記憶がないからといって口をつぐんでいられない−在ブラジル被爆者・渡辺淳子さん証言会より

記憶がないからといって口をつぐんでいられない−在ブラジル被爆者・渡辺淳子さん証言会より
在ブラジル被爆者である渡辺淳子さんの証言会を、広島(4月3日)と東京(4月5日)で開催しました。東京のイベントでは、映画「ブラジルに生きるヒバクシャ」(版権:有原誠治氏)を上映後、第100回ピースボートの船旅から下船したばかりの渡辺淳子さんに、日本で初めてとなる証言を行っていただきました。また、おりづるユースとして乗船した森山景さんから、船内や寄港地での活動報告がありました。ここでは、渡辺淳子さんの証言内容をお伝えします。

ブラジルに行きたい!

記憶がないからといって口をつぐんでいられない−在ブラジル被爆者・渡辺淳子さん証言会より証言をする渡辺淳子さん
以下は渡辺淳子さんの証言です。

私は2歳8ヶ月のときに被爆しましたが、本当に記憶が無いんです。記憶がないので証言することに、ぜんぜん当事者意識がありませんでした。ブラジル被爆者平和協会でお手伝いをするようになっても、後ろの方で皆さんのお話を聞いていたような状態でした。でも何年も関わっているうちに、私なりの被爆証言の意味がわかってきました。

はじめに、なぜ私がブラジルに渡ったかについてお話します。母方の祖父母がアメリカに移住しまして、そこで母が生まれました。私は広島に生まれましたが、戦後になっておばさんたちが広島に帰って来るたびに、ハイカラなものを見せてもらったり、珍しい話を聞かせてもらったりしてきました。

そして「大きくなったら自分も外国に行くんだ」と自然と考えるようになりました。20歳のときにブラジルへの移住を募集するポスターを見て、なぜかわかりませんが「この国に行くんだ!」と思ったのです。

男性は一人で行けるし、家族も行けました。でも、女性一人では移住できません。そうすると、花嫁移住しかないんです。花嫁移住というのは、ブラジルにいる日本の男性と結婚の手続きをして移住することです。

当時は移住した家族の息子さんが大きくなって、日本からお嫁さんが欲しいというニーズが強かったのです。そこで私もお嫁さんになって移住しました。1967年4月、ブラジル丸という移民船で神戸を出発して、45日かけてブラジルに行きました。

「淳子、あんたは被爆者なんだよ」

それから13年後の38歳のとき、私の主人から「ちょうど知人が日本に行くから、一緒に行って広島のお父さん、お母さんに会ってきたらどうだ」と言われ、13年ぶりに里帰りしました。

広島で両親に合うと、「淳子、あなたは黒い雨にかかった被爆者なんだよ」と言われました。私はそのとき初めてその事実を知りました。被爆者手帳をもらうには当時は保証人が2名必要でしたが、幸いにも私のことを知る2名とも存命で、手帳を発効してもらうことができました。

原爆が落ちた日のことも、家族から聞きました。私たち家族は、当時は爆心地から18キロの所にある場所に疎開しておりました。8月6日は天気のとても良い日で、母は乳飲み子の弟を連れておりました。私と兄は、近所のお宮で友だちと木登りしたり、いつものように遊んでおりました。

8時15分になったとき、あれだけいい天気だったのにいきなり強い風が吹いてきて、たくさんの紙が舞い降りました。その中には、焼け焦げた通帳なども混じっていたようです。私はびっくりして、とっさに兄とともに母のところに行きました。

その途中で黒い雨が降り、私たちはみんなその雨を浴びました。それから私は毎日ひどい下痢に襲われ、食事を与えても留まらずに直接出てくる状態でした。

それが何日も続いたので、家族からは「あぁ淳子はもう死ぬかもしれん」と思われました。それでも私は、今日まで生かされています。

母を呼ぶ子ども

記憶がないからといって口をつぐんでいられない−在ブラジル被爆者・渡辺淳子さん証言会より
私が60歳になったとき、ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長から「渡辺さん、あんた若いんじゃけ、協会を手伝ってくれんか」と声をかけられました。それで協会に入ったのですが、私は協会が何をしているか知りませんでした。

そこで、まずは事務所にあるいろいろな資料を片付けるところから始めました。事務所には、ブラジルに住む被爆者の皆さんの証言や写真、ドキュメンタリー映像などがたくさんありました。

私にとって特に印象的だったのは、1987年に約200名の南米在住の被爆者を対象にとったアンケートでした。古くなって黄ばんだアンケート用紙には、原爆が落ちてどうなったかという一人ずつの体験が、事細かに書いてありました。

私はそれを読みながら、自分がこの歳まで何も知らずに生きてきたことに、本当にショックを受けました。

また、原爆投下から1ヶ月後の広島の様子を撮影した動画を見ました。その映像もものすごくショックでした。暗闇の中で、子どもたちやお年寄り、そういう人たちがほとんどだったんです。

その映像でどうしてもぬぐえないのは、男の子か女の子かわからないその子が、口を開けて一生懸命に何か言っているのが映っていました。それを見て、自分がその場所にいて、母を呼んでいるかのように錯覚しました。

その時の心の震えは、いまも出てくるんです。絶対にそういう目に遭う人を出してはいけないと思いました。 

私なりの証言でいい

こういうことを知ったとき、何とも言えない体の震えを感じ、いろんな思いがよぎりました。毎年8月が近づくと、ブラジル被爆者平和協会にもたくさんのメディアが被爆者の話を聞きに来ます。

だけど、証言者がどんどん少なくなっているんですよ。じゃあこの人たちが話をできなくなったときに、どうなるんだろうと。そこで、いろんなモノを受け取った私の胸にあるものを、私なりの証言としてお話することはできないか、と思うようになったわけです。

被爆証言をするようになって、はじめは本当にぎこちない証言だったと思います。ブラジルで証言をする場合は、直接伝えられるようにポルトガル語で話さないといけません。私は自分の知っている範囲のポルトガル語で、自分の口でお話しするようにしています。

あの日はいつもの朝が始まり、みんな外に出ていたんです。するといきなり3000度を超える熱風と熱戦と放射能と黒い雨と、そういうものが襲いかかりました。地面の上には黒い物体がいくつも落ちているんです。

それは真っ黒になった子どもなんです。そして一瞬にして亡くなった人、かろうじて生き残った人、そういう人たちが水を求めて歩いた。ひどい人は目が飛び出し、腸が飛び出したのを自分で持って歩く。

私がそういう事を話しても、「あんたは記憶がないんじゃからわからんじゃろう」とか、「匂いはわからんじゃろう」とか、何回も言われました。確かにわかりません。だけど被爆が何であったか、あのとき何が起こったか、それは私なりに理解しております。

証言をしているうちに、いろいろな経験させていただき、学ぶこともたくさんありました。さまざまな国で放射能被害があることも勉強しました。世界には、大勢の被爆者がいます、現在も被爆者が出続けているのです。

佐々木禎子さんとともに

記憶がないからといって口をつぐんでいられない−在ブラジル被爆者・渡辺淳子さん証言会より渡辺淳子さん
私の心には、いつも佐々木禎子さんがいます。彼女は私と同じ年で、誕生日も近いんです。禎子さんは10歳までは活発な子でしたが、急性白血病となって入院しました。

辛い闘病生活の中で、千羽の鶴を折れば大好きな家族と生き続けられると信じて鶴を折りましたが、12歳で亡くなりました。その後はお友だちが鶴を折り続け、いまでは折り鶴が世界中で平和のシンボルとなっています。

2010年に、ニューヨークの国連で禎子さんのお兄さんと甥っ子さんにお会いしました。私はお兄さんに抱きついて泣いたんですよ。お兄さんはそのとき禎子さんの折った鶴を私の手に置いて、「サンパウロのあなたのところにあげます」と言ってくださいました。

その言葉通り、2015年の被爆70周年のとき、お兄さんと甥っ子さんがサンパウロまで鶴を持ってきてくださり、盛大なセレモニーが行われました。いまはサンパウロ州議会の中に永久展示されております。「禎子の鶴」は、世界中いろいろな所に羽ばたいております。 

私の兄は、11年前に肝臓ガンで亡くなりました。赤ん坊だった弟は広島で生きておりますが 血の病気でつらい養生をしております。私もいつかそうなるのではないかといつも不安を感じています。

記憶のある人がだんだん話せなくなっているときに、私が記憶がないからといって口をつぐんでいるわけにはいかない。せめて私が感じた、被爆した人たちが表現している想いであったり、表情、態度、声… そういうことを私なり証言させていただいております。

どうもありがとうございました。

※今回の渡辺淳子さんの証言は、以下のメディアでも報道されました。

・4月11日
 毎日新聞広島版「被爆証言、平和のために 在ブラジル・渡辺さん」
・4月16日
 しんぶん赤旗 きょうの潮流

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