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第5回エッセイ大賞入賞者発表

第5回エッセイ大賞入賞者発表
大賞 あの日の「ありがとう」/大山みちるさん(19歳)
次点 真実を伝える/笛田満里奈さん
第三の旅/免古地容子さん


*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。
INFO
大賞 あの日の「ありがとう」/大山みちるさん(19歳)
次点 真実を伝える/笛田満里奈さん
第三の旅/免古地容子さん


*大賞作および次点作は、ページ下部からダウンロードして読むことができます。

第5回エッセイ大賞選評

●鎌田慧さん(ルポライター)

平和について考えるとき、ヒロシマ、ナガサキが大きなテーマになる。

 いまは、ヒロシマ、ナガサキの風化が心配されるようになったので、この二つの都市の悲劇を忘れてはならない。しかし、戦争をヒロシマ、ナガサキの悲惨だけで語ることもまた悲劇を生む、というのが現代的なテーマである。

 加害の歴史を認識しなくては、「国際化時代」などありえない。平和は加害の歴史の記憶をどのように取り戻すか、なくして成立しない。

・大賞『あの日の「ありがとう」』大山みちる
米国で直面した現実から考えが深化している。米国では、「パールハーバー」がステロタイプとなっていて、ベトナムやイラクやアフガンの加害が語られないよ うに、加害の歴史を「知らなかったではすまない真実」として、学ぶ時代になったことを告げている。もっとも大事な視点である。

・次点『真実を伝える』笛田満里奈
韓国のタプゴル公園の「3・1万歳運動弾圧」の碑を見学したはずだが、韓国人の「おじさん」が説明してくれたことにもっとこだわり、勉強してほしかった。残念だ。筆者の社会的な関心と行動力に期待したい。これからの活動を期待できる。

・次点『第三の旅』免古地容子
「日本の子どもたちの多くが、学ぶ意欲も将来の希望も失くしている」現状と公立高校の教員をやめた体験との関連を、もっと突き詰めて書いてほしかった。新しい仕事と生活の報告をこれから書いて送ってほしい。

●伊藤千尋さん(ジャーナリスト)

最終選考に残った作品は
(1)年齢の割に確かな経験をし
(2)言いたいことの内容を本人がはっきり自覚し
(3)伝える文章力や構成力もある、
点で共通している。一読して感じたのは「みんな文章が上手だ」という驚きと、この賞も回を増すごとに実力のある応募者が着実に増えているということだ。

ひときわ目立ったのが大山みちるさんの「あの日の『ありがとう』」だ。広島の原爆資料館を訪れて「アメリカが悪い」と思ったが、身近なアメリカ人は良い人 だ。そのギャップを探ろうと、高校生でアメリカに留学し韓国系アメリカ人の家にステイした。パールハーバー攻撃についてどう思うかを正直に書いて学校側か ら問題視され、ホストファミリーからも朝鮮半島で日本が行った非道を指摘される。そこから「何も知らない」自分に気付いて韓国語も学び、歴史の真実を知る 努力をした。辛い思いをし、それに正面から立ち向かっただけに、「教科書に載らない真実を知りたい」という彼女の言葉には強い力がある。

南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃に尽くしたネルソン・マンデラは、知性を「政治家の言葉をうのみにせず、知的好奇心をもって自ら真実に迫ることだ」と定義した。まさしくその道を歩んでいる大山さんには、しっかりと世界を見てきてほしい。

次点の免古地容子さんは南京の記念館を訪れたなどの体験から、平和を考える出発点は国家でなく個人なのだという点に気付いた。高校教師として今の日本の教 育のあり方に強い違和感を感じている。教育という観点から世界を見てまわることが彼女にも、日本の社会にも役立つだろうと確信する。

第5回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

あの日の「ありがとう」⁄大山みちるさん

「私にとっては、今がしあわせなときで、平和な日だと思います。」

これは、10年前の私が書いた平和についての作文のラストである。

その夏、私は清瀬市のピースエンジェルズとして広島へ派遣された。

初めての新幹線、初めての広島、内心わくわくしていた。しかし、平和記念館で私を待っていたのは楽しみにしていた旅行とは全く別のものだった。 皮膚がとけ、髪が抜け落ち、体中に斑点が出来た人々の写真は、若干10歳の私にはあまりにも受け入れがたく、心に大きくのしかかった。

平和記念式典の参列で聞こえた何十万人もの人のすすり泣く声、「ごめん、ごめん」と石碑にすがりつきながら泣くおばあさんの姿、涙ながらに被爆 体験を語る被爆者の「アメリカが憎い」という憎悪の目、その全てが、幼い私に「こうなったのは全てアメリカのせいで、アメリカが悪いのだ。」という概念を 与えた。

しかし、とても良くしてくれる親のアメリカ人の友人たちが悪人には見えず、私の心の中に「本当は一体誰が悪いのか、この悲しみは誰のせいなの か。」という疑問が生まれた。日を追うごとにその疑問は大きくなり、私は、日本にいても答えは見つからないと思い単身アメリカの高校へ留学することに決め た。

留学先は、東海岸の高級住宅地、ホストファミリーは韓国系アメリカ人だった。学校の生徒の大半は白人、アジア人は韓国人ばかりで、日本人は私一人。白人主義者たちが黒人を蔑み、韓国系アメリカ人と移民韓国人とが常に対立していた。

歴史の授業の最初の日、渡された辞書くらい分厚い歴史教科書。原爆の話はどこにのっているのだろう、と思いページをひらいたが、ひらいてもひらいても見つからない。

やっと見つけた原爆投下の話は、1ページの半分もなかった。広島で見たような、なまなましい写真の代わりに小さな日本地図に広島と長崎の場所が 示されているだけだった。先生がそのページについて説明したのはほんの一瞬「アメリカが日本に原爆を落としました。そして、アメリカが勝ちました。」どの くらい犠牲になったのか、その後被爆者がどうなったのか、その日にちすら、説明されなかった。

その授業の1年間のうち内容の大半は、パールハーバーとKKKについてだった。

「日本では、パールハーバーをどう教えているの?」

先生の何気ない質問に、パールハーバーについて何も知らなかった16歳の私は、正直に「こんなに詳しく教えない」と答えた。すると、一瞬教室が 冷たくなり、途端、クラス中がざわめきだしてみんな私に向かって意見をぶつけだした。「なぜ?!あんなひどいことをしたのに。」「日本はまだ反省してない んだ。」「何の罪もない人達を警告もなしに殺した。それも大勢。」

その言葉は、冷たく、怒りと憎悪がまざったあの広島で見た目をしていた。

そのとき突然あの広島で見た写真がフラッシュバックして、怒りと疑問が込み上げてきた。「うるさい!あなた達だって、日本に原爆を投下したじゃ ない!警告もなしに。それも2回も。それなのに、被害者ぶって、あまりにも自己中すぎる。」私は、必死に冷静を装いながら、心がそう叫んでいるのを感じ た。そして自分が憎悪でいっぱいになっているのを感じた。

そして、戦争の始まりを痛いほど感じた。

その授業の期末テストで「パールハーバーについてどう考えるか述べなさい。」という問題があり、私は、自分が前に授業で思ったことを全て書いた。

そして、その翌日、校長室に呼び出された。

そこには、怒った校長先生と私の解答用紙を持った不機嫌そうな歴史の先生と困った顔の日本語の先生がいた。結局、私に発言の余地はなく、留学生の私の英語力不足という理由を日本語の先生が押し通し、その場は何事もなかったように終了した。

その日、帰宅すると学校から連絡を受けたホストファミリーが、バツが悪そうに私を待っていた。彼らの質問に「本当の思いを書いただけ。」と言い 張る私に当時不仲であったホストシスターは、「なぜ反省しないのか。日本人は野蛮で戦争が好きって有名。韓国は何もしてないのに、日本は、韓国をバラバラ にして、多くの女性をレイプして、名字も名前も言葉も変えさせた!なぜ侵略したの?!確かに私たちは、広島に原爆を落とされた日を知らない、でも、あなた はパールハーバーがいつか知っているの?韓国に何をしたか知っているの?」

そう言って、目に涙をためながら私を睨む彼女に、私は何も答えられず、立ちすくみながら、戦争の残した傷跡をただただ感じて涙を堪えていた。

次の日のランチタイム、全校生徒が集まるカフェテリアで私の話をホストシスターから聞いた学校中が私を非難の目で見た。耐えられなくなり、トイ レに逃げこんだ。トイレでサンドウィッチを食べているとき、昨日言われたことを思い出してハッとした。私は、何も知らなかった。真珠湾が起きた日も何人犠 牲者が出たのかも。なのに、いつの間にか被害者ぶって、辛いのも可哀想なのも全部自分だけ、唯一の被爆国の日本だけになっていたのだ。

それから、私はアメリカと韓国の日本との関係についての真実の歴史を知るため出来る限りのことをした。歴史についてのアメリカの本をよみあさ り、日本の本に乗っている内容と照らし合わせてみたが、真実である確信がなかったために、戦時経験のある友達のおじいさんなどに頼んで話を聞くことにし た。

ある人は、怒りながら、ある人は、泣きながら、自分の戦時経験を話してくれた。英語の話せない移民の韓国人のおばあさんの話を理解するために韓 国語も勉強し、元慰安婦であった人にも話を聞けた。彼女には最初、日本人には会いたくないと門前払いをされたが、友達の説得で話を聞かせてもらえた。教科 書にはのってない真実を目の前に、私は気づくと泣いてしまっていた。話し終わったあと、彼女は私の手を取り「ありがとう」と日本語で言ってくれた。

そのとき、本気で真実を知ろう、理解しようとする力が世界を平和へと近づけるのだと感じた。

そうやって何十人もの人の心に触れた私は一つのことに気づいた。誰もが、『被害者/加害者』であるということだ。戦争は、誰のせいでもなく、 「もっと」という人間の欲のせい。それを高校卒業テーマとしてまとめ発表し、見事成績優秀者として卒業することが出来た。驚くべきことに、その発表会で一 番に拍手してくれたのは、あの不仲だったホストシスターだった。

真実を語るべき歴史の教科書は、その国の良いように加工されていて、その加工された教科書は、人々に色眼鏡をかけさせる。同じ平和を願うには、 色眼鏡から見る世界は国によってあまりにも違いすぎる。小さな意見は英語力不足として、かき消され、小さな私は、反省しない日本人として非難された、あの アメリカでの経験は私にその色眼鏡の取り方を教えてくれた。そして、アメリカ、韓国、日本の3カ国に挟まれた高校生活は、私の視野と興味を世界へと開かせ た。

あの作文を書いた10歳の頃私は、自分の周りで戦争がなく、何不自由ない生活をしていればそれが「平和」だと思っていた。

あれから10年、大学生になった今、私の心は世界へと向いている。

知らなかったではすまない真実がある。

教科書にはのってない大切な真実がある。

将来、あの憎悪の目をする人が一人でも減るように、私は、知りたい。教科書の世界にはない真実をこの目でしっかりと見たい。分かり合いたい。そ して、教室では学べない大切なものをピースボートの一員として学びたい。こんな小さな私だけの力では、世界は平和にならないかもしれない。どうにもならな い、無理だ、と諦めたくない。

私は、あの日もらった「ありがとう」を決して無駄にはしない。

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大賞作と次点作は、こちらのPDFファイル(A4横・縦書き)でも読むことができます。

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