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第14回エッセイ大賞入賞者発表!

第14回エッセイ大賞入賞者発表!
第14回「旅と平和」エッセイ大賞では、以下の作品が入賞いたしました。審査委員による選評および、作品全文を掲載いたします。なお、今回の大賞は2作品あります。受賞者の皆さん、おめでとうございます。

大賞 サンタクロースの国からの【平和のきもち】/山本真記子さん
大賞 「私なりの受け継ぎかた」/中島麗奈さん
次点 「手違い留学からイスラムに飛び込む」/野津波音さん

*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードしてお読みいただけます。
INFO
第14回「旅と平和」エッセイ大賞では、以下の作品が入賞いたしました。審査委員による選評および、作品全文を掲載いたします。なお、今回の大賞は2作品あります。受賞者の皆さん、おめでとうございます。

大賞 サンタクロースの国からの【平和のきもち】/山本真記子さん
大賞 「私なりの受け継ぎかた」/中島麗奈さん
次点 「手違い留学からイスラムに飛び込む」/野津波音さん

*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードしてお読みいただけます。

第14回エッセイ大賞選評

第14回エッセイ大賞入賞者発表!
●鎌田慧さん(ルポライター)

大賞サンタクロースの国からの【平和のきもち】/山本真記子さん
若いときに、それも早いうちに、自分がしたいことを自分で発見できることは、幸せなことだ、とおもう。山本真記子さんは、聴覚障害者として高校生のときにおなじ聴覚障害者の手話と出会い、人びととの繫がりに魅力を感じるようになる。その後フィンランドに留学するチャンス恵まれ、福祉途上国での手話学会を設置したいとの夢をもつようになる。それにむけて着実に行動している姿がさわやかだ。

大賞「私なりの受け継ぎかた」/中島麗奈さん
小学生のときに隣国・韓国の釜山に交換派遣に参加、中学生で米国セントポールに派遣される。長崎との姉妹都市の縁だが、このとき「原爆投下は戦争を終らせるために必要だった」との言葉にショックを受ける。自分が長崎に生まれたことを運命と感じて、その後、米国との交換留学生になる。平和をめざす国際弁護士になる、との夢は実現してほしい。

次点「手違い留学からイスラムに飛び込む」/野津波音さん
残念ながら、次点だった。多様なムスリムの姿をきちんと書く、澄んだ眼がいい。「留学が終って、どうしたか」それからはじまる発見を、また書いて応募して下さい。期待しています。

第14回エッセイ大賞選評

第14回エッセイ大賞入賞者発表!
伊藤千尋さん
●伊藤千尋さん(元朝日新聞記者・ジャーナリスト)

大賞サンタクロースの国からの【平和のきもち】/山本真記子さん
山本さんは聴覚障害者だ。訓練で口話と読唇さらに手話を学び、人と交流する中で自分の存在価値と人生の重みを実感した。自ら志し周囲の反対を押し切ってフィンランドに留学し、福祉途上国での事業に意欲を燃やすかたわら英国の大学院で平和学を学ぼうとしている。

ピースボートはこれまでさまざまな障害者を受け入れてきたが、ここまで努力している聴覚障害者はいなかったのではないか。世界に目を向け、現実に自ら飛び込んできた山本さんが船で世界を回って交流すれば、それはそのままピースボートの目的に合致するどころか、ピースボートに新たな1ページを開くことになる。期待したい。

大賞「私なりの受け継ぎかた」/中島麗奈さん
中島さんは長崎に住む被爆4世だ。小学生のときに交換派遣で韓国にホームステイし、中学生の時は米国に派遣された。そのさい原爆展で米国人の考えを知って愕然とした。そこから平和学習部に入り史上最年少で交流証言者の認定を取得した。高校生になると米国に留学し、原爆を肯定する同級生を相手に被爆の実相を伝えようと努めた。その行動力を買う。

次点「手違い留学からイスラムに飛び込む」/野津波音さん
次点の野津さんは高校1年のときにコスタリカ留学を志したが、間違ってマレーシアに行くことになった。そこでイスラムの習慣にはまった。愛すべきおっちょこちょいだ。つまずいても、すぐに転身して希望に変える楽天性と好奇心は高く評価したい。この調子で世界の各地を見て回れば、さぞや多くの学びを獲得するだろう。

第14回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

サンタクロースの国からの【平和のきもち】山本真記子さん(32歳)

私は聴覚障害者です。私は2歳になる直前に聴覚障害と診断されました。
私は保育所に入園してまもなく、毎週水曜日のみ、聾学校にも通うことになりました。
片道1時間30分の距離にある聾学校のほか、地元の言語指導教室へ通い、定期聴力検査、発声訓練、言葉の学習指導を受けました。
そのお陰で、私は口話および読唇(話し手の唇の動きを目で見て読み取ること)が可能になりました。
聾学校への送迎は母と祖父が自営業のお店の都合を合わせながら交代で行ってくれました。
自宅から聾学校を往復する車の中も学びの空間でした。母や祖父とは保育所での出来事や家族の話や、世の中についてなどの話をしました。
また車内でその日に学習した発音訓練や言葉の学習の復習をすることもありました。
当時の私は、サ行と「つ」を正確に発声することが苦手でした。

私には3人の姉がいます。最も年が近い姉とも5歳離れています。
姉たちは、母が私ばかりに構っていたことで寂しい思いをしていたに違いありません。
母が私の教育で精一杯だった時期、姉達は学校でいじめを受けていました。母は私の教育で精一杯になっていたため、直ぐには姉たちの実状やこころの異変に気づくことが出来なかったといいます。

その後、私は小学校から地域の普通学校に通いました。私は不可解な行動を繰り返す子どもでした。
当時はまだ聴力が良かったため、先生が説明することを聞き取ることは困難ではありませんでした。
しかし人の話を持続して聞く力がなかった私は教室を突然飛び出し、下駄箱の前に行って同級生たちの名前をボーっと眺めながらひとりで遊んでいたこともありました。
母と祖母は私の行動の意味や思考回路が全くわからない、という様子でした。

また、私は他の子どもたちが一般的にはやらないような方法で課題に取り組む子どもでした。
図工の時間にクレヨンで自分の顔を描く時には、肌の部分を肌色ではなく橙色で塗りつぶしていました。
周囲の子どもたちは不思議そうに見ては、「まきこちゃん、なんで顔の色がだいだい色なの?」と尋ねました。先生も「なんで肌色を使わんの?」と尋ねてきました。しかし私はそれらの質問には答えず、ただ黙って取り組んでいました。私には他の子どもとはずれている「何か」がありました。

中学・高校生時代にはクラスメイトたちとの会話に入って行くことが出来ず、私は常に一人で行動していました。また当時は手話も分からず、時々お会いしたほかの聴覚障害者の方々との会話もままなりませんでした。さらに勉学面でも自分が納得できる結果を出せないでおり、人生を悲観する時もありました。
そんなある日、ある一人の聴覚障害者の女性との出会ったことがきっかけで手話を習い始めることになります。
手話を使い始めると、たちまち人生が変わりました。
日々、会話を楽しむことのできる仲間たちと会える。心から笑うことができる。
私はこの時、(今後は積極的に人との繋がりを求め、人脈の輪を広げてゆきたい!)と感じました。

大学では精神保健学を専攻し、現場実習を経て【人の人生の重み】を痛感しました。
そこで自分が中学生の時から心に留めていた「国際支援が出来る人になりたい」という気持ちが確実なものになってきました。
私は27歳の時、身体障害者を対象とした海外派遣事業制度の支援を頂きながら、第33期研修生として、福祉大国であるフィンランドで1年間研修留学することになりました。
中学生の頃から関心を持っていた「国際協力」について、手話を通じて学びたいと思ったのです。
この海外派遣制度を活用できるようにするためには、書類選考そして面接試験を経る必要がありました。
書類選考は無事に通過しましたが、最終面接では雰囲気が重苦しく、また面接官の質問内容も厳しいものでした。
私は質問内容に的確に応える事が出来なかったと感じ、不合格を確信していました。
しかし、結果は合格でした。私は周囲の人々に「海外で研修したい」と伝えました。
すると両親や家族、職場の人たちから「仕事はどうするのだ?」「一人で行くのか?」「聞こえない君には危ないからダメ!」と、強く反対されました。
(自分のことを応援して欲しい)と感じる人ほど、海外研修に挑戦することを許してくれませんでした。

それでも私は夢を諦めたくありませんでした。何度反対されても周囲への説得を続けました。
そのようにして時間ばかりが経過する中でも、研修先との交渉やビザ申請、保険内容の確認や手続きなど、やるべきことがたくさんあり、私は心身ともに疲れ切ってしまいました。
気づけば7ヶ月が経過していました。この7か月間は実に毎日が【闘い】でした。
紆余曲折ありましたが、最終的にはようやく周囲の人々が認め、応援してくれるようになりました。

現地での研修が始まってから2~3ヶ月の間は現地の手話も全くできず、またフィンランド人はとても内気な性格であるがために、なかなか友達もできませんでした。
私は積極的に人々に話しかけていき、少しずつ現地の手話を覚えていきました。

私がフィンランドで学びたかったことは【国際平和につながる事業について】でした。
一般に知られるNGO団体などの活動とは別で、聴覚障害者連盟の国同士の国際協力です。
世界には、聴覚障害者の社会的権利が無い国が多くあります。
中でもフィンランドはこれらの国々を支援し、「世界ろう連盟」の事務所を構えています。
私はフィンランドの聴覚障害者協会が活動途上国を支援し連携する手順や経緯を調査しました。
フィンランドから支援を受けている国は、アルバニア、ウガンダ、ヨルダン、カンボジアなどです。
これらの国の課題は、障害者の権利が保障されておらず、聴覚障害者たちも自身の国の手話はおろか、自国の言語知識もままならないということでした。
フィンランド側は、支援している国々のろう者たちが自分たちの努力で成長できるよう様子を見ながら支援しています。大切なことは「助ける」ことではなく「つながる」「相互協力する」ということでした。
調査を重ねる中で、「支援する」だけでなく、「国同士でお互いに連携し、高め合う」ことが一番大切であるということを学びました。

また研修期間中には、近隣国のスウェーデン、ノルウェー、デンマークを筆頭に、イギリス、イタリア、フランスなどへも足を運び、各国による途上国の聴覚障害者連盟への支援状況と連携方法を取材しました。国際支援にも各国の特色があり、フィンランドの聴覚障害者協会や世界ろう連盟の事業とはまた異なる支援方法をしていることを知りました。
そういった研究を進める中、私自身も「今後は自分が福祉途上国での手話学会を設ける事業に取り組みたい!」と志すようになりました。開発途上国のみならぬ福祉途上国において、現地の聴覚障害者たちが一堂に集い、手話の学習や障害者の権利について学び、政府や関連機関へ要望を提示していくための事業支援をしたいというイメージが湧いてきたのです。

約1年間の研修留学が終了し、日本へ帰国する時がやってきました。
帰国直前には多くの友人たちが送別会に集まってくれました。
その時、いろいろなことが頭の中を駆け巡りました。
合格後の7ヶ月間の説得。当初は友人も少なく寂しかったこと。
途中、研修に行き詰まって自分が何をしたいのか分からなくなってしまったこと。
それでも自分はこの地に降り立つことができ、無事に1年間の研修が終わり、そして今はこんなに多くの素晴らしい友人たちに囲まれている!...と、様々な思いが一気にこみ上げ、涙がぶわっと出てきました。

日本に帰国した直後、1年ぶりに実家へ足を踏み入れた私に、思いがけぬ言葉が待っていました。
あれほど大反対して「行くならば勘当する!」とまで言っていた父が、「結果的には行かせて良かった」と言ってくれたのです。後に母から聞かされ、頑固な父がそのような言葉を言ったということに驚きながらも感動を覚えました。

―意志あるところに道は通じる。―

そのことを強く実感した瞬間でした。

その後まもなく、私をこの事業の研修生として選出してくださった先生の訃報が入りました。
先生は肢体麻痺の方で、同事業の第2期研修生でもありました。
先生は私がフィンランドへ渡航する直前、励みになるメッセージをくださいました。
そんな先生が、留学を諦めるべきかと悩んでいた私にくださった心に残る言葉があります。
【可能性を広げる生き方をしてください。】
今の挑戦や努力は、未来の自分へのプレゼントになる。私はそれを実感しています。

研修終了後、留学前と比較して交友関係ががらっと変わりました。
ヨーロッパやアメリカ、アジアから日本を旅行する各国の聴覚障害者の方々から連絡を頻繁に受け、京都観光や食事案内をする機会が一気に増えました。
国際手話で会話を進めながら諸国の情勢、聴覚障害者たちの生活そして福祉制度、また今後の理想的な動向についての情報交換をしています。

そして私は今、イギリスの大学院で国際平和学・国際開発学を専攻する目標に向けての準備に取り組んでいる最中です。第二の留学が実現した暁には、平和学を多様な視点から考察し、「開発途上国の聴覚障害者の権利擁護そしてコミュニケーション方法の確立」に向けた取り組みの実現へ向けて学びを深めたいと志しています。
これまでの出会いや学んだ事を大切に、自分の経験を周囲の人々にお伝えしていく姿勢を続けること。
それが、サンタクロースが住む国フィンランドから帰還した私からの皆さんに対するプレゼントとなれば良いなと思います。

「私なりの受け継ぎかた」中島麗奈さん(17歳)

私が幼い頃、我が家の浴室には世界地図と国旗のポスターが貼ってあった。体を温める時間は、4つ違いの弟と母と三人のクイズの時間として過ごした。

そのおかげか小学校5年の社会の授業の時に「スリランカの首都が分かる人?」と先生に問われ、クラスでたった一人答えられたことが自信になり、日本以外の国に興味が湧き、世界の国々のことをもっと知りたいと思うようになった。

その翌年、学校で一枚のチラシが配布された。そこに書いてあった「韓国へ行きませんか?」文字は私の目に輝かしく飛び込んできた。心配性の母を説得して、参加した交流派遣は、韓国釜山の同年代の子たちとの交換派遣だった。あらかじめ決まった家庭の同年代の子同士が日本と韓国のそれぞれの家庭に交換ホームスティするプログラムだった。韓国での生活・食文化・様々な体験をする中で「同じアジアですごく近い国なのに、なぜこんなに文化が異なるのだろう?」と感じながらも毎日が楽しく、この体験は、更に私の興味を海外へ向けさせるものとなった。中学校へ進学し、中学2年生の春、またも運命的なチラシと出会った。それは、私が住んでいる長崎市が姉妹都市であるアメリカ・セントポール市へ姉妹都市締結六十年を記念して中学生を派遣するための派遣団の募集のチラシだった。12倍の倍率を見事に突破し、派遣団に加わることができた。そして、このセントポール市への派遣は私の高校への進路を決める大きなきっかけとなった。

私たちは、派遣団として果たすべく大きな役割があった。それは、長崎原爆投下から七十年を記念して長崎市とセントポール市が共同開催する原爆展に出席することだった。原爆展では、来場者へ展示物の説明をしたり、被爆者の証言をもとに作成した紙芝居を披露したりするのが私たち被爆地から出席した中学生の役割だった。役割を無事に終え、原爆展を後にする時、原爆展の会場の周りにたくさんの張り紙があった。英語で書いてある張り紙の意味を当時の私の英語力では、理解することができなかったため、引率の英語の先生へ意味を尋ねたところ、「原爆投下は戦争を終わらせるために必要なことだった。」と書かれていることを教えてもらった。「原爆投下は必要だった?!」この言葉にとても大きな衝撃を受けた。幼い頃より平和学習で学んだ原爆投下による惨状やその後の放射線による被爆者の苦しみが必要だった?!「どうして必要だったのですか?」と現地の人に問い、議論し合うほどの原爆投下に関する知識も深くなく、それを伝える英語力もなく、モヤモヤとイライラが混ざった何とも言えない感情だった。このセントポールの経験は、悔しさと苦いものになった。

帰国後、私はセントポールでのあの悔しさが忘れられず、自分で何か行動を起こしたいと思った。私の生まれ育った長崎では、長崎へ原爆が投下された8月9日は登校日に設定され、小学生から平和学習を行う。その環境で育った私は、どこかで「長崎の子だから原子爆弾や核兵器がどれだけ恐ろしいものかわ分かっている」と過信していた。そして、被爆者が高齢化しているいま、74年前に起こったあの悲劇はどうやって後世に残されていくのだろうという疑問も湧いてきた。私が世界でたった一つの被爆国である日本「長崎」で生まれ育っていることも運命的に感じ、原子爆弾や核兵器のこと・被害状況・被爆から復興への道のり・放射線による健康被害等、原爆投下に関係することを調べ、被爆者から直接被爆体験を聞いてみた。すると、知識が深まると同時に、原子爆弾を投下したアメリカ側のことにも興味が沸いてきた。

原子爆弾が投下された第二次世界大戦は、真珠湾攻撃がきっかけと知った。そんな折、母から以前、曽祖父と旅行をした際に、真珠湾を訪れた曽祖父が涙した話を聞いた。母の話では曽祖父は悔しかったと言っていたらしい。「悔しかった?!」曽祖父の悔しい思いは何なのかを見つけに真珠湾を訪れてみたいと強く思い、家族に頼み込んで中学3年生の夏に真珠湾を訪れた。そして、現地で真珠湾攻撃についてのアメリカ側の話を聞くことができた。第二次世界大戦は、真珠湾で始まり真珠湾で終わったこと。戦艦アリゾナから今も湧き出てくる油。

真珠湾で目にしたものは私に強烈な印象を与えた。兵士として第二次世界大戦に出兵していた曽祖父の涙の訳は、アメリカ側の立場で話された第二次世界大戦の説明の全てだったのであろう。戦艦ミズーリのデッキには足跡がある。それは、敵と味方で戦っていた両国の兵士たちだが、飛行機ごと体当たりして命を落した日本兵の亡骸を戦艦ミズーリのアメリカ兵達が埋葬した場所であることを示している。この話を聞いた時、私の中で何かがストンと落ちてきて、清々しい気持ちになった。そして、真珠湾での経験は、物事を双方から捉え考えるという大切なことを私に教えてくれた。

長崎に生まれ、長崎で育っていること。中学2年生でセントポールの原爆展に出席できたこと。中学3年生で真珠湾を訪れ、日本とは違う視点で第二次世界大戦を学べたこと。何よりも被爆者から直接被爆体験を聞くことができる最後の世代であること。私は平和学習部のある今の高校へと進学を決めた。

希望する高校へ入学することができ、平和学習部へ入部した。平和学習部では、私の知らなかった様々な平和活動を知ることができた。その1つに長崎市が行っている「家族交流証言者事業」というものがあった。これは、被爆者の高齢化に伴い、被爆者の証言を受け継ぐという事業である。証言には、家族や親族の証言を受け継ぐ家族証言者と血縁関係や親族関係のない被爆者の方の証言を受け継ぐ交流証言者の二通りがあり、私は、交流証言者へ応募した。

私が証言を受け継いだのは被曝当時15歳だった女性である。応募当時15歳だった私は、自分と同じ歳に被爆した女性の被爆者の話を受け継ぎたいと思った。初めて被爆体験を聞いたときのショックは忘れられない。「自分と同じこの歳でこんなにも悲惨な体験をしたのか。自分が死ぬかもしれない恐怖に私は耐えれるのか。」と。何度も何度も彼女との交流を深めていくうちに、被爆当時と同じ年代の私だからこそ伝えられる何かがあると信じたいと思った。また、自分と同じような高校生や中学生にこの交流証言を聞いて欲しいという気持ちが強くなった。そして、昨年の3月、史上最年少での交流証言者認定を取得した。

高校2年生になり、今、私は交換留学生としてアメリカへいる。こちらの高校の歴史の授業で、アメリカ側の第二次世界大戦・真珠湾攻撃・原子爆弾について学んでいる。原爆投下について学んだ時、「被爆地長崎」出身であることに先生が興味を持ってくれて、長崎の原爆投下について話したり、継承した被爆体験講話をさせてもらったりする機会を得た。日本と比較するとストレートな国民性のため「その考え方は間違ってる」と言われたり、「そんなのは嘘だ」と話を聞いてもらえなかったりすることもあった。正直その反応は辛いが、私はそれでも良いと思っている。私が被爆継承をする意味は、核兵器の恐ろしさを知ってもらうためである。私の話を聞いて、何らかの反応を示していることできっかけとしては充分だと思っている。戦争の責任がどちらにあるのかという問題は今の時代の議論ではない。被爆の実相を伝え、そこに起きたことを自分の大切な人だと置き換えて欲しい。そして、今、隣にいる知らない人は誰かの大切な人であることを忘れず、隣人に少しの思いやりを持って欲しいと思っている。これから、被爆者は更に高齢化し、それに伴い今は82歳の平均年齢も高年齢化していくことになる。そして、被爆者が誰もいない、そんな世代が近くまで迫ってきている。私自身、被爆四世のため、私の家族には被爆者は一人もいない。4歳の頃に亡くなった曾祖母が被爆者だったが、幼すぎて曾祖母の記憶も少ししかない。

釜山がきっかけとなり、セントポールは私に自分の未熟さを痛感させ、大きな影響を与えた。

真珠湾は物事を双方から捉え、本質はなんであるかを見極める力が必要であると私を気づかせてくれた。そして、今の私がいる。

我が家の日本の家のトイレには相田みつを氏の日めくりが掛けてある。その中に「うまれかわり死にかわり永遠の過去のいのちを受けついでいま自分の番を生きているそれがあなたのいのちですそれがわたしのいのちです」という詩がある。平和活動に興味がなかった時は、気にも留めなかった詩が1ヶ月に1度気になるようになった。「永遠の過去のいのちを受けついで」生きている私ができること…。

将来、私はAdvocateになりたい。長崎で生まれ育った私だから発信できる原爆投下の実相。核兵器廃絶に留まらず「平和」が解決してくれよう貧困・教育・自然環境・社会環境などの問題にも興味があり、今後、視野を広めていきたいと思う。世界には、まだまだ諸問題により自分達からは問題を発信できない人たちがいると思う。そんな人たちの元へ足を運び、一緒に発信し抱えている問題が少しでも解決できるような活動を行っていきたいと思う。

出典:相田みつを(詩人・書家)『にんげんだもの』詩「自分の番うまれかわり」

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