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アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
ヤスナ・バスティッチ(右)
ピースボートで平和教育に携わるスタッフの中には、過酷な戦場をくぐり抜けてきた人がいます。旧ユーゴスラビア出身のヤスナ・バスティッチです。1992年に始まった紛争は、彼女の住むサラエボの街を火の海にしました。包囲網から脱出したヤスナは、難民として逃れたスイスで人生の新たな一歩を踏み出します。3回シリーズ企画の2回は、彼女のピースボートとの出会い、そしてヤスナがコーディネートして故郷ボスニアへのスタディツアーを実施した様子をお届けします。
ヤスナ・バスティッチ(右)
ピースボートで平和教育に携わるスタッフの中には、過酷な戦場をくぐり抜けてきた人がいます。旧ユーゴスラビア出身のヤスナ・バスティッチです。1992年に始まった紛争は、彼女の住むサラエボの街を火の海にしました。包囲網から脱出したヤスナは、難民として逃れたスイスで人生の新たな一歩を踏み出します。3回シリーズ企画の2回は、彼女のピースボートとの出会い、そしてヤスナがコーディネートして故郷ボスニアへのスタディツアーを実施した様子をお届けします。

ピースボート吉岡との出会い

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
サラエボの山間部に残る地雷の撤去作業を見学(2008年第54回ピースボートの地球大学ツアーより)
Q:ピースボートとの出会いについて教えてください

ヤスナ:1993年に、友人を通してスイスに来ている日本人ジャーナリストから取材を受けることになりました。それがピースボート共同代表の吉岡達也でした。彼は当時、ピースボートの運営とジャーナリストの両方をしていたようです。

当時の旧ユーゴ紛争は、世界中のメディアからもっとも注目を浴びるトピックでした。日本からもさまざまな報道機関が訪れ、日々のニュースになっていました。吉岡からは、いまでもそうですがよくしゃべる面白い人で、すごくたくさんの質問を受けたことが印象に残っています。そのときはピースボートの話は出ませんでしたね。

その後、吉岡からボスニアと同様に紛争が続いていたクロアチアに取材に行きたいと言われ、知人でクロアチア在住のジャーナリスト、ゴラン・ベージッチを紹介しました。当時、クロアチアの一部はセルビアに占拠されていて、吉岡はゴランと一緒にその場所を取材しました。結果的に無事だったものの、危険な目にもあったようです。

そうした経緯から私と吉岡、ゴランはたびたび連絡を取り合い、仲良くなりました。その過程でピースボートについての話も聞きました。そして翌94年の船旅(第16回ピースボート地球一周の船旅)に、ゴランとともに水先案内人として招待されました。

反対の側にいる人同士が船に乗る

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
1994年に水先案内人として初乗船した時の様子。ヤスナ(左)とゴラン・ベージッチ(中央)はよく一緒に乗船した。
Q:初めてピースボートに乗ったときはどう感じましたか?

ヤスナ:ピースボート のポリシーは、紛争地で対立する立場にいるとされる人たちを船という場に集めることです。私の時も、ボスニア出身の私、クロアチアのゴラン、そしてもうひとりのセルビア人の3人で乗船し、レクチャーやディスカッションなどを行いました。

まだ紛争は続いていましたが、船に乗って安全な地域を旅し、素晴らしい人たちに囲まれながら、何でも話し合える雰囲気がありました。船内での話はもちろん旧ユーゴ紛争の話が中心でしたが、話す内容は自由で、制限されることがなく、それをみんながサポートしてくれました。当時の私にとって、とても特別で美しい体験になりました。

同じ船には、イスラエルとパレスチナからのゲストも乗っていました。自分と同世代のイスラエル、パレスチナの若者から直接話を聞いたことはなかったので、彼らと出会えてすごくよかったと思います。中東のことは詳しくありませんでしたが、一日中彼らと一緒に過ごすことで、彼らの状況を理解できるようになりました。

そして、彼らの状況や紛争の影響、個人的なストーリーなどを自分に当てはめて客観的に物を考えられるようになりました。これによって視野が広がったし、多くの気づきがあったように思います。何よりこのような体験は、紛争地にいた私たちにとっての癒しにつながりました。

このような実践は、ピースボートにとっても実りが多かった様に思います。後に紛争地域などから若者たちを集め、みんなで自分の体験について語り合うインターナショナル・スチューデントプログラム(国際学生)などを行うようになる原点となったのではないでしょうか。

変化を起こすきっかけに

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
船内講座で、戦争とプロパガンダの役割について語るヤスナ
Q:ヤスナさんはその後、何度も船に乗船したあとピースボートスタッフとしての関わりを深めていきます。なぜこの組織にコミットしようと思ったのでしょうか?

ヤスナ:最初は水先案内人として何度か乗船し、旧ユーゴ紛争やメディアによるプロパガンダの講座をしていました。そうしているうちに、当時スイスに住んでいた他のピースボートスタッフをパートタイムで手伝うようになります。そしてピースボートがたびたび地球一周の船旅を出すようになったため、フルタイムスタッフとして様々なプログラムに関わるようになりました。

出身地のボスニアは、多様な文化や背景に囲まれて育ちました。また、移住先のスイスもそうでした。そのため、国際的なコミュニティで働きたいという強い思いがありました。ピースボートでは毎回素晴らしい人に出会い、素晴らしい場所を訪れ、その都度自分の世界が広がっていく感覚を味わいました。

また、ここには常に学びがあります。単に知識を得るための学びではなく、アクションにつながる学びです。特に若い人の中でいくつもの良い変化が起きていました。私は、自分にはそうした変化を起こすきっかけをつくれる可能性があると感じたのです。

ジャーナリストとして記事を書くことはできます。しかしそれだけでは、その後どんな影響が生まれたのかはわかりません。記事を自分の子どものように生み出しはするけれど、赤ちゃんが子どもになり、学生になり、家を出た後どうなるのかわからないという感覚です。船の上では、日本の若者であれ、紛争地から来た若者であれ、一人一人がどんな影響を受けて、どう変わっていたのかが見えるので、手応えを感じるようになりました。

ツアー・コーディネーターとして訪れた、故郷サラエボ

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
アドリア海の真珠の異名を持つクロアチアの港町ドブロブニク。ピースボートは1998年に初入港して以来何度も訪れている。
Q:ピースボートが初めて紛争後の旧ユーゴに入港したのは、1998年の冬(第24回ピースボート/寄港地はクロアチアの世界遺産・ドブロブニク)になります。ヤスナさんは、ドブロブニクでの複数のオプショナルツアーや、故郷のサラエボへのスタディツアーのコーディネート役を準備段階から行いました。そのときの体験はどのようなものでしたか?

ヤスナ:とても特別な経験になりました。ドブロブニクに入港して20名ほどのメンバーでボスニアに入り、モスタルという町を経由して、故郷のサラエボに行きました。当時はまだ紛争の傷跡がそのまま残っている状態だったので、サラエボにいるだけで包囲されていた頃に戻っているかのような気がしました。

でも私には、参加者に安全に過ごしてもらい、ちゃんと理解してもらうようにする責任がありました。自分自身には、あまり感情的になってはいけないと強く言い聞かせました。私には、客観的に多角的な視点から物事を語る必要があったからです。

ここで何が起きたのかをよりよく理解してもらうためには、客観的に話す必要があります。感情そのものは大事なことですが、強すぎる感情は長続きしません。私が主観的で強すぎる感情を伝えると、逆に後で忘れてしまったり、重すぎて受け止められなかったりする可能性もあります。

大事なことは、解析をすることです。何が起こったのか、どうして起こったのか、誰の責任なのか、どうやって人を紛争や包囲に導いたのかといったことです。

他方、自分が生まれた場所が包囲され、追い詰められた経験をしたその場にいるのに、同時に客観的でいなければならないことはとても難しいことでもありました。

それでも、ツアーで自分が説明する責任を持ったことはとても良かったと思っています。みんなでさまざまな場所を訪れ、サラエボの人たちの証言を聞き、たくさんの質問をしました。数日間の寝食を共にして、ツアーが終わった時にはみんなが家族のようになっていました。

このような経験を通して学んだことは、外からきた人たちがどのような視点を持つのか、何がわかるのか、あるいはわからないのかといったことです。それにより、私はアプローチの仕方を学びました。そして自分が物事をよりよく伝えたり、理解できるようになったと思います。

大切なのは知ろうとする姿勢

アクションにつながる学びの場 – ヤスナ・バスティッチが語るピースボートと平和教育vol.2
第88回ピースボートの地球大学生とともに
Q:その後、ピースボートでは地球大学などが始まり、旧ユーゴをテーマにした講座やスタディツアーを何度も実施するようになりました。旧ユーゴ紛争のことを全く知らない日本の若者とも触れ合ったと思いますが、どのように感じましたか?

ヤスナ:98年に初めてドブロブニクとサラエボを訪れた時は、まだ紛争が終わって数年しか経っていなかったので、参加者の多くは日本のテレビなどで見たニュースを覚えていました。でも、その後は年を追うごとに報道は減り、あまり知らない世代も増えました。

若者、特にユーゴ紛争のときに子どもだった世代の人たちが、ユーゴスラビアのことを知らないのは理解することができます。

確かに、これから自分たちが訪れる国で起きた大変な事態をまったく知らない様子を見ると、その事態の渦中にいた人間としては少し痛みを伴います。それでも多くの人が紛争や破壊について知りたいとか触れたいと思わない中で、お金と時間をかけてそれを知るためのツアーに参加しているのです。

そうした、学ぼうとする姿勢、学ぶと決めて実際に訪問することには、大きな意味があると思います。彼らはヨーロッパでショッピングすることもできるのに、サラエボで紛争について学ぼうとしていました。そうまでしてきた人たちに向けて説明したり、物語を共有することは、私に取って大きなモチベーションになりました。

私自身も同様に、知らないことはいくらでもあります。例えば、気候変動のプロジェクトを伝えるために船に乗ってきた太平洋の小さな島々の若者たちと出会うまで、それらの国々のことをほとんど知りませんでした。知らないこと自体が問題なのではありません。知ろうとしないことが問題なのです。知ろうとする姿勢さえあれば、まったく問題はないはずです。

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