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パレスチナ人医師 イゼルディンさんの講演会「憎まない生き方」に500人が来場されました

パレスチナ人医師 イゼルディンさんの講演会「憎まない生き方」に500人が来場されました
(よく通る低い声で、一言一言しっかりと話すイゼルディンさん。来日中は休む間も惜しんで講演を行った)
「憎しみは毒です。だれしも健康に生きたいはずです。憎しみにとらわれてしまってはいけない。憎しみにかられると、視界が狭まり、何も考えられなくなるのです」
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(よく通る低い声で、一言一言しっかりと話すイゼルディンさん。来日中は休む間も惜しんで講演を行った)
「憎しみは毒です。だれしも健康に生きたいはずです。憎しみにとらわれてしまってはいけない。憎しみにかられると、視界が狭まり、何も考えられなくなるのです」
激動の人生を生きてきたパレスチナ人医師、イゼルディン・アブエライシュさんは、会の冒頭でこのように語りました。彼は、亜紀書房から書籍『それでも、私は憎まない』を出版したばかりです。

2月19日、東京・中野ゼロホールで行われたシンポジウム「憎まない生き方」には、厳しい寒さの中、500人もの方が来場、満員となりました。講演前には永六輔さんが駆けつけ、急遽、鎌田實さんと特別対談を行うことに。お二人の軽妙な会話は会場を温かい笑いで包みました。

講演会前半では鎌田實医師が講演。イスラエル軍の攻撃で犠牲になったパレスチナの少年モハメド君から臓器移植を受けた、イスラエル人少女の話「モハメド君のいのちのリレー」や、イラクやベラルーシで出会った、死を受け入れて生きる子どもたちの話を紹介。鎌田さんは、「憎しみ悲しみはある、でも横におく」という生き方を話されました。
パレスチナ人医師 イゼルディンさんの講演会「憎まない生き方」に500人が来場されました
(右から鎌田實さん、イゼルディンさん、国連パレスチナ難民救済事業機関保険局長の清田明宏さんによる鼎談)
イゼルディンさんは、2009年に行われたイスラエル軍によるガザ攻撃の間、自宅を砲撃され3人の娘を失いました。当時、イスラエルでの医療活動をしていたイゼルディンさんが、攻撃によって娘を失った直後の悲嘆にくれる映像は、イスラエルのテレビ局で放映されました。即座にインターネットで世界中に配信され「ガザで子どもを亡くしたドクター」として知られました。その後、彼は報復ではなく対話を呼びかける人道的活動を始めました。

「娘たちは、いつも私の目の前にいて聞いてきます。『私たちがいなくなった後、お父さんは何をしたの』と。娘たちの死を生かすこと、これ以上、不幸を生まないために働くことが、彼女たちに対して私ができることです」

悲劇の後、イスラエル軍は非武装の民家を砲撃したことをなかなか認めませんでした。「家に武器があった」「ハマスの一人が建物付近で確認された」、挙句の果てには「娘たちの遺体から留散弾が見つかった」などと言い、娘たちが無実であったことを認めたのは一ヶ月後でした。「怒りと憎しみは違います。この世の中で起きている不条理に対して怒ることはとても大事なこと。前向きな行動を起こす、その源となるのが怒りです」とイゼルディンさんは言います。
パレスチナ人医師 イゼルディンさんの講演会「憎まない生き方」に500人が来場されました
(翌20日、ピースボートセンターとうきょうにも来訪。「若者たちにメッセージを伝えられて嬉しい」と話しました)
イゼルディンさんは講演の終わりに、ナチスの収容所から生還した、ドイツ人のマーティン・二ーメラーの詩を引用しました。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
ユダヤ人が攻撃されたとき、私は声をあげなかった
私はユダヤ人ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人居なかった」

「みなさん、何人殺されたら声を上げるのですか。今こそ、声を上げるときではないですか」彼の叫びとも思える呼びかけが会場に響き渡りました。

講演の翌日には、イゼルディンさんはピースボートセンターを訪れ、ここでもお話を聞かせていただきました。イゼルディンさんの講演を聞きに来た方の中には、「パレスチナについてまったく知らなかった」という方もいました。ピースボートでは、ヨルダンにあるパレスチナ難民キャンプを訪れ、支援を行うなど、難民支援を続けてきました。また、イスラエル、パレスチナ双方から若者を招いて船上で対話の場をつくっています。

パレスチナで起こっていることは、「遠い国のかわいそうな話」というわけではありません。国際法に違反するイスラエルの行為に対して、日本政府は一度も反対の声を上げてきませんでした。日本人はこれまで、その行為を黙認してきたに等しいのです。もし、日本政府がきちんと反対を示していたら、失われなかった命もあるかもしれません。