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攻撃を受けるウクライナからの声

攻撃を受けるウクライナからの声
爆撃を受けたヘルソン市内のFabrika Mall(3月21日)
ピースボートは3月21日に、ウクライナ南部のヘルソン市にいる元ピースボートクルーズ乗組員のハンナさんに話を聞きました。彼女は5年ほど前までバーテンダーとして乗船していました。ヘルソンはロシア軍の侵攻により陥落したといわれている街で、彼女は1か月近くにわたり、小さなお子さんとともに暮らしています。

今回ハンナさんの話を多くの人に知ってもらいたいと思い、その内容を公開します。彼女の安全のためフルネームや映像の公開などは行ないません。私たちがマスメディアやネット上でふれる情報とはまた違う「生の声」に耳を傾け、ウクライナ各地にこのような思いで日々を過ごしている人がいることを知ってほしいと思います。
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爆撃を受けたヘルソン市内のFabrika Mall(3月21日)
ピースボートは3月21日に、ウクライナ南部のヘルソン市にいる元ピースボートクルーズ乗組員のハンナさんに話を聞きました。彼女は5年ほど前までバーテンダーとして乗船していました。ヘルソンはロシア軍の侵攻により陥落したといわれている街で、彼女は1か月近くにわたり、小さなお子さんとともに暮らしています。

今回ハンナさんの話を多くの人に知ってもらいたいと思い、その内容を公開します。彼女の安全のためフルネームや映像の公開などは行ないません。私たちがマスメディアやネット上でふれる情報とはまた違う「生の声」に耳を傾け、ウクライナ各地にこのような思いで日々を過ごしている人がいることを知ってほしいと思います。

爆撃音を聞きながら眠る日々 夫とは離れ離れに

攻撃を受けるウクライナからの声
ヘルソン市内をまばらに歩く人たち
ヘルソンでは、ロシア軍が街を占領し、人道支援や食料品、医療品、ガソリンなど、生活に必要なものが届かなくなっています。物資が底をつきかけています。ロシア軍の兵士が街の中にも街のまわりにもいて本当に怖いです。街中では今のところ戦闘はないので、ある意味では静かです。ただ、5kmほど離れたところでは戦闘が行われています。ウクライナ軍が善戦して戦線を押し戻しているので、街中でも再び戦闘が激化するのではないかと心配しています。寝ている間もヘルソン郊外の爆撃の音が聞こえます。警報が鳴ったらいつでも暖かい格好をして地下にいけるようにしています。もともと食料倉庫にしていたスペースがあって、そこをシェルターとして使っています。

今は伯母と母と息子と一緒です。戦争が始まったときはヘルソン市街ではなく近郊の小さな島にいました。ただ、街と島をつなぐ橋は一本しかなく、ロシア軍が橋を爆撃してしまえば島は完全に孤立して物資も届かなくなります。とても危険な状況でした。そんな時に伯母が自分の一軒家に来ていいと言ってくれました。地下にはシェルターもあるので、ここだと安心できます。

夫はウクライナの別の街にいます。実は、私たちはドニプロというウクライナの中心部の街に住んでいるんです。ロシアがウクライナに侵攻する5日前に母に会いにヘルソンに来ました。こっちに来たら、戦争が始まってしまいました。まさかこんなことになるとは思いませんでした。気づいた時にはとても逃げられる状況ではありませんでした。夫とは離れ離れになってしまい、会うことができていません。

戦争が始まって最初の1週間は、ヘルソンの市内でも無差別的な爆撃がありました。街にある唯一のショッピングモールも爆撃されましたし、市民が住んでいただけの建物もターゲットになりました。市民の犠牲者も出ています。みんな怖がって、必要がない限りは外出しません。それなので街には人はほとんど歩いていません。

ガソリンのために4時間、人道支援は届いていない

攻撃を受けるウクライナからの声
インタビュー中のハンナさんとお子さん
今一番大変なのは薬や食べ物、あとはガソリンを確保することです。この前はガソリンを入れるために4時間待ちました。そのガソリンスタンドの営業が最後ということだったので行ったのですが、1台10リットルや20リットルのみと、量も制限していました。お店はほとんど閉まっているので開いているお店を見つけたらすぐにみんなに伝えます。あそこに行くと牛乳があるよとか、パン、お肉があるよとか。店はどこも長蛇の列です。息子は私が一緒にいないとダメで、母に預けて家においていくことができません。買い物にも一緒に連れて行くのですが、大変です。子どもと列に並んでいると怒る人もいるし、私は私でずっと息子を抱っこしていなければいけません。

街には食べ物や薬を配るボランティアもたくさんいるのですが、最近ではロシア軍兵士が彼らを追って拠点に押しかけ、食べ物などを全部取り上げていると聞きます。ロシア軍はウクライナの活動家のリストを持っているようで、彼らのアパートに侵入し、アパートの中をめちゃくちゃにして、彼らをどこかに連れていきます。

オムツやおしりふきなど、子どものための必需品が全然手に入らなくて本当に大変です。他のお母さんたちと一緒に「あそこに行けばこのサイズのオムツがあるよ」とか、情報が入ればすぐ伝え合うようにしています。今は息子がまだ母乳なので助かっています。もう少し大きな子どもがいる友達は、子どもに食べさせられるものがなくて困っています。息子が母乳を飲まなくなる頃には…戦争が終わっていてほしいと心から思います。

子どもの洋服も足りません。子どもはすぐに大きくなるので、袖や裾をハサミで切ってなんとか着られるようにしています。ベビーカーがないのでいつも抱っこです。防寒着も足りなくて、外に行くときは子どもをブランケットでぐるぐる巻きにして連れ出しているような状況です。自宅からはおもちゃも全然持って来なかったので、息子はずっと3つしかないおもちゃで遊んでいます。

今日は誰にも殺されなかった、だから大丈夫、頑張ろう

攻撃を受けるウクライナからの声
道路に放置されている焼け焦げたトラック
今一番恐れているのは街で食料品が手に入らなくなることです。そうしたらどうなるのかわかりません。今この瞬間は、一日も早くこれが終わるようにとただ祈るだけです。これからどうしていくかは考えていません。先のことは誰にもわかりません。でも、目指すべきものがないってすごく難しいんです。自分はなんのために、どこに向かっていけばいいのかわからない感じです。

戦時下のストレスの中ではその日その日をいつものように生きることが一番いいんです。日常を保つことです。料理をしたり、息子と遊んだり、兄や夫に電話をしたり。毎日「今日はどう?」と連絡を取るようにしてます。友達にもです。「元気?子どもたちはどう?」とか。一人じゃないんだと思えることが励ましになります。今日は今日を生きる。今日は外は太陽が出ている、今日は誰にも殺されなかった、だから大丈夫、頑張ろう。毎日のようにそう言い聞かせています。

昨日の時点では、今日の早朝にヘルソンから脱出しようという話が出ていました。街のまわりで戦闘が行われているのは知っていましたが、それでも可能性に賭けてみようということになったんです。常に危険を感じ、一時たりとも気を許すことができないここにいるよりはそのほうがいいと思いました。でも今朝になって、避難の通り道となる地域で戦闘が激化しているという情報が入り、危険すぎると断念しました。今回トライしようとしていたのは、唯一安全に避難できる可能性があると言われていた道でした。そのルートを通れば、ロシア軍による検問はあるけれど、物を取られたりといった危険はないと聞いていました。でもそのルートが閉ざされた今となっては、次のチャンスがいつ訪れるか全くわからなくなりました。

また次のチャンスをさぐります。ただ、避難するといっても簡単ではありません。避難するとなれば運転するのは私です。ルーマニアとの国境までの9時間から10時間を息子と私だけでなんとかしなければなりません。国境も息子とふたりで越えることになります。それが私の人生にとって何を意味するのか、それがどんなに大変なのか、わかっています。でも、逃げないと、と今は思っています。それくらいここは危険だと感じています。

ここにいても危険、避難しても危険 どのリスクを取るか

攻撃を受けるウクライナからの声
「ヘルソン ここはウクライナ!」と書かれた看板と攻撃を受けたビル
自分で自分に“ダイジョウブ[日本語で]”と言い聞かせる日々です。どうしても感情のアップダウンが激しくなります。まわりで戦闘が激化していると聞けば当然不安になります。でもどうするべきなのか決めようにも、3週間以上もこのような状況でもう頭が働きません。いま自分が下す決断が、正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。可能性は五分五分です。

昨日は母に、避難したほうが安全だからお願いだから一緒に来てほしいと言いました。でも母は頑として首を縦には振りませんでした。私はここに残ると。私だってわかっています。誰かに何かを強制することはできない。結局はみんな自分で自分のことを決めて、自分の決断に自分で責任を持つしかないんです。これは戦争です。こっちの道に進めばいいといういう正解はありません。
リスクを取るか取らないかではなく、どのリスクを取るかなんです。ここに残るか、どこかへ避難するか。すでに避難した人は「ハンナ、お願いだから逃げて、こっちの方が安全よ。チャンスが少しでもあるなら、お願いだからその可能性に賭けて。」と言ってきます。ここに残っている人たちは残っている人たちで、「逃げるのは危険すぎる」と言ってきます。引き裂かれるような思いです。どうしたらいいのか本当にわからない。

ただ、ウクライナは国中が破壊されてしまいました。インフラもままなりません。これからどうなるのか全くわかりません。夫は今のところはまだ仕事がありますが、今彼がいるところでも戦闘が起きているので、いつ誰が職を失ってもおかしくない状態です。この国が今置かれている状況は本当に厳しい。夫とも話していたんですが、戦争が終わったとしても国外にしばらく逃げたほうが安全かもしれません。でも、国外に避難するにしても、お金が足りません。外国で部屋を借りて生活するためにはかなりのお金が必要になります。そのお金はありません。

戦争とともに始まった息子の人生と世界中からのメッセージ

攻撃を受けるウクライナからの声
ピースボート乗船時のハンナさん
息子はすごくかわいいんですよ(笑)。もともとはすごくよく寝る子で夜も全然起きなかったんです。でも今は私の感情ひとつひとつを同じように感じているみたいです。だから夜も起きて泣くし。少しでも安心させてあげたくて、なるべく抱っこしてあげるようにしています。私も不安を感じないのはなかなか難しいですが、とにかくしっかりしなきゃと思っています。前向きに、ポジティブに。この子がいるから、これまでであれば決められていたことが決められないこともあります。この小さな息子がいるから、責任を感じるし、しっかり考えなければいけないと感じます。これからどう生きていくのか、戦争が終わってからどう生きていくのか。

この戦争が始まってから、10か国以上の人に連絡をもらいました。アメリカ、パナマ、グアテマラ、メキシコ、フィリピン、日本。日本からはピースボートの参加者やピースボートの時の同僚から数えきれないほどのメッセージが届きました。本当に元気になれます。ずっと客船で日本の人と働いていたので、日本は私にとって特別な国です。私が日本をとても大切に思っていることは、周りの誰もが知っています。今回、英語が話せない人も日本語でメッセージをくれたんですよ!翻訳して読みました。みんなのその気持ちが本当に嬉しかったです。すごく温かい気持ちになりました。Facebookにも投稿したんですが、世界中の人たちが私たちのことを思ってくれているんだということが本当に力になります。世界中がウクライナのことを思ってくれているのだと思うとポジティブになれます。

2022年ウクライナ緊急支援募金

ピースボート災害支援センターは現地で人道支援活動を実施する団体と連携し、戦火を逃れ、日常を奪われてしまった人々への支援を行っています。ぜひ温かい支援をお願いいたします。

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