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第6回エッセイ大賞入賞者発表

第6回エッセイ大賞入賞者発表
大賞  母国への旅/磯崎ちひろさん(17歳)
次点  “ワタシ”が私であるために/高橋礼さん
教育の分野でできること/免古地容子さん


*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
INFO
大賞  母国への旅/磯崎ちひろさん(17歳)
次点  “ワタシ”が私であるために/高橋礼さん
教育の分野でできること/免古地容子さん


*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。

第6回エッセイ大賞選評

●鎌田慧さん(ルポライター)

最終選考に残った五編の共通しているのは、出会いによる自己変革を語っていることである。そのプロセスを他者に理解させるためには、自分がどう変わったの か、という記述の率直さが必要になる。磯崎ちひろさんの「母国への旅」は、シンガポールの国際校での歴史の時間に、アメリカ人のクラスメートが発言した言 葉にショックを受ける。「日本人がたくさん死んでよかったんだよ。それでようやく戦争が終わったんだから原爆って絶対必要だったんだ」。

それは加害者のアメリカばかりか、日本が侵略した国の被害者にも共通している意見である。磯崎さんの家族にも、広島の被害者がいる。加害と被害との対立す る関係を、彼女は「祖父母の国」日本への旅のあと、学校内での被爆展や講演会開催という行動によって結びつけようとする。十七歳の行動と認識に頼もしさを 感じさせられた。

・大賞
磯崎さんは、広島の平和記念館で、展示された資料を読んでいるドイツ人の涙について書いている。
「たった一度、核兵器の脅威を知らせるだけで核廃絶に繋がるとは思っていない。ただ、これは大きな一歩なのだ。広島への旅でドイツ人の涙を見たことが、原 爆展を実現させることに導いてくれたと思っている。私達の活動は決して無にはならないことを教えてくれた。目の前にある核の悲惨さに感じ入る彼の姿を見た ことが、私が諦めずに行動を続けた原動力となっていることは間違いないことだ」出会いを発見に結びつくには、沈潜が必要だが、磯崎さんはさらに行動によっ て、発見をさらに深化させている。

・次点
高橋礼さんの「ワタシが私であるために」は、タイトルがわかりにくい。ニュージランドの高校に留学していたとき、握手のあとハンカチで手を拭われたり、生 卵をぶつけられたりした。それは中国人とまちがえての差別だった、とわかったあと、アジア人全般への白人の差別意識について考えるようになる。アジアの中 での日本人の根拠のない優越感を自己否定し、アジア人意識を徹底できるか、この問いかけはもっと深めてほしかった。

・次点
免古地容子さんの「教育の分野でできること」。国際交流に語学を役立たせたい、という熱意を買う。
ほかにも、江口怜さんの「日本の境界を巡り、その近現代史を見つめなす」、立岡美佐子さん「空を見上げて」には、好感がもてた。

●伊藤千尋さん(ジャーナリスト)

今回の応募作の全般について感じたのは、「思いが空回りしている」ということだ。若者らしい熱意を文章に書き連ねるのはいい。だが、その思いを実現するた めに何をしてきたし、これから何をしようとしているのか。そこが明確には見えてこない。思いのたけを記すのは、自分の日記でやればいい。他人に共感を呼ぶ ために必要なのは、言葉でなく行動だ。もちろん行動している人もいる。だが、そのスケールは、主張する言葉と比べてあまりにも小さい。もっと大胆に行動し ていなければ、世界1周のためにアルバイトしたりポスター貼りしている人の努力には見合わない。

その中で磯崎さんは異色だ。シンガポールの学校で同級生が原爆を正当化している現実を知った。ただ憤慨するのでなく、まず「知の旅」から開始した。広島の 平和記念館で見たドイツ人の涙を見て、被爆者支援という行動に走った。それが失敗すると、次は原爆の被害について訴えるよう方針を変え、仲間を募って原爆 展を開いた。

次は広島ツアーを催そうと燃えている。感動の原点をしっかりと見据え、そこから次々に展開していくやり方はまさにピースボートの行動様式そのものだ。この姿勢はいい。その目でしっかり世界を見て、次の行動につなげてほしい。

第6回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

母国への旅⁄磯崎ちひろさん


「日本人がたくさん死んでよかったんだよ。それでようやく戦争が終わったんだから原爆って絶対必要だったんだ。」

7年生の歴史の授業中のことだ。同じクラスのアメリカ人男子がこう発言した。ちょうど原子爆弾の必要性の有無についてクラスでディベートをしていた時だっ た。私はシンガポールに住み国際校に通う生徒で、現在12年生。でもこの5年前の授業のことは、今でも忘れずに頭に残っている。私の曽祖父の両親は広島の 原子爆弾で亡くなった。爆心地の数百メートル内だったため、家の跡形もなく、湯飲みだけが残されていた、と出兵していた曽祖父が終戦後二人を探しに行った ときに見つけて帰ってきたことを母に話して聞かせたと聞いていた。だから、ごく幼いころから、私にとって原爆はあってはならないものだった。でも、目の前 にいるクラスメートは、私や他にもクラスに日本人がいることを知りながら、平気で死んでよかったって言うなんて。

物心ついた頃からずっと海外に住み続けてきた私にとって、いろんな国から来た生徒の多様な考え方を受け入れる素地は出来あがっていた。物事には一つだけし か見方が無いわけでないことも、友達が自分と違う意見を持つときにも、ほとんどの場合、「この子はこういう考え方なんだ」と客観的に捉えることが出来るよ うになっていた。しかし、この日のこの授業の中での彼の発言は、どうしても私の心の中では納得のいくものではなかった。原爆投下を決めた当時、そしてその 後の冷戦の時にも、原子爆弾は必要悪で、無くてはならないものとアメリカ人の大半が信じていたことも知っている。そして、9・11があってからというも の、アメリカ人はますます頑なに自分達が正義のために戦っていることを強調し続けた。クラスメートもその考え方を吹き込まれていたのかもしれない。

こんなことがあって、私の気持ち中である考えが固まり始めた。「核兵器をなくすための活動をしよう」まずは原爆の現状を知ることが大切だと考えた。そう だ、広島へ行こう。行かねばならない。でも、いまや親戚等誰も知り合いがいない広島へ行く機会はなかなかめぐってこなかった。9年生の夏、ようやくその時 が来た。

日本へ一時帰国するときには、いつも祖父母の住む東京と大阪にしか行くことはなかった。祖父母と一緒にちょっとした旅行へは行ったことがあるが、自分で祖 父母の家以外のところに旅行するのは初めてだった。新幹線の方向がいつもとは違う方向に向かって大阪から走り始め、外に見える景色はいつもとは全く違うも のになった。広島駅に降り立ち路面電車に乗り込むと、数名の外国人の顔があった。中でも大声で話している言葉を小耳に挟むとドイツ語らしい二人の男性は、 目的地が同じ上、記念館に入るまでほぼ同じルートをたどっていた様だった。平和記念館の中で原爆の威力を示すもの、被害の恐ろしさ、広島の復興、等々と続 く資料を見ていると、ふと先ほど路面電車で一緒だったドイツ人を見かけた。大きな体で資料に覆いかぶさるようにして説明を読んでいた。時々眼鏡をはずして はまた説明を読んでいる姿を、少しはなれたところで見ているときには分からなかったが、私も彼の読んでいた資料を読みに近づいたとき、彼が泣いているのに 気づいた。

行く前にもすでに原爆については授業で習っていたこと、広島の平和記念館のパンフレットを読んでいたこと、自分でもインターネットで調べていたことで、予 備知識はたくさんあった。それでも現地に行って、本物の原爆ドームを目の前にすると、胸が熱くなり、すぐ横に流れる川全体に人々が折り重なるようにして倒 れたことを思うと、苦しいまでの気持ちとなり、ドームの前でにっこり笑って写真を取ることはできなかった。資料で読む、見ているだけとは違う、そこにある 空気、におい、光を感じた。そして、その場を訪れている人達の様子を見て、この気持ちをみんなに伝えなければならないと思ったのだ。

10年生が始まると、どのようにこの気持ちをシンガポールの私の学校の中で実現すればいいか考え、行動することにした。私はまず今も尚被爆の後遺症に苦しむ人たちへの援助を呼びかけたいと思い、学校の校長先生のところへその考えを伝えに行った。

「何故日本のような豊かな国の被害者支援をしなければならないのか、その理由をはっきりさせなさい」それが校長先生の答えだった。日本は裕福な国なので、 他の国からの援助は必要ないだろうとはっきりと言われたのだ。私はショックを受けた。私の学校でのボランティア活動は、基本的には貧しい国の子ども達への 募金、もしくは不足品を送ること、天災にあった国へ救済として募金・不足品を送る、学校を作る、等々、発展途上国への援助だからだった。「私がやろうと 思っていることは、ボランティアとして許可されないことなのかな?外国からの支援は必要ないのだろうか?」すっかり自信をなくしてしまった。絶対に原爆の 被害に対して何か自分が出来るだろうと一生懸命考え、実際に広島の被害をこの目で見た上での行動と考えていたのに。私は悶々と考えていたが、そのうちなん だかどうでもいいような気がしてきて、しばらくこの問題を放っておくことにし、私は原爆への思いを心のどこかへ押し込めてしまった。そして忙しさのため、 初めて9月に校長先生のところに行って話をしてから約一年近くの間忘れてしまっていた。

再び夏がめぐってきて、今度は家族で東北に旅行に出かけることにした。松尾芭蕉の足跡をたどる旅でもあり、日本の心のふるさとといわれる情景を求めての旅だった。

日本にすんだ記憶の全く無い私にとっては自分の心の中の日本探しの旅だった。行く先々は夏らしい太陽の光の降り注ぐ中、青々と茂る稲があたり一面に広が り、緑がとても美しかった。住んだことも無い場所なのに、なぜか懐かしいと感じた。私の日本人としての心に訴える何かがあった。平泉の中尊寺金色堂を訪ね る途中、「夏草や兵どもが夢の跡」と記された、かの有名な松尾芭蕉の句碑のある丘の上に上ると、眼下には北上川の流れと共に広々とした平野が開ける素晴ら しい景色があった。それを見ているうちにみるみる涙がこみ上げてきてとめることが出来なくなった。この言葉に表しようのない美しい景色を見て、ただただ感 動したのだ。自分でも不思議なくらい、素直に流れ出てきた涙だった。なんと美しい国なんだろう、これが私の母国、日本なんだ。

その時だ。広島の平和記念館で見た、あのドイツ人の様子が頭に浮かんだ。彼の涙を思い出したのだ。そう、広島に旅したからこそ感じた、見た、聞いた、授業 で習うだけでは分からない、原爆の威力をみんなに知らせよう。そして、もしシンガポールで、私達の学校に原子爆弾が落ちたらどうなるか、みんなが身近に感 じられるように啓蒙活動をしよう。それが私のとるべき行動だと気づいたのだ。あのドイツ人は広島の痛みを感じていたんだ。私の学校の生徒たちだって、あの 被害を知れば、核の脅威を本当に知れば、核兵器は使用されるべきものでないことを理解してくれるだろう。こう信じて私はシンガポールに戻ると、校長先生に 説明するための資料を徹夜で準備した。絶対に今この活動をしなければ、この学校の生徒たちは、本当の核の威力を学習することにならないと強く訴える内容で 再度挑戦した。学内での核非拡散のための啓蒙活動を図りたいという私の意見は、今度は受け入れられた。私の熱意がようやく伝わったのだ。

原爆展を開くための準備には、さらに約半年の時間がかかった。私は平和を訴えるグループのリーダーとなり、グループメンバーと共に平和記念館から資料を取 り寄せ、学校で生徒たちに展示会の周知を図り、着々と準備を進め、とうとう2010年3月、着想から5年の月日をかけた原爆展を開催することが出来た。も し、私達の学校の中心にあるみんなが集まる広場に原爆が落とされたとしたら、この小さいシンガポールではどこまで被害が及ぶことになるか、一目で分かるよ う地図を作成し範囲を示し、平和記念館から供出してもらった資料と共に展示した。原爆について初めて学習する学年7年生に対して講演会も行った。そしてど んなに恐ろしいものであるのか、直接被爆者の方々から話を伺った私からみんなにその言葉を伝えたのだ。

たった一度、核兵器の脅威を知らせるだけで核廃絶に繋がるとは思っていない。ただ、これは大きな一歩なのだ。広島への旅でドイツ人の涙を見たことが、原爆 展を実現させることに導いてくれたと思っている。私達の活動は決して無にはならないことを教えてくれた。目の前にある核の悲惨さに感じ入る彼の姿を見たこ とが、私が諦めずに行動を続けた原動力となっていることは間違いないことだ。旅では本物をこの目で見て、その場の音・声を聞き、そこでしか感じられない何 かをつかむことが出来るものではないだろうか。

この原爆展をきっかけに、私の学校から広島に興味を持ち実際に平和記念館を訪れる学生が出てくれたらと願っている。そして、あれだけの焼け野原になりなが ら、人々の努力で復興し、ますます美しい国として私を魅了してやまない母国、日本を、みんなに訪れてほしい。そうすれば、「日本人がたくさん死んでよかっ た」なんていう言葉を口にする生徒はいなくなっていくのではないか、いやいなくなってほしい。再びこの美しい国を灰にしてしまわないようにすることが私達 に課せられた使命だと思っている。

私の今後の活動目標は、平和を求める学内の生徒をまとめ、広島へのツアーを組み、みんなに原爆についてよく知る実体験をしてもらうことだ。被爆者の皆さん の声も届けたい。この考えは学校側に伝えてあり、すでに動き始めている。このあらたな挑戦が実現する日を楽しみに活動を続けたい。

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