいい人たちだったので、お互い助け合って食料や水、情報を得ることができました。

旧ユーゴ紛争は、メディアはひとくくりに「民族紛争」と伝えますが、それは間違いです。少なくとも私たちのコミュニティでは、セルビア人もクロアチア人もムスリムも関係なく、お互い食糧を分かち合い、アドバイスをし合って生き延びました。

隣人との助け合いが、何よりも重要でした。このような体験から、戦争は人間の一番素晴らしい所と、一番ひどい所を引き出すのではないかと考えています。

包囲から1年ほどが経ち、家族の誰かが外に出て、残された人を助けなければみんなが死んでしまうことがわかってきました。当時は三人とも、食事は1日一食しか食べることができない状態でした。当時、兵士になる可能性のある男性が街の外に出ることは不可能でした。私たち家族は何度も相談して、家族の中でもっとも若く、女性である私が脱出することになりました。

脱出

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
サラエボ包囲により破壊された街(©Sarajevo Siege Fetching Water 2, Christian Maréchal / CC-BY-3.0 Attachments area)
Q:サラエボからの脱出するときの様子を教えてください

まず、何を持っていこうかと考えました。小さなバッグに、Tシャツ2枚と下着を数枚だけ詰めました。でも、そのあと自分にとって大切なもの、つながりを感じるようなものをいくつか選んで詰めることにしました。私の場合は、友人とともに作った楽曲が入ったテープや本でした。

道端にはスナイパーがいて、外を自由に歩き回ることはできません。また、動くものに対しては山の方から迫撃弾などでの砲撃もありました。徒歩ではとても突破できないので、近所の男性が持っていた自動車に乗せてもらうことにしました。私たちは、苦労して2リットルのガソリンを調達しました。

自動車を走らせる際も、まっすぐに走るとスナイパーに狙われてしまいます。走り始めたら猛スピードで、しかも左、右とジグザグに動き続けなければなりません。特に最初に加速することがもっとも重要でした。突破できるかどうかの確率は半々でしたが、私たちはなんとか目的とする街のはずれまでたどりつくことができました。

車から降りて監視の目をくぐり、バリケードも突破することができました。まだ完全に安全というわけではありませんでしたが、車で10分の距離に出ただけで、比較的平穏な場所もありました。小さなお店が開いていて、必需品を手に入れることができました。「たった10分しか離れていないのに別世界みたい!」と驚きました。

その後、バスを乗り継いでクロアチアの海岸沿いにある美しい都市、スプリットに着くと、さらにカルチャーショックを受けました。海辺で人々がくつろぎ、リンゴが売られていて、畑にはトマトがなっていました。ここでは人々が道を安心してゆっくりと歩いています。

「本当に走らなくて大丈夫なの!?」と嬉しくなりました。そこからクロアチアの首都ザグレブに移動したが、滞在中に持ってきた全財産を使い果たしてしまいます。そこでハンガリー経由で、いとこと叔父、叔母のいるセルビア共和国の街に入り支援を得ました。さらに何度もバスや電車を乗り継ぎ、マケドニア、イタリア、オーストリアを経て、最終的にはスイスのチューリッヒに難民としてたどり着きました。

私は、包囲が始まって1年くらいで運良く脱出に成功しましたが、そのすぐあとから、さらに脱出は厳しくなりました。サラエボの街は、最終的に3年半に渡って包囲され続けました。スイスに着いてからは、赤十字や人道支援組織などを通じて家族にお金を送ったり、食糧や薬品などを小包みにして届けました。家族は私からの支援だけを頼りに、包囲が終わるまでなんとか生き延びてくれました。

人生が2つに割れた日々

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
平穏が戻ったサラエボの街
Q:スイスに難民として着いてからは、どのように過ごしましたか?

ヤスナ:難民申請が受理されるまでの手続きには、それほど長くかかりませんでした。当時のスイス政府が、人道的な理由からボスニア難民を積極的に受け入れていたからです。また、しばらくは収入のない生活が続きましたが、その後スイスのテレビ局で仕事を見つけることができたので、難民収容施設に入ることもなく、滞在許可が降りました。

そのおかげで、すぐに新しい友人や仲間もでき、サポートしてもらうことができました。スイスに留まろうと思った理由は、周りにとてもよい人たちがいたからです。

一方で、私は自分の人生が2つに割れてしまったように感じていました。紛争の前と後とで、別々の人生を生きているような感じと言ってもいいかもしれません。スイスに来た時に、自分の人生がすっかり途切れてしまったからです。新しい人生が始まった時、仕事も友人も全てがゼロになりました。

一番辛かったのは、その前の過去の歴史が自分にはないということです。スイスの友人と一緒にいると、その人から誰かを紹介されることがあります。高校や大学時代の友人であったり、家族ぐるみで付き合いのある人であったりです。

自分には、新しい友人しかいませんでした。当時、過去の友人はあちこちに散らばってしまっていました。SNSはもちろんないし、国際電話はとても費用がかかりました。連絡をとり続けるのは難しかったのです。

ジャーナリストとして再び故郷へ

わたしの故郷は戦場になった – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.1
ピースボートにゲストとして初乗船したヤスナ(1994年)
Q:スイスでは、ジャーナリストとして働き始めました。その動機は何だったのでしょうか?

ヤスナ:ボスニアでは、大学を卒業してメディアで働き始めていました。すぐに紛争が始まってしまったので、スイスでもそういう仕事ができればいいと考えていました。そこへ、スイステレビで働いている知り合いからレポートを手伝ってくれないかと声をかけられました。

そしてその後、自分でレポートをするようになっていきます。当時、旧ユーゴ紛争は世界で最も注目を浴びる出来事だったし、もちろん旧ユーゴの言葉がわかるという理由もありました。

そのため、スイステレビのレポーターとして、何度も旧ユーゴに入ることになりました。自分の故郷に行き、医師のようにそこにある状況を客観的に解析しなければならない立場になったのです。それと同時に自分が見るものや知っていることなどは、とてもパーソナルな思い入れもあり、不思議な感じがしました。

そうこうしているうちに、旧ユーゴ紛争の取材にやって来た、ピースボートの吉岡達也と出会うことになりました。

※次回は、ヤスナがピースボートと出会い初乗船した時の話や、故郷ボスニアへのスタディツアーをコーディネートした時の様子などを聞いています。

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