第11回エッセイ大賞入賞者発表!
第11回「旅と平和」エッセイ大賞では、以下の作品が入賞いたしました。審査委員による選評および、作品全文を掲載いたします。
大賞 「私の夢見る絵と心の旅」/上橋望海さん
次点 「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」/加藤剛矢さん
*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
大賞 「私の夢見る絵と心の旅」/上橋望海さん
次点 「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」/加藤剛矢さん
*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
- プロジェクト: 「旅と平和」エッセイ大賞
INFO
2016.5.26
2021.9.27
第11回「旅と平和」エッセイ大賞では、以下の作品が入賞いたしました。審査委員による選評および、作品全文を掲載いたします。
大賞 「私の夢見る絵と心の旅」/上橋望海さん
次点 「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」/加藤剛矢さん
*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
大賞 「私の夢見る絵と心の旅」/上橋望海さん
次点 「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」/加藤剛矢さん
*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
第11回エッセイ大賞選評
●鎌田慧さん(ルポライター)
今回の応募作品は、20代初めの学生が多かった。たしかに学生は経験不足とはいえ、旧世代を乗り越えようとする自己主張の強さにその存在意義がある。自分のささやかな体験の思想化、あるいは意識化と実践、実際行動にむかう姿勢によって、旧世代を乗り越えるエネルギーが引き出されるはずで、不屈の意欲ある若者の文章を選者はもとめている。
だから、「旅と平和」のエッセイは、必ずしも地理的な旅に限定されるのもではなく、社会にたいする挑戦や冒険の記録もまた、人生上の旅として期待している。
というのも、このコンクールの主催者であるピースボートは、いまは世界規模の旅を企画し、各国で人と人とを結ぶ平和交流を実施しているが、もともとは数人の学生たちが、日本が侵略したアジアでの戦争の跡を検証する旅からはじまった。まず最初は船会社との交渉からだった、という。最近では、SEALDsの活躍もあって、若者たちの社会参加がひろがっている。
上橋望海さんの「私の夢見る絵と心の旅」は、フイリピンのゴミの山・スモーキーマウンテンを訪問した体験から、スラム街に住む子どもたちの夢について考え、そのあとに訪問した鹿児島県志布志市のゴミのリサイクルとを繋げて考えている。
一つのテーマにこだわりながら、視野を広げ、考えを深化させていく。大事な プロセスである。
直接的な暴力ではなく、差別、格差がつくりだす「構造的暴力」を解決するための方法の考察に到達した、考え方の誠実さを評価したい。前に進むことを信じさせるエッセイである。
加藤剛矢さんの「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」は、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」のバリエーションともいえる。
ニューヨークのブルックリンで、ホームレスなどを対象に、アンケート調査を行っていた経験から、観念でしかなかった「格差社会」を実感するようになる。「彼らは人生とアメリカに一見失望しているように思えたが、実はそうではない。人生とはこういうものだと強く自覚し、強く生きていた。それは安易な悟りではなかった。だが同時に、弱り果てていた人もいたことは事実だ」
社会認識の入り口はさまざまだ。だからアメリカまで出かけていって、はじめて下層の実態に遭遇するのも悪くはない。行動力を買って次点とした。行動してから考えるひとつの例だ。これからどう日本の現実を認識し、自分を社会化するのか、その考えを深め、さらに行動を継続して欲しい。
●伊藤千尋さん(元朝日新聞記者・ジャーナリスト)
はっきり言うと、今回の応募者の作品に心揺すぶられるものはなかった。これまでの応募の受賞者が出した内容に比べて、あまりに体験のスケールが小さかったからだ。一口で言えば、小粒だ。
その中で可能性を感じさせたのは、上橋望海さんの「私の夢見る絵と心の旅」だ。地球の周りを人々が輪になって手をつなぐ絵が、上橋さんの原点だった。フィリピンでスモーキーマウンテンの人々を知り、鹿児島のゴミのリサイクルと結びつけたところが発想の出発点だ。その上で平和学でいう「積極的平和」を知り、戦争法への反対の声を上げるようになった。
淡い理想を抱き、ひどい現実を知り、これぞという知識を得て、問題の解決を探る道に入った。それはとても素直なことだ。行動も考えも明らかにひ弱ではあるが、この道をそのまま素直にたどれば、「架け橋」に至ることができる。その可能性を買いたい。
加藤君はニューヨークでの調査体験でアメリカの社会にさまざまな人々がいることに気づいた。そして「事実を知るだけではダメだ。行動に移さなければ」と悟った。ならば、その行動に移すところまで実現してほしい。ピースボートの旅に乗っかることで行動にしようとする考えは、甘い。
今回の応募作品は、20代初めの学生が多かった。たしかに学生は経験不足とはいえ、旧世代を乗り越えようとする自己主張の強さにその存在意義がある。自分のささやかな体験の思想化、あるいは意識化と実践、実際行動にむかう姿勢によって、旧世代を乗り越えるエネルギーが引き出されるはずで、不屈の意欲ある若者の文章を選者はもとめている。
だから、「旅と平和」のエッセイは、必ずしも地理的な旅に限定されるのもではなく、社会にたいする挑戦や冒険の記録もまた、人生上の旅として期待している。
というのも、このコンクールの主催者であるピースボートは、いまは世界規模の旅を企画し、各国で人と人とを結ぶ平和交流を実施しているが、もともとは数人の学生たちが、日本が侵略したアジアでの戦争の跡を検証する旅からはじまった。まず最初は船会社との交渉からだった、という。最近では、SEALDsの活躍もあって、若者たちの社会参加がひろがっている。
上橋望海さんの「私の夢見る絵と心の旅」は、フイリピンのゴミの山・スモーキーマウンテンを訪問した体験から、スラム街に住む子どもたちの夢について考え、そのあとに訪問した鹿児島県志布志市のゴミのリサイクルとを繋げて考えている。
一つのテーマにこだわりながら、視野を広げ、考えを深化させていく。大事な プロセスである。
直接的な暴力ではなく、差別、格差がつくりだす「構造的暴力」を解決するための方法の考察に到達した、考え方の誠実さを評価したい。前に進むことを信じさせるエッセイである。
加藤剛矢さんの「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」は、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」のバリエーションともいえる。
ニューヨークのブルックリンで、ホームレスなどを対象に、アンケート調査を行っていた経験から、観念でしかなかった「格差社会」を実感するようになる。「彼らは人生とアメリカに一見失望しているように思えたが、実はそうではない。人生とはこういうものだと強く自覚し、強く生きていた。それは安易な悟りではなかった。だが同時に、弱り果てていた人もいたことは事実だ」
社会認識の入り口はさまざまだ。だからアメリカまで出かけていって、はじめて下層の実態に遭遇するのも悪くはない。行動力を買って次点とした。行動してから考えるひとつの例だ。これからどう日本の現実を認識し、自分を社会化するのか、その考えを深め、さらに行動を継続して欲しい。
●伊藤千尋さん(元朝日新聞記者・ジャーナリスト)
はっきり言うと、今回の応募者の作品に心揺すぶられるものはなかった。これまでの応募の受賞者が出した内容に比べて、あまりに体験のスケールが小さかったからだ。一口で言えば、小粒だ。
その中で可能性を感じさせたのは、上橋望海さんの「私の夢見る絵と心の旅」だ。地球の周りを人々が輪になって手をつなぐ絵が、上橋さんの原点だった。フィリピンでスモーキーマウンテンの人々を知り、鹿児島のゴミのリサイクルと結びつけたところが発想の出発点だ。その上で平和学でいう「積極的平和」を知り、戦争法への反対の声を上げるようになった。
淡い理想を抱き、ひどい現実を知り、これぞという知識を得て、問題の解決を探る道に入った。それはとても素直なことだ。行動も考えも明らかにひ弱ではあるが、この道をそのまま素直にたどれば、「架け橋」に至ることができる。その可能性を買いたい。
加藤君はニューヨークでの調査体験でアメリカの社会にさまざまな人々がいることに気づいた。そして「事実を知るだけではダメだ。行動に移さなければ」と悟った。ならば、その行動に移すところまで実現してほしい。ピースボートの旅に乗っかることで行動にしようとする考えは、甘い。
第11回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品
「私の夢見る絵と心の旅」 / 上橋 望海さん(22歳)
小さい頃よく目にした絵があります。地球の周りを様々な人たちが手をつないで輪になっている絵です。その絵からは、民族・人種・宗教などでは差別されない平和と、互いを認め尊重しあう共感を感じます。私はその絵が大好きで「あなたも輪の一員なんだよ。」と誘っているように思えて、将来はこの絵のように世界中の人と友達になりたいと夢見ていました。
しかし大人になるにつれ知っていく現実は、自分の夢見ている絵とは違う現実なのだと思い知りました。自分と同じように平和で衣食住に困らない国ばかりではなく、そうでない国、争いを続ける国もあるのだということに気付き、なぜこんなにも住環境が違うのか、この不条理を無くすにはどうすれば良いのかと疑問が生まれました。これが私の海外に行こうと思い始めたきっかけです。
大学で、児童学を専門に勉強している私は2年生の夏、初めてフィリピンに行きました。フィリピンには、スモーキーマウンテンというゴミで出来た山があります。そこでは、ごみ拾いをして生活を成り立たせている人たちがいる。まだ小学校にも上がらない子どもたちが大人に交じりゴミを拾うという現実を、テレビの映像を見て知りました。私の行ったイロイロ市では、周辺の約42万人から出るゴミを受け入れる投棄場があり、その周りを約3000人の人たちが住んでいる所でした。
初めて目の当たりにしたスモーキーマウンテンのゴミの多さが激臭と重なり、吐き気がしたのを覚えています。もっとも衝撃だったのが、巨大なゴミ山の横を流れている川の汚水、それに気にすることなく子どもたちがそばで遊んでいる姿でした。周辺をまわった私は、現地のスタッフ達とある一家を訪ねました。母親とその子どもたち5人が暮らすその家は、ゴミ山のほぼ真横の位置にありました。
私が母親の話を聞きながら、横でふざけ遊ぶ子どもたちの姿を見ていると、突然彼らは駆け出しゴミ山を登り始めたのです。「危ない!!」と反射的に叫んだ私は、母親に「どうしてこんな場所に家を建てたのか。子どもがけがをしたらどうするのだ。」と訴えてしまい、同時に涙も流れてしまいました。すると帰る間際、母親は私の手を握り「私だって、いつまでもここにいたいとは思わない。大学に行きたい夢があるし、子どもたちだって学校に行きたいという夢がある。」と言いました。
スモーキーマウンテンでゴミを拾って稼ぐ1日の平均収入は70~150ペソ程だと知りました(1ペソが約2円)。この場所で安全に生きていけるのかも分からない環境下でも、彼女たちには学校に行きたいという夢があるということを知りました。そしてそれは、目の前の現状をどうかしたいというよりも、それを乗り越えた先にある夢を掴みとりたい、という彼女たちの強い想いなのだと感じました。それでも今はこの場所で働くしかない、ここにいるしかないのだという歯がゆい想い、やるせない現実が私には伝わったのです。
私には、大学院に行くという夢があります。けれどもそこに行く上で乗り越えなければならない経済面の壁があります。状況は違っていても、目の前の置かれた現状よりもその先により強い想い、叶えたいものがあると、共感が持てました。
帰国してから私は、彼女たちがこの状況から抜け出すためには何が必要なのかと考えるようになりました。今の生活を支えつつも、学費をためていく必要があって、そのためには今よりももっと安定した収入が必要でしょう。そうするためにもやはり、スモーキーマウンテンの存在はあるべきでないと思いました。
これが存在する限り、彼女たちの想いは叶うことのない、負の連鎖が続いていくでしょう。しかし、スモーキーマウンテンには多くの失業者だった人達が集いゴミを拾っています。拾えばお金になる収入源が目の前にはあるのです。現地の人間でもない自分が、ただスモーキーマウンテンの存在を否定したってなにも変わらないのです。こうしたスモーキーマウンテンをめぐる悪循環は、これをどうにかしたいという私の想いを複雑にさせました。
3月に私は、1年の頃から所属している研究会のメンバー達と鹿児島の志布志市を訪れました。志布志市はゴミのリサイクル率が全国の市町村で第2位、市としては全国第1位の記録があります。市民は生活から出る多くのゴミを約24種類にも分別をし、それらを市が運営するリサイクルセンターがさらに細かく色別に分別します。
生ごみ等は木くずと混ぜて発酵させ、堆肥を作り有機栽培の促進を図っているとのことでした。そして、どうしても再利用されないゴミだけが埋め立て処理されるとのです。その埋め立て場所も非常にコンパクトに設計されてあり、ゴミがなだれ落ちないように高さを揃え、ブロック別に分ける工夫が施されていました。
志布志市の取り組むこの循環型の政策は、フィリピンにもあてはめられないだろうかとその時思いました。この政策によって、フィリピンのゴミ山の問題で苦しむ場所から雇用を生みだせないでしょうか。ゴミを拾って暮らすウエストピッカーズが、今よりももっと安定した収入は得られないでしょうか。かつて国の恥部として存在していたスモーキーマウンテンの存在が解消できないでしょうか。そうすれば、私が現地で出会った母親と子どもたちの住む環境も、生活も改善されないでしょうか。
学校に行く希望は見えてこないでしょうか。この問題を解決すべきは先進国の人間ではなく、現地にいる彼らであり、私たちのできることは、経験から得た情報を提供することと彼らが自立していけるまでの支えとなることぐらいでしょう。これらの考えから私は、フィリピンの抱えるこの問題に対し少しの希望が持てました。
「君が現地に行ったところで何ができる。君のしていることは単なる偽善にすぎないよ。」私がフィリピンに行く前、後によく耳にした言葉でした。私は、たとえ知っていても、画面越しから見る世界の現状に目を背け、何も行動に起こさない人よりはマシだ、と思っていました。しかしイロイロ市の現状を自分の目で確かめ涙しただけの自分では、彼らが言った偽善となんら変わらないことに気付かされました。
私の志布志市から学んだ政策の当てはめは、浅はかな考えから生まれた絵空事と思うかもしれません。それでも私は、先進国の人間がただ手を差しのべるだけではない、彼ら自身が自ら立ち上がっていけるその可能性に希望が持てました。小さい頃に夢見ていたあの“絵”に近づけるのかもしれないと思ったのです。
それがどんなに夢物語だと言われようが、偽善だと言われようが、私のこの「実現したい」という想いは曲げたくありません。今の私はあの頃とは違う、でも本心は小さい頃から何も変わっていないのだと示したいのです。
そのことを気付かせてくれたのが“旅”でした。画面越しから見た現実に、居てもたってもいられず気が付けばスモーキーマウンテンを見上げていました。親子たちと出会い、感情の衝突によって生まれてきた問題意識、その解決するための道筋を探しに行く、この過程は画面越しだけでは決して至らないでしょう。まだ自分の中に眠っていた発想が旅を通じて覚醒されていくようで、旅は私にとってそれは重要なことだったのだと気付かせてくれたのです。
ピースボートの始まりは、私が生まれる以前の、東西冷戦時であったことを知りました。社会主義国と資本主義国2つのイデオロギーの対立が世界を二分させ、これまでの殺しあう対立とは違った対立が繰り広げられました。それに終止符を打ったベルリンの壁崩壊は、世界が本当の意味で平和共存へ歩もうと試みた瞬間だったと思えます。しかし、そこから27年の時を経た今、未だ世界には民族・人種・宗教的な差別が続き、各地で紛争問題も心配されています。
私は最近「構造的暴力」という言葉の意味を知りました。物的なもの、心理的なものといった様々な形態の中でも、貧困・飢餓・抑制・差別などといった間接的で潜在的な形態のものがあります。これらの存在する今の社会では、本当の意味での平和とは言えないでしょう。
日本には沖縄の基地問題があり、辺野古基地の移設に対する反対運動は今でも続いています。日本には、憲法第9条のもと、武力を持たない決まりがあるにも関わらず、米国からの武力に頼ったり、自国を守るための自衛隊を海外に派遣させようとしたりと、平和的な方針から遠ざかっていくように思えます。去年の夏、安倍政権は多くの反対を押し切って安全保障関連法案を通してしまいました。納得のいかなかった私は、鹿児島の反対集会に参加しました。
学生代表として大集会の場でスピーチをし、強行採決される最後の日まで先頭に立って皆と抗議し続けました。反対運動と沖縄問題を調べていく中で、フィリピンにもかつては米軍基地があったことを知りました。その基地は、民衆の反対を先頭に当時アキノ政権時には撤去されていることを知りました。フィリピンは米国の武力に頼ることなく、自力で平和構築への道を歩んでいく方針をとったのだと私には思えました。過去に基地提案を拒否し自立を臨んだ発展途上国と、未だ武力にすがる先進国と、どちらが平和共存を考えているでしょう。
私のフィリピンの旅と安保法制反対運動は、はたから見れば関係ないように思うかもしれません。私もこの二つの行動の始まりは理論的ではなく感情から来るものでした。しかし今私が思う平和とは、直接的暴力の無い状態(消極的平和)と構造的暴力の無い状態(積極的平和)の二つを実現した先に見えてくるものでしょう。
間接的な抑圧によって虐げるのではなく、価値観の相違や誤解を解消していく努力をすること、そのためには私たちがまず自分の目で確かめに行くことから始めるのが大切だと思います。この世界はまだ平和への道を志向していません。解決しなければならない問題がたくさんあります。私がこれまで行ってきた国はほんのわずかですが、それらすべてには独自の文化があり、人の温かみを感じます。出会ってきた彼らと、これから出会って行く人たちと共に目指していきたいと思います。
私の名前は、“海を望む者”と書いて望海と言います。この名前のように私は、海を越えて希望を繋いでいく人になりたいのです。
ピースボートは、私と誰かを繋ぐ懸け橋となる。そして私が誰かと誰かを繋ぐ懸け橋となる。今度は彼らが懸け橋となる。これが私の想い描く“絵”なのです。
しかし大人になるにつれ知っていく現実は、自分の夢見ている絵とは違う現実なのだと思い知りました。自分と同じように平和で衣食住に困らない国ばかりではなく、そうでない国、争いを続ける国もあるのだということに気付き、なぜこんなにも住環境が違うのか、この不条理を無くすにはどうすれば良いのかと疑問が生まれました。これが私の海外に行こうと思い始めたきっかけです。
大学で、児童学を専門に勉強している私は2年生の夏、初めてフィリピンに行きました。フィリピンには、スモーキーマウンテンというゴミで出来た山があります。そこでは、ごみ拾いをして生活を成り立たせている人たちがいる。まだ小学校にも上がらない子どもたちが大人に交じりゴミを拾うという現実を、テレビの映像を見て知りました。私の行ったイロイロ市では、周辺の約42万人から出るゴミを受け入れる投棄場があり、その周りを約3000人の人たちが住んでいる所でした。
初めて目の当たりにしたスモーキーマウンテンのゴミの多さが激臭と重なり、吐き気がしたのを覚えています。もっとも衝撃だったのが、巨大なゴミ山の横を流れている川の汚水、それに気にすることなく子どもたちがそばで遊んでいる姿でした。周辺をまわった私は、現地のスタッフ達とある一家を訪ねました。母親とその子どもたち5人が暮らすその家は、ゴミ山のほぼ真横の位置にありました。
私が母親の話を聞きながら、横でふざけ遊ぶ子どもたちの姿を見ていると、突然彼らは駆け出しゴミ山を登り始めたのです。「危ない!!」と反射的に叫んだ私は、母親に「どうしてこんな場所に家を建てたのか。子どもがけがをしたらどうするのだ。」と訴えてしまい、同時に涙も流れてしまいました。すると帰る間際、母親は私の手を握り「私だって、いつまでもここにいたいとは思わない。大学に行きたい夢があるし、子どもたちだって学校に行きたいという夢がある。」と言いました。
スモーキーマウンテンでゴミを拾って稼ぐ1日の平均収入は70~150ペソ程だと知りました(1ペソが約2円)。この場所で安全に生きていけるのかも分からない環境下でも、彼女たちには学校に行きたいという夢があるということを知りました。そしてそれは、目の前の現状をどうかしたいというよりも、それを乗り越えた先にある夢を掴みとりたい、という彼女たちの強い想いなのだと感じました。それでも今はこの場所で働くしかない、ここにいるしかないのだという歯がゆい想い、やるせない現実が私には伝わったのです。
私には、大学院に行くという夢があります。けれどもそこに行く上で乗り越えなければならない経済面の壁があります。状況は違っていても、目の前の置かれた現状よりもその先により強い想い、叶えたいものがあると、共感が持てました。
帰国してから私は、彼女たちがこの状況から抜け出すためには何が必要なのかと考えるようになりました。今の生活を支えつつも、学費をためていく必要があって、そのためには今よりももっと安定した収入が必要でしょう。そうするためにもやはり、スモーキーマウンテンの存在はあるべきでないと思いました。
これが存在する限り、彼女たちの想いは叶うことのない、負の連鎖が続いていくでしょう。しかし、スモーキーマウンテンには多くの失業者だった人達が集いゴミを拾っています。拾えばお金になる収入源が目の前にはあるのです。現地の人間でもない自分が、ただスモーキーマウンテンの存在を否定したってなにも変わらないのです。こうしたスモーキーマウンテンをめぐる悪循環は、これをどうにかしたいという私の想いを複雑にさせました。
3月に私は、1年の頃から所属している研究会のメンバー達と鹿児島の志布志市を訪れました。志布志市はゴミのリサイクル率が全国の市町村で第2位、市としては全国第1位の記録があります。市民は生活から出る多くのゴミを約24種類にも分別をし、それらを市が運営するリサイクルセンターがさらに細かく色別に分別します。
生ごみ等は木くずと混ぜて発酵させ、堆肥を作り有機栽培の促進を図っているとのことでした。そして、どうしても再利用されないゴミだけが埋め立て処理されるとのです。その埋め立て場所も非常にコンパクトに設計されてあり、ゴミがなだれ落ちないように高さを揃え、ブロック別に分ける工夫が施されていました。
志布志市の取り組むこの循環型の政策は、フィリピンにもあてはめられないだろうかとその時思いました。この政策によって、フィリピンのゴミ山の問題で苦しむ場所から雇用を生みだせないでしょうか。ゴミを拾って暮らすウエストピッカーズが、今よりももっと安定した収入は得られないでしょうか。かつて国の恥部として存在していたスモーキーマウンテンの存在が解消できないでしょうか。そうすれば、私が現地で出会った母親と子どもたちの住む環境も、生活も改善されないでしょうか。
学校に行く希望は見えてこないでしょうか。この問題を解決すべきは先進国の人間ではなく、現地にいる彼らであり、私たちのできることは、経験から得た情報を提供することと彼らが自立していけるまでの支えとなることぐらいでしょう。これらの考えから私は、フィリピンの抱えるこの問題に対し少しの希望が持てました。
「君が現地に行ったところで何ができる。君のしていることは単なる偽善にすぎないよ。」私がフィリピンに行く前、後によく耳にした言葉でした。私は、たとえ知っていても、画面越しから見る世界の現状に目を背け、何も行動に起こさない人よりはマシだ、と思っていました。しかしイロイロ市の現状を自分の目で確かめ涙しただけの自分では、彼らが言った偽善となんら変わらないことに気付かされました。
私の志布志市から学んだ政策の当てはめは、浅はかな考えから生まれた絵空事と思うかもしれません。それでも私は、先進国の人間がただ手を差しのべるだけではない、彼ら自身が自ら立ち上がっていけるその可能性に希望が持てました。小さい頃に夢見ていたあの“絵”に近づけるのかもしれないと思ったのです。
それがどんなに夢物語だと言われようが、偽善だと言われようが、私のこの「実現したい」という想いは曲げたくありません。今の私はあの頃とは違う、でも本心は小さい頃から何も変わっていないのだと示したいのです。
そのことを気付かせてくれたのが“旅”でした。画面越しから見た現実に、居てもたってもいられず気が付けばスモーキーマウンテンを見上げていました。親子たちと出会い、感情の衝突によって生まれてきた問題意識、その解決するための道筋を探しに行く、この過程は画面越しだけでは決して至らないでしょう。まだ自分の中に眠っていた発想が旅を通じて覚醒されていくようで、旅は私にとってそれは重要なことだったのだと気付かせてくれたのです。
ピースボートの始まりは、私が生まれる以前の、東西冷戦時であったことを知りました。社会主義国と資本主義国2つのイデオロギーの対立が世界を二分させ、これまでの殺しあう対立とは違った対立が繰り広げられました。それに終止符を打ったベルリンの壁崩壊は、世界が本当の意味で平和共存へ歩もうと試みた瞬間だったと思えます。しかし、そこから27年の時を経た今、未だ世界には民族・人種・宗教的な差別が続き、各地で紛争問題も心配されています。
私は最近「構造的暴力」という言葉の意味を知りました。物的なもの、心理的なものといった様々な形態の中でも、貧困・飢餓・抑制・差別などといった間接的で潜在的な形態のものがあります。これらの存在する今の社会では、本当の意味での平和とは言えないでしょう。
日本には沖縄の基地問題があり、辺野古基地の移設に対する反対運動は今でも続いています。日本には、憲法第9条のもと、武力を持たない決まりがあるにも関わらず、米国からの武力に頼ったり、自国を守るための自衛隊を海外に派遣させようとしたりと、平和的な方針から遠ざかっていくように思えます。去年の夏、安倍政権は多くの反対を押し切って安全保障関連法案を通してしまいました。納得のいかなかった私は、鹿児島の反対集会に参加しました。
学生代表として大集会の場でスピーチをし、強行採決される最後の日まで先頭に立って皆と抗議し続けました。反対運動と沖縄問題を調べていく中で、フィリピンにもかつては米軍基地があったことを知りました。その基地は、民衆の反対を先頭に当時アキノ政権時には撤去されていることを知りました。フィリピンは米国の武力に頼ることなく、自力で平和構築への道を歩んでいく方針をとったのだと私には思えました。過去に基地提案を拒否し自立を臨んだ発展途上国と、未だ武力にすがる先進国と、どちらが平和共存を考えているでしょう。
私のフィリピンの旅と安保法制反対運動は、はたから見れば関係ないように思うかもしれません。私もこの二つの行動の始まりは理論的ではなく感情から来るものでした。しかし今私が思う平和とは、直接的暴力の無い状態(消極的平和)と構造的暴力の無い状態(積極的平和)の二つを実現した先に見えてくるものでしょう。
間接的な抑圧によって虐げるのではなく、価値観の相違や誤解を解消していく努力をすること、そのためには私たちがまず自分の目で確かめに行くことから始めるのが大切だと思います。この世界はまだ平和への道を志向していません。解決しなければならない問題がたくさんあります。私がこれまで行ってきた国はほんのわずかですが、それらすべてには独自の文化があり、人の温かみを感じます。出会ってきた彼らと、これから出会って行く人たちと共に目指していきたいと思います。
私の名前は、“海を望む者”と書いて望海と言います。この名前のように私は、海を越えて希望を繋いでいく人になりたいのです。
ピースボートは、私と誰かを繋ぐ懸け橋となる。そして私が誰かと誰かを繋ぐ懸け橋となる。今度は彼らが懸け橋となる。これが私の想い描く“絵”なのです。
第11回「旅と平和」エッセイ大賞 次点受賞作品
「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」 / 加藤 剛矢さん(22歳)
昨年、僕はアメリカにいた。ニューヨーク・ブルックリン。ニューヨークという響きは、どこか眩しいものを感じさせるが、僕が行ったブルックリンはアメリカの格差社会というものを凝縮したような地域であると言っても過言ではない。ニューヨーク・マンハッタンという世界経済の中心地から、橋を渡ってすぐにあるブルックリン地区には、人種を問わず、文化を問わず、世界中の人々が居住している。
僕がブルックリンに行った理由は、そのような実態の調査と、海外経験の乏しい自分に世界を直接見る必要性を感じていたからだ。調査はゼミのA君と共に行い、二ヶ月間滞在し、フィールドワークを実践した。観察、インタビューを毎日続け、ある一つの活動を継続して行った。
アメリカの格差社会は、拡大の一方であると言われるが、実際に見たそれは深刻であった。そして、そうした事実は自分がそれまで世界に積極的に目を向けず、自らの周りの小さい世界に留まっていたということを僕に思い知らした。
ワシントン空港に到着し、地下鉄に乗った瞬間から、そのような衝撃は始まっていた。座席に座りA君と、ユースホステルにまず行こうと話していた時、突然、三人のアフリカ系アメリカ人がダンスをし始めた。一人がラップをし、残りの二人は車内の手すり代わりの鉄の棒を利用し、ダンスをし始めた。車内の椅子に座っている僕達や他の人達は、まるで何かのショーを見ているかのようだった。
そして、ショーが終わると、彼らは僕らに近づいてきた。チップを求めに来たのだ。僕らは、近寄ってきた彼らの衣服を見てみるとボロボロなものだと気が付いた。僕は1ドルを差し出し、ホステルの最寄駅だったのでA君と共に電車を降りた。チップを差し出したのは僕らだけであった。電車を降りた後も、僕らはただただあっけにとられていて、電車が見えなくなるまで見ていたが、さっきの彼らが今度は隣の車両に移動していくのが見えた。
到着した翌日、僕達の調査活動はすぐに始まった。昨日の出来事は、アメリカという国では地下鉄の中でパフォーマンスをしチップを与えるのだという、ただ単純な出来事ではないとA君と共に感じていた。その背景―彼らが普段、何の仕事をし、どのような生きがいを持ち、何に悩んでいるのか―を僕達は知らなければならないと思った。
僕らが主に調査をしたところは、シープヘッドベイとウイリアムズバークだった。シープヘッドベイは海岸近くにあり、海を越えた遥か東にはイギリスがそびえる。この地域にアジア系は住まない。主に住んでいるのは、アフリカ系、ヒスパニック系だ。茶色の20階建てのアパートがいくつもそびえる。それらは生活保護を受給している人のものだ。人々は歩く僕らに不思議そうな目を向ける。もちろんスターバックスのような洒落たお店はない。あるのは小さなコンビニとピザ屋。
僕は、そのコンビニの近くでタバコを吸っている同年齢くらいの青年に声をかけた。声をかけたのは、彼が手にグローブを持っていたからだ。僕は高校球児だった。
「ハロー・アイハブクエスチョン。ドゥーユーハブタイム」と僕が言うと、なんでもいいよ、と彼は答えた。
「僕達は日本から来た。本当のアメリカを知りたくて。ところで君は普段仕事は何してるの?」
彼は、仕事は土木、道路建設、日本に行きたいなと答えた。
僕は日本で学業のかたわら土方系のアルバイトをよくしていたから、僕はもっと彼に親近感が湧いた。
「日本は素晴らしい国だよ。でもアメリカも素晴らしいと思う。ところで君の家は近くかい」と僕が言うと、目の前のさっき見たアパートを彼は指差し「あそこだよ。ニューヨークでも特に貧しい所で、ご覧の通り観光客はたいてい来ない。アメリカ人の中でも、釣りとか、海で泳ぐとかで、たいていは来ない。アジア人はまとまって住むよ、ここに来る時にチャイナタウンがあったろ、あそこだよ」と言った。
僕達は彼から彼のすすめでタバコを一本もらい、聞きにくいことを言った。
「アメリカをどう思う。生活は苦しいの?君は幸せかい?」
急にシリアスでセンシティブなことを僕達が聞いたから、彼は「君たちは牧師か何かかよ」と笑い、「見ての通り、アメリカは貧しい。少なくともブルックリンのこの地区は貧しい。お隣のマンハッタンは、同じアフリカ系でもものすごいほどのお金持ちがいるけどね。だけど、ここでの僕の生活は例外なく苦しいと思う。僕達が今立っているこの小さなスーパーの隣のこの建物は介護老人ホーム。
唯一、この地域に白人がいる。アメリカのお偉いさんが、あえて、この地域にそういう老人のための施設を持ってきたのかもしれない。ただ海が近くで綺麗だからかもしれないよ」と言った。そして、「幸福と感じてはいないけれど、生活のために働く日々は結構楽しいものだ」と彼は付け加えた。彼とは最後強く握手をして別れた。
僕とA君は、格差社会という問題だけに今まで目を向けていたことに気づいた。格差社会の中で、特に下層で生きている人がどのような生活をしているのかを僕達は話を聞くまで知らなかった。日本にいた時は、ただ「可哀想」としか思っていなかった。テレビや本で取り上げられる格差の拡大を、ただ重大な問題だとだけ捉えていた。僕達の「可哀想」という思いは、彼らにとっては実は迷惑な慈愛なのではないかとも思った。
世界を実際に見て、観察し、人々と触れることで、本当に僕らがするべきことが分かるのだと知った。そして、平和を実現するには、ただ遠方から「可哀想だから」と手を差し伸べるのではなく、積極的に何か行動を起こさねばならないと知った。
僕らの活動は、一週間後にはさらに違ったものになった。アート・ワントライという活動を始めたのだ。ホームレスや見るからに恵まれない境遇の人に画用紙と絵の具のついた筆を差し出し、一筆書いてもらうのだ。そして、彼らにウォーターボトルを一つ与える。最終的には多くの人の手によって一つの虹ができる。
水は生きるために最も必要なものであるし、虹を感じる心は平和だからこそ生まれるものだと僕達は考えた。そして、もちろんこの活動の根幹には「可哀想だから」という思いはなかった。同じ人間として手を差し伸べて当然だという強い思い、平和を願う思いが根幹にあった。
虹はいくつもでき、一筆添える人々の顔には微かな笑顔があった。活動は帰国するまで継続することができた。僕は嬉しかったが、満足してはいけないと思っている。必死に生きる彼らの姿に手を差し伸べ、それでもし、そのことに自分が満足してしまったら、本当に助けてほしいと思っている人を助けられないと思うからだ。
アメリカという世界をリードする国の中でも、多くの人が明日のご飯を得るために必死に生きている。日本でも同様だとあなたは思うかもしれない。僕も学業のかたわら、生活費を稼ぐために働いている。
でも、文化や人種が混じり合うアメリカ社会では、生活費を稼ぐということは、日本のようにアルバイトをすれば単純に可能なことではなかった。人種差別、ビザの問題、教育格差という問題がアメリカの格差社会を深刻にしていた。だが、それでも日本やアメリカはまだ恵まれていると今では思う。
働き生活費を稼ぎ、ご飯を食べられるだけまだマシなのだ。インタビューをした人のなかに、シリアから移住してきた難民がいた。彼は働いても食べることができないことがあったと言った。彼は今話題のイスラム国が成立する前にアメリカに来たという。長く続く内戦、紛争下においては職を得ていても食べられないことがあったのだ。飢餓や食糧不足といった事態は、降雨不足などによるアフリカだけの話だと思っていた。
二ヶ月間の活動では100名を超えるいろんな人に出会った。キリスト教に熱心なホームレス、路上ドラマーで生計を立てる人、病気の妻のためにチップを稼ぐサブウェイサックス奏者。彼らは人生とアメリカに一見失望しているように思えたが、実はそうではない。人生とはこういうものだと強く自覚し、強く生きていた。
それは安易な悟りではなかった。だが同時に、弱り果てていた人もいたことは事実だ。だから今、僕の胸には、「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」という強い思いがある。
僕は、この経験を活かさなければいけない。テレビを通して、ただ事実を知るだけではダメだ。自分の目を通して知り、考え、そして実際に行動に移さなければならない。でも、僕はもっと世界を実際に見る必要がある。もっともっと見て知って、誰かのために活動したい。だから、僕は旅に出たい。
僕がブルックリンに行った理由は、そのような実態の調査と、海外経験の乏しい自分に世界を直接見る必要性を感じていたからだ。調査はゼミのA君と共に行い、二ヶ月間滞在し、フィールドワークを実践した。観察、インタビューを毎日続け、ある一つの活動を継続して行った。
アメリカの格差社会は、拡大の一方であると言われるが、実際に見たそれは深刻であった。そして、そうした事実は自分がそれまで世界に積極的に目を向けず、自らの周りの小さい世界に留まっていたということを僕に思い知らした。
ワシントン空港に到着し、地下鉄に乗った瞬間から、そのような衝撃は始まっていた。座席に座りA君と、ユースホステルにまず行こうと話していた時、突然、三人のアフリカ系アメリカ人がダンスをし始めた。一人がラップをし、残りの二人は車内の手すり代わりの鉄の棒を利用し、ダンスをし始めた。車内の椅子に座っている僕達や他の人達は、まるで何かのショーを見ているかのようだった。
そして、ショーが終わると、彼らは僕らに近づいてきた。チップを求めに来たのだ。僕らは、近寄ってきた彼らの衣服を見てみるとボロボロなものだと気が付いた。僕は1ドルを差し出し、ホステルの最寄駅だったのでA君と共に電車を降りた。チップを差し出したのは僕らだけであった。電車を降りた後も、僕らはただただあっけにとられていて、電車が見えなくなるまで見ていたが、さっきの彼らが今度は隣の車両に移動していくのが見えた。
到着した翌日、僕達の調査活動はすぐに始まった。昨日の出来事は、アメリカという国では地下鉄の中でパフォーマンスをしチップを与えるのだという、ただ単純な出来事ではないとA君と共に感じていた。その背景―彼らが普段、何の仕事をし、どのような生きがいを持ち、何に悩んでいるのか―を僕達は知らなければならないと思った。
僕らが主に調査をしたところは、シープヘッドベイとウイリアムズバークだった。シープヘッドベイは海岸近くにあり、海を越えた遥か東にはイギリスがそびえる。この地域にアジア系は住まない。主に住んでいるのは、アフリカ系、ヒスパニック系だ。茶色の20階建てのアパートがいくつもそびえる。それらは生活保護を受給している人のものだ。人々は歩く僕らに不思議そうな目を向ける。もちろんスターバックスのような洒落たお店はない。あるのは小さなコンビニとピザ屋。
僕は、そのコンビニの近くでタバコを吸っている同年齢くらいの青年に声をかけた。声をかけたのは、彼が手にグローブを持っていたからだ。僕は高校球児だった。
「ハロー・アイハブクエスチョン。ドゥーユーハブタイム」と僕が言うと、なんでもいいよ、と彼は答えた。
「僕達は日本から来た。本当のアメリカを知りたくて。ところで君は普段仕事は何してるの?」
彼は、仕事は土木、道路建設、日本に行きたいなと答えた。
僕は日本で学業のかたわら土方系のアルバイトをよくしていたから、僕はもっと彼に親近感が湧いた。
「日本は素晴らしい国だよ。でもアメリカも素晴らしいと思う。ところで君の家は近くかい」と僕が言うと、目の前のさっき見たアパートを彼は指差し「あそこだよ。ニューヨークでも特に貧しい所で、ご覧の通り観光客はたいてい来ない。アメリカ人の中でも、釣りとか、海で泳ぐとかで、たいていは来ない。アジア人はまとまって住むよ、ここに来る時にチャイナタウンがあったろ、あそこだよ」と言った。
僕達は彼から彼のすすめでタバコを一本もらい、聞きにくいことを言った。
「アメリカをどう思う。生活は苦しいの?君は幸せかい?」
急にシリアスでセンシティブなことを僕達が聞いたから、彼は「君たちは牧師か何かかよ」と笑い、「見ての通り、アメリカは貧しい。少なくともブルックリンのこの地区は貧しい。お隣のマンハッタンは、同じアフリカ系でもものすごいほどのお金持ちがいるけどね。だけど、ここでの僕の生活は例外なく苦しいと思う。僕達が今立っているこの小さなスーパーの隣のこの建物は介護老人ホーム。
唯一、この地域に白人がいる。アメリカのお偉いさんが、あえて、この地域にそういう老人のための施設を持ってきたのかもしれない。ただ海が近くで綺麗だからかもしれないよ」と言った。そして、「幸福と感じてはいないけれど、生活のために働く日々は結構楽しいものだ」と彼は付け加えた。彼とは最後強く握手をして別れた。
僕とA君は、格差社会という問題だけに今まで目を向けていたことに気づいた。格差社会の中で、特に下層で生きている人がどのような生活をしているのかを僕達は話を聞くまで知らなかった。日本にいた時は、ただ「可哀想」としか思っていなかった。テレビや本で取り上げられる格差の拡大を、ただ重大な問題だとだけ捉えていた。僕達の「可哀想」という思いは、彼らにとっては実は迷惑な慈愛なのではないかとも思った。
世界を実際に見て、観察し、人々と触れることで、本当に僕らがするべきことが分かるのだと知った。そして、平和を実現するには、ただ遠方から「可哀想だから」と手を差し伸べるのではなく、積極的に何か行動を起こさねばならないと知った。
僕らの活動は、一週間後にはさらに違ったものになった。アート・ワントライという活動を始めたのだ。ホームレスや見るからに恵まれない境遇の人に画用紙と絵の具のついた筆を差し出し、一筆書いてもらうのだ。そして、彼らにウォーターボトルを一つ与える。最終的には多くの人の手によって一つの虹ができる。
水は生きるために最も必要なものであるし、虹を感じる心は平和だからこそ生まれるものだと僕達は考えた。そして、もちろんこの活動の根幹には「可哀想だから」という思いはなかった。同じ人間として手を差し伸べて当然だという強い思い、平和を願う思いが根幹にあった。
虹はいくつもでき、一筆添える人々の顔には微かな笑顔があった。活動は帰国するまで継続することができた。僕は嬉しかったが、満足してはいけないと思っている。必死に生きる彼らの姿に手を差し伸べ、それでもし、そのことに自分が満足してしまったら、本当に助けてほしいと思っている人を助けられないと思うからだ。
アメリカという世界をリードする国の中でも、多くの人が明日のご飯を得るために必死に生きている。日本でも同様だとあなたは思うかもしれない。僕も学業のかたわら、生活費を稼ぐために働いている。
でも、文化や人種が混じり合うアメリカ社会では、生活費を稼ぐということは、日本のようにアルバイトをすれば単純に可能なことではなかった。人種差別、ビザの問題、教育格差という問題がアメリカの格差社会を深刻にしていた。だが、それでも日本やアメリカはまだ恵まれていると今では思う。
働き生活費を稼ぎ、ご飯を食べられるだけまだマシなのだ。インタビューをした人のなかに、シリアから移住してきた難民がいた。彼は働いても食べることができないことがあったと言った。彼は今話題のイスラム国が成立する前にアメリカに来たという。長く続く内戦、紛争下においては職を得ていても食べられないことがあったのだ。飢餓や食糧不足といった事態は、降雨不足などによるアフリカだけの話だと思っていた。
二ヶ月間の活動では100名を超えるいろんな人に出会った。キリスト教に熱心なホームレス、路上ドラマーで生計を立てる人、病気の妻のためにチップを稼ぐサブウェイサックス奏者。彼らは人生とアメリカに一見失望しているように思えたが、実はそうではない。人生とはこういうものだと強く自覚し、強く生きていた。
それは安易な悟りではなかった。だが同時に、弱り果てていた人もいたことは事実だ。だから今、僕の胸には、「世界中の人々が平和でなくて、どうしてこの世界が平和であると言えるのか」という強い思いがある。
僕は、この経験を活かさなければいけない。テレビを通して、ただ事実を知るだけではダメだ。自分の目を通して知り、考え、そして実際に行動に移さなければならない。でも、僕はもっと世界を実際に見る必要がある。もっともっと見て知って、誰かのために活動したい。だから、僕は旅に出たい。
作品をダウンロードして読む
大賞作と次点作は、こちらのPDFファイル(A4横・縦書き)でも読むことができます。