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第3回エッセイ大賞入賞者発表

第3回エッセイ大賞入賞者発表
大賞 あなたに出会えて嬉しい/安田あゆみさん(21歳)
私はもっと世界を愛したい。/山本なお子さん(20歳)

次点 朝メシ前の世界一周旅行/山口聡美さん
おばあちゃんとの旅行/柏倉瑞穂さん

*大賞作は、ページ下部からダウンロードしてお読みいただけます。
INFO
大賞 あなたに出会えて嬉しい/安田あゆみさん(21歳)
私はもっと世界を愛したい。/山本なお子さん(20歳)

次点 朝メシ前の世界一周旅行/山口聡美さん
おばあちゃんとの旅行/柏倉瑞穂さん

*大賞作は、ページ下部からダウンロードしてお読みいただけます。

第3回エッセイ大賞選評

●鎌田慧さん(ルポライター)

大賞の安田あゆみさん「あなたに出会えて嬉しい」は、人との出会いによって、こころが柔らかくなっていく自分の体験をよく観察しています。それでも日常に かまけて、また固くなりはじめるのですが、自分の殻をやぶっていこうという姿勢を、外国体験を通して獲得しているようです。「自分が生きていることは、世 界とつながっているということだ」という世界観は、これからの活動を期待させます。

次点の山口聡美「朝メシ前の世界一周旅行」は、旅に出るお金がなくとも、世界を感じ、理解し、行動することができる方法が考えられている。その方法で、認 識をふかめながらおかねを貯め、世界に出ればさらに人生がひらけてくる。日々の生活から世界を認識する訓練が必要だ。

●伊藤千尋さん(ジャーナリスト)

大賞の山本なお子さん「私はもっと世界を愛したい。」は、平和について語るためヒロシマについて調べた。しかし、現地に行き被爆者と会って涙を流したこと から改めて原爆を調べ直した。自分の「涙の理由」を考え、世界を愛するために世界を知りたいという明確な目的を持って自らを行動に駆り立てた。知識は感情 と融合して力となる。これを出発点として行動に出れば体験となり、体験は自信を生み出す。山本さんがピースボートで世界を見たとき、何に心揺さぶられ、ど んな行動につながるのか、今から楽しみだ。

次点の柏倉さん「おばあちゃんとの旅行」は、おばあちゃんを温泉旅行に連れ出した体験を書いた。一見、平和とも世界とも無関係のように見える。だが、平和 は身近な個人から語られるべきだ。平和といえば、いきなり国家を語る人が多いが、それは国家のために個人を犠牲にすることにつながる。柏倉さんが優れてい るのは、おばあちゃんの喜びを原点として身近な人々を幸せにすることを説き、しかも具体的な行動を提案したことにある。

今回は、前回と比べてレベルがかなり高かった。他の応募作からも、自分の海外体験を踏まえて世界に出て行こうとする姿勢が感じられた。あと一歩だ。

第3回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

あなたに出会えて嬉しい⁄安田あゆみさん

「あなたに出会えて嬉しい。そういう気持ちを持つことが、平和へとつながっていく。」

先日、ある先生がそういう話をしているのを耳にしました。人と人との出会いには、偶然もあれば、必然性のあるものもあります。でも、私はその先生の話を聞 いて、どんな時にも出会いを大切にして、人々やものごとに出会えたことに感謝しながら生きていきたいと思いました。

私は、小学校時代をネパールで過ごしました。父が、医者や薬の足りないネパールの山奥の病院で働いていたためです。車が通れる舗装された道は近くにはない ので、どこへ行くにも歩いて行きました。ろうそくのあかりの方が毎日停電する電気より明るく、水は近くの共同井戸までくみに行く生活でした。

病院には、いろいろな国から医師やその家族が来ていました。子ども達の学校は、病院の中を通り抜けて登っていく小高い丘の上にありました。11ヶ国の子ど も達が、その小さな学校で勉強しました。みんなそれぞれに言葉が違うので、英語を使って話したり遊んだりしました。校庭から見えるアンナプルナ連峰は、碧 い空にくっきりとそびえていました。いつもはとても仲のいい私達でしたが、戦争の勉強をした時、韓国のキムとものすごいけんかをしたことがありました。

『日本は、僕たちの国にひどいことをしたんだ。』

とキムは私に向かって言いました。私はその頃、日本であった戦争のことすら知りませんでした。家に帰って、父や母に戦争の話を聞いて初めて、ネパールにキ ムのおばあちゃんが来た時、なぜあんなに日本語が上手だったのかがわかりました。本当のことを、お互いの立場から考えることの大切さを、身をもって学んだ 出来事でした。

私達の住んでいた村からカトマンズに行くためには、バスで12時間もかかりました。その頃のネパールの山道を走っていたバスは、もう日本ではとっくに廃車 にされたガタガタのバスでした。1日に1本しかでないバス乗るために、夜明け前の山道を歩き、ぎゅうぎゅうづめのバスに乗りました。小さかった弟は、小麦 粉の袋の上に乗せてもらい、とても喜んでいました。途中、雨が降ると土砂崩れで道は何度もふさがりました。そうすると、バスに乗っていた人達総出で土砂を 取り除いたり、バスを押したりしました。月に何回かは、谷底に落ちてしまうバスもありました。だから、小さい頃の私にとって「旅」は、命がけのものでし た。

日本に帰ってきて、ネパールで暮らしていた頃と時間の流れが違うのに驚きました。とまどうこともたくさんありましたが、いつのまにか日本の時間の流れにも 慣れていきました。でも時々、本当にこれでいいのだろうかと立ち止まって考えてしまうことがあります。そんな時、ピースボートのことを知りました。私が ピースボートに参加できたら、3ヶ月の船旅の中で、たくさんの出会いを大切にしながら、たくさんの国々を巡り、その国の時間の流れ方を、肌で感じてみたい と思いました。そして、日本の忙しい時間の流れの中で、私が忘れかけてしまったものを取り戻してみたいと思いました。

私は、今年の6月まで1年間の交換留学でロンドン大学で勉強をしていきました。勉強の合間に、セルビアやボスニア、ヘルツェゴビナへ行きました。セルビア では街のまん中に空爆で半分崩れかけた建物がそのまま残っていました。サラエボの街には、銃弾の跡が生々しく残っていました。平和で、食べ物の心配もな く、自由に勉強したり遊んだりできる日本から離れてみて、私は思わずドキッとしました。自分の中の、ネパールにいた頃はもっていたであろう感覚が甦った感 じがしました。もっと自然や人々の心に寄り添って感じたり考えたりすることを、いつのまにか忘れてしまっていたことに気がつきました。めまぐるしく流れて いく時間の中で、自分のことばかり考えていた自分に気がつきました。

「平和を考えよう」と言葉でいうのは簡単です。しかし、どのようにしたら平和な世界を作っていけるのか、具体的に行動することは、簡単なことではありません。私は、銃弾の残る建物の前に佇みながら、自分にできることがあるのだろうかと思いを巡らせました。

戦争や暴力、いじめや争い、これらはみんな人間の心からうまれてくるものです。相手の気持ちになって考えたり、想像したりしてみること、相手を知り、違い を認めた上で分かりあおうと努力すること、暴力でなく話し合いで解決していくこと、それを自分のまわりから始めることが私にできる第一歩ではないかと思い ました。

留学先でも、日本から来たと言うと

『あなたは、ヒロシマを知っているか?今ヒロシマは、どうなっているのか。』

と何回か聞かれたことがありました。

敗戦後60年の年に、私は丸木美術館に行きました。弟が広島の原爆記念式典に参加してきた後、丸木位里さん、俊さんの描いた「原爆の図」をどうしても見てみたいというので、家族みんなで見に行きました。

「原爆の図」は、それはそれは大きな絵で見ていると、中に引き込まれそうなくらい怖い絵でした。真っ暗な空にうっすらと青い虹がかかっていました。生きて いるものを一瞬のうちに殺し、建物を壊し、生き残った人にさえ後遺症を残したたった一発の爆弾。逃げまどい、もがき苦しむ人々の様子は、地獄のようでし た。しかし、たくさんの戦争の絵の中で、もう一つ、私の心が震えた絵がありました。それは、南京大虐殺の絵でした。原爆の被害国である日本は、同時に加害 国でもありました。丸木夫妻は、ありったけの祈りをこめて、二度と戦争を起こしてはいけないとどの絵からも訴え続け、叫んでいるようでした。私はいつか、 真っ暗な空にかかる虹ではなく、平和で明るい青空に、美しい虹を描きたいと、その時思いました。

留学していた一年の中で、休みを利用して近くの国々に旅をしました。いろいろな国の友達といろいろな国を旅すると、本当にちょっとしたことにも、その国の 文化や習慣の違いがあることがわかりました。同じものを同じように見ても、感じ方や考え方が違ったりします。自分が当たり前と思っていたことが全然通用し ないことにも出会います。そして自分の方が違ったり、間違っていたりしているのかもしれないと気づかされる場面があります。そんな時、自分の殻を破っても う一つ先へ進めた気持ちになります。

自分が生きていることは、世界とつながっているということだと思います。平和を作り上げていくためには、日本人としての自覚だけではなく、同じ地球に生きている人間としての意識や自覚を多くの人が持つことが求められていると思います。

言葉が違っても、肌の色が違っても、考え方の違いがあっても、私達は仲間です。大切な友達です。国を越えて、人間の命をお互い大切にしていくこと、違いを乗り越えて相手を認め、受け入れることを1人ひとりが考え始めた時、世界は変わっていくと思いました。

「旅」は、自分と向きあえるいい機会だと思います。と同時に、たくさんの出会いが自分を大きくしていってくれる気がします。

今年は、オリンピックが開催される年です。北京オリンピックのスローガンは、「1つの世界。1つの夢」です。世界が1つになり、みんなで1つの夢に向かえ たら、どんなにすてきなことでしょう。オリンピックの時だけ日頃敵対している国や世界の国々が集うのではなく、お互いが相手の国を思いやり、認めあえた ら、4年に1度のスポーツの祭典だけではなく、より多くの時を世界が1つになってすごせるのではないかと思います。

私も平和を作りあげる責任を負った1人の人間として、世界を見渡し視野を広げ、自覚をもって行動できる人間になりたいと思います。私にとって、まだまだ未 知の国を旅する今回のピースボートで、「あなたに出会えて嬉しい」私がそう思い、私も出会った人達からそう思われる旅に出かけてみたいと思います。

私はもっと世界を愛したい⁄山本なお子さん

将来は核兵器廃絶に携わる仕事を。
ヒロシマ・ナガサキの声を世界に。

これが今の私のすべて。2年前の夏、熱いヒロシマで私の人生は大きく変わったように思う。それまでは理学部で数学を学んでいた。今は“国際関 係”学部生。この私の中に深く根付く思いは、ヒロシマ・ナガサキで得た感情のみに因っている。しかし、私がこの平和への願いを世界規模に広げる時、そこ に、ヒロシマ・ナガサキだけでなく、世界に対する感情、愛がなくてはならない。今の私は、愛するほど世界を知ってすらいないのだ。

2006年8月、私はヒロシマにいた。ひょんなことから全国から学生が集まり、平和について話し合うPeace Now! Hiroshimaの実行委員をやっていたからだ。実行委員一人ひとりがヒロシマ、ひいては平和に関するテーマを持ち、それに沿ったフィールドワークを構 成し、参加者が興味を持ったフィールドワークに参加し、8月6日を含む5日間をヒロシマで過ごす、という企画だった。私も自分なりのテーマを定め、それま での約3ヶ月間、試行錯誤しながらも自分なりにフィールドワークを組み立てていた、つもりだった。後から思ってみれば、その頃の私は、まだヒロシマに心が 入っていなかった。いろんな本も読んだ。ビデオも見た。去年実行委員をやった先輩にも話を聞いた。ただ、それら全ては、ヒロシマではなく、瀬戸内海を隔て た四国は愛媛県でやっていたのだ。何度か実行委員会議のために広島に足を運んだこともあった。しかし、2、3回の一泊二日の広島の旅では、ヒロシマを本当 に知ってはいなかった。うわべの平和、知識だけのヒロシマ、私はそれらをこねくり回していただけだったのだ。

私が本当にヒロシマを知った日。私のターニングポイントは、開催日が翌日と迫った、8月3日だった。その日、私は自分が担当するフィールドワー クの最終調整に追われ、ヒロシマの地を汗を流し、ひたすら走り回っていた。そんな時、街中でビラを配っている人たちを見かけた。この時期のヒロシマでは珍 しい光景ではない。自分のフィールドワークに役立てばと、単純にそう思い、1枚受け取った。「原爆の詩-峠三吉展」。詩か、新しい視点だな、そう思い少し 立ち寄ってみることにした。原爆資料館で見たのと同じような写真。ただそこには、自身も被爆者である峠三吉の詩が添えられていた。焼け爛れた女性の写真の 横に、「人間をかえせ。」という言葉。私は泣いていた。自分が歩いたあの道で。さっき見てきたあの建物で。この人は死んだんだ。こんな姿で。次の写真に目 を写すのがこわかった。私が涙を浮かべているのに気付いた一人のおばあさんが私にハンカチを差し出してくれた。「私も被爆者なんよ。」心の中で何かが決壊 し溢れた。そして、そこで初めて被爆者の人から直接話を聞いた。涙が途切れることはなかった。嗚咽も混じり、その場にいた人たちが私を見ているのがわかっ た。それでも止められなかった。どうして自分がそんなにも泣いてしまったのかは、今でもうまく説明が付かない。ただ涙があふれて、感情があふれてどうしよ うもなかった。ただ強く、被爆者の人の気持ちが、心がわたしの心にストッっと入った。その時その被爆者の方が私に向けて放った言葉一つ一つを私は未だに忘 れられない。

「絶対に伝えてください。次の世代に、世界に。」

どうにかしたい。ただ、ただそう思った。そう思ってしまったら、もう、後には引けなかった。フィールドワークは一から作り直した。私がわかった つもりでいた広島はヒロシマにはなかった。私のフィールドワークはあまりにも薄っぺらかった。ヒロシマの地を自分の足で歩き、目で見、肌で感じ、そしてそ こに生きる人たちの声を聞いた後では何もかもが変わっていた。

熱い熱い4日間を終え、夏休みを考え抜き、私は理学部をやめた。もう後には引けなかったし、引きたくもなかった。そして、その思いだけを頼りに 勉強し、今の大学に入った。2年たった今でも、あの時私に根付いた感情はやはり今となっても一向に枯れる気配はない。彼らの話を聞いた私には、伝える責任 がある。伝えたい。もう誰にもあんなことは起きてほしくない。地球上でもう二度と核兵器が使われませんように。

しかし最近、私は自問するようになった。

なぜ?なぜ私はそう願うのか?私がヒロシマ・ナガサキの被爆者の話を聞いて涙を流したのはなぜなのか?

ただの感情移入?情?

もちろん情が悪いとは思わない。むしろ私は、その“情”の面から平和、反核を唱えていきたいと思っている。理論的にやるのなら理学部でもでき た。そういう方向から攻めるのなら科学の知識こそ役に立つだろう。でも、そうじゃなくて、私は、人々の感情、道徳に訴えたいと思った。そういう角度から平 和を探っていきたいと思った。

ただ、ヒロシマ・ナガサキのみに限らず世界規模で平和を望む時、そこには、世界に対する愛が必要だと感じるようになった。私がヒロシマ・ナガサキの被爆者の人たちに感じたような情を世界に対してもっていなければ世界平和は望めない。

しかしだ。そう考えたときに次なる疑問に直面した。

果たして私はちゃんと世界を愛せているのか?

大学では、国際関係論や各国の文化、歴史、政治や経済など幅広く勉強している。私の大学はなかなかユニークで、教師はほとんど外国人、授業はす べて英語。キャンパスにいる学生の4分の1は留学生。この1年と半年ほどでセカイについていろいろ学んだ。いろいろ知った。確かに着実に知識は付いてきて いる。

しかし、書籍から得た知識や人づてに聞いた情報で、世界を愛せるだろうか?

私がヒロシマでやったように、地球中で、汗を流して自分の足で歩き、自分の目で見つめ、自分の耳で聞く。その土地に生きる人々と交わる。楽しい 思い出ばかりじゃなくっていい。美しくなくてもいい。ただ、地球をリアルに感じられればそれでいい。そうやってこそ世界が自分と初めて繋がって、情が生ま れるのではないだろうか。そうやってこそ初めて世界を本当に愛せるのではないだろうか。そして、だからこそ世界が平和であることを望めるようになるのだと 私は思う。

私はもっと世界を感じ、愛したい。

しかし、それが果たして本当に愛すべきものなのかどうか、守る価値のあるものなのか、私は確信を持つことができない。自分の信念を確かめ、鍛えなおさなければならない。

そのためにまず世界を知る必要がある。テレビや書物を通した知識ではなく、自分で体感しなければならないと今思っている。そしてそれは短期間で 出来ることではないだろう。その土地について前もって知識を得、思いをはせ、実際に目で見る。そして、その後自分の中で見て聞いて感じたことに考えをめぐ らせ消化しなければならない。そういう意味において船という場は最高のフィールドであり、旅の手段だと思う。海上を漂う船の上で膨大に流れる、果てしない とも感じられるような時間。飛行機などでは感じられない国と国、人と人を隔てる距離。人生においては一瞬ともいえる人との交わり。その人たちから得られる 刺激。船という、自分の観念を鍛えてくれるフィールドの上で私は世界を旅し、世界を直視し、自分の信念を確かめたい。世界を、船で、旅してみたいのだ。

私は世界を愛せるのか。世界は平和を望む価値があるほどの場所なのか。そこに暮らす全ての人々の幸せを私は、心から願えるのか。私があの時流した涙何を意味するのか。あの涙は世界にも通用するのか。

私は100日間にわたる旅の間でそれらを自問自答し続け、そして、人々と意見をぶつけ合わせたいのだ。

答えがNOであってもいい。仕方がないではないか。

私はそういう人間であったというだけのことで、世界はそのようなものであったということだ。少なくとも、今の私、今の世界、今回の旅において は。本当の世界を見て崩れてしまうような信念なら、私はいらない。持っていても役に立つはずなんて無い、社会に出てより多くの知識を得るたびそんな信念は 崩壊していくだろう。

だからこそ、私は、今、世界を知りたい。

いいところも悪いところも。

その上で世界を好きになり、この世界は守る価値があると思った時、今の私を支えている思いはより強固なものになるだろう。その時こそ私は、この信念を私の人生の道しるべ、目標として生きていけると、強く信じている。

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