【寄稿】記憶のない被爆者との旅路 (おりづるユース:森山景さん−前編)

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)森山景さん
第100回ピースボート地球一周の船旅(2018年12月出航)に、「おりづるユース」として乗船した森山景さんに寄稿いただきました。このクルーズでは、ブラジルから在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんが約2ヶ月間乗船、森山さんとともに6か国7都市で証言会を開催し、各国の政府関係者と面会しました。日頃、演劇に携わっている森山さんは、クルーズ中に参加者を巻き込んで原爆をテーマにした作品をつくり、発表も行いました。被爆3世として世界で核廃絶を訴えた彼女が、地球一周を通して何を感じたのでしょうか。前後編2回にわたり、寄稿文をお届けします。

15パーセントが動けば社会は変わる

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)戯曲『ブルーシート』を演じた仲間たちと
船内では、核問題を自分ごとにするきっかけづくりとして、2本の演劇を上演しました。私にとって船上での演劇制作は、人とつながる手立てでした。

地球大学プログラムで知り合った仲間、夜のデッキでギターを弾いている子、廊下ですれ違った人たちなどに、演劇経験を問わず声をかけ、世代を超えた30名以上のチームができました。

1本目は、原爆による惨状を描いた連作絵画「原爆の図」の作者である丸木俊(とし)さんのオリジナル評伝劇です。そして2本目は、美術・演出家の飴屋法水(あめやのりみず)さんが福島県いわき総合高校の生徒と共同制作した『ブルーシート』という戯曲です。

どちらも日中英の字幕をつけて上演し、中国やマレーシアから参加した方たちからも感想を頂きました。

演劇は総合芸術なので、照明、演奏、作曲、翻訳、衣装集め、振り付け、会場準備、出演など様々な関わり方ができます。スタッフだけではなく、観客ももちろん参加者です。

今回はこのクルーズで2回の上演を通して、観客を含めてのべ600名以上の方が参加したことになりました。

「15パーセントの人が動けば社会が変わる」。そんな言葉を、今回のクルーズで教えてもらいました。もしそうであるなら、クルーズ乗船者の多くが参加したこの演劇を通して、船内に少しの変化が起きたかもしれません。

家族史から垣間見るわたし

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)
船内企画として開催した「家族史から垣間見るわたし」というイベントのことは忘れられません。この企画は、2人の友人と共同で立ち上げたものです。

そのうちの一人である韓国人被爆3世の友人は、お祖母さんが広島で被爆し、大叔父さんが長崎で被爆しています。

なぜお祖母さんが、日本に渡ったかについてはわかりません。当時の日本軍が朝鮮を併合していたので、強制連行された可能性もありますし、仕事や学業のために渡らざるを得なかったのかもしれません。

いずれにしても、お祖母さんも大叔父さんも、日本の戦争に巻き込まれて原爆の被害に遭いました。私は、この企画を通して、日本国籍以外の被爆者への援護がまったく足りていない現状の理不尽さが身に染みてわかりました。

通訳者でもある被爆3世の友人は、これらのことをすべて日本語で伝えてくれました。彼女は、自分がそんな家族の歴史の先端にいることを受け止めて今を生きています。

旅の間、彼女に悩みや困りごとを相談すると、いつも灯火のような言葉をくれました。私は彼女との出会いに今後も影響を受けると思います。

ここには書ききれませんが、船内ではこの他にも平和を希求するたくさんの活動を行いました。それぞれ参加した人にとって、固有の思い入れがあると思います。私も活動と通じて学んだことを糧に、これからも学びつづけていきます。

被爆したことを知らなかった淳子さん

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)渡辺淳子さん
「広島の薔薇」というボサノバをご存知でしょうか。フルートとギターが美しいこの曲を教えてくれたのは、被爆者の渡辺淳子さんです。

ブラジル在住の被爆者・渡辺淳子さんは、リオ・デ・ジャネイロから乗船され、約2ヶ月にわたっておりづるプロジェクトに参加されました。

1943年に生まれた淳子さんは、2歳の時に広島で黒い雨を浴びました。まだ幼かったためその日の記憶はなく、自分が被爆者だと知ったのは38歳のときでした。

戦後、広島市はブラジルへの移住を推進していました。海外生活に憧れていた淳子さんは、25歳のときに花嫁移住という形で、ブラジルに暮らしている日本人男性と結婚し移住を果たします。そして13年ぶりに広島に帰省した際に、両親から黒い雨の話と、手帳の申請を促されたのです。

被爆した事実を知らず、結婚、出産して、日々を懸命に生きていた淳子さんは、「自分が被爆者であると聞いたときは驚いたけれど、何かを特別に思うことはなかった」と言います。

60歳になった淳子さんは、ブラジル被爆者平和協会会長の森田隆さんに頼まれて、活動を手伝い始めます。そして協会の資料を整理したり、森田さんの証言に同行するうちに、自らも語り始めるようになりました。

記憶のない被爆者の証言

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)渡辺淳子さんが本船に合流された、ブラジルのリオデジャネイロにて。左から、受け入れのICANスタッフのクリスティアンさん、渡辺淳子さん、リオの通訳の方、おりづるユースの森山景さん
記憶のない被爆者としての淳子さんの証言活動は、「葛藤の連続」だと言います。その語りのほとんどは、原爆が落とされて間もない時の映像資料や、協会に残された資料を見た時の実感から生まれています。

「これまで見たもの聞いたこと全てを、身体が覚えている。日々学んで、その中から出て来る言葉を大事にしている。そして、話す時の感情を大事にしている」と淳子さんは仰っていました。

淳子さんの証言は、聞く人に情景を想像させてくれます。そして、聞き手は想像力によって、あの日の惨状に自ら近づくのです。戦争体験がなくても、記憶がなくても、継承活動は可能なのです。

証言活動への向き合い方

【寄稿】記憶のない被爆者との旅路  (おりづるユース:森山景さん−前編)証言をする渡辺淳子さん
「被爆者であること」は、その人の一部であって全てではありません。しかし淳子さんは常に被爆の事実とともに生きている方だと思います。淳子さんは証言会の前にあまり食べませんでした。証言のために身体をコントロールされていたのだと思います。

そして、聞き手(大統領か、新聞記者か、小学生か)によって語り方を変えながら、決して変わらない部分=事実を丁寧に伝えていました。また、帰国後の広島で証言会を行った淳子さんは、その場の力を借りて語っているようにも見えました。

彼女の言葉であっても彼女だけの話ではないような、死者の声を代弁しているような、いま・ここにしかない瞬間がありました。

私は淳子さんの身体性や証言活動の姿勢を見て、被爆証言とは、2度と繰り返してはいけない「あの日」をあえて「再現する」ことではないかと思いました。

不謹慎に聞こえるかもしれないけれど、淳子さんの被爆証言は演劇のようにも感じたことを伝えると、淳子さんは予想外にも喜んでくださいました。証言を聞く時には、内容を受け取るだけでなく、その場で何が起きているのか、その証言者は何を試みているのかまでを考えたいです。

(後編に続く)

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