アルゼンチン・日系の人々と街をめぐる(ブエノスアイレス)
ここでは、第90回ピースボート地球一周の船旅で訪れたアルゼンチン・ブエノスアイレスでの交流プログラムの様子をご紹介します。ブラジルの南、大西洋に面して南北に長く位置するアルゼンチン。南米ではブラジルとペルーに次いで日系移民の数が多く、世界の日系コミュニティの中でも大きな存在感を持っています。
- 寄港地エリア: 南北アメリカ&カリブ
- クルーズ: 第90回 地球一周の船旅
- 関連キーワード: 日系人 / 異文化交流 / 移民・難民
船
2017.1.23
2020.9.15
ここでは、第90回ピースボート地球一周の船旅で訪れたアルゼンチン・ブエノスアイレスでの交流プログラムの様子をご紹介します。ブラジルの南、大西洋に面して南北に長く位置するアルゼンチン。南米ではブラジルとペルーに次いで日系移民の数が多く、世界の日系コミュニティの中でも大きな存在感を持っています。
アルゼンチン日系センター
ラテン・アメリカにおける日系移民の歴史と日系人社会について学ぶため、ピースボートは数年前から現地の団体と協力してプログラムを行なっています。
「アルゼンチン日系センター」は日系人の組織として1985年に設立され、現在は日本文化の発信センターとしての役割も担っている団体です。
第90回クルーズでピースボートでは、同センターとともにブエノスアイレスを巡る交流ツアーを行いました。港を出発したピースボート参加者はまず、街の中心となるサン・マルティン広場に向かいました。ここで約30名の地元の参加者と落ち合い、ペアになって街歩きに向かいます。
「アルゼンチン日系センター」は日系人の組織として1985年に設立され、現在は日本文化の発信センターとしての役割も担っている団体です。
第90回クルーズでピースボートでは、同センターとともにブエノスアイレスを巡る交流ツアーを行いました。港を出発したピースボート参加者はまず、街の中心となるサン・マルティン広場に向かいました。ここで約30名の地元の参加者と落ち合い、ペアになって街歩きに向かいます。
日系移民がアルゼンチンと日本をつなげる
アルゼンチン側の代表者はリカルド・ホカマさんで「このように皆さんを迎え入れることは両国のつながりを深めるためのよい方法だと思います」とご挨拶くださいました。
ホカマさんは、アルゼンチンの日系移民には特徴があると言います。「政府の政策より、何千人という個人がそれぞれ主導者となり移民の流れを作りました。彼らが現在5万人にも上る日系コミュニティの礎を築いたのです。」
日本からの移民は20世紀初頭に始まり、沖縄県や鹿児島県出身の方が中心でした。多くは首都ブエノスアイレスに居を定め、家の使用人や肉体労働者として働きました。首都以外では花の栽培や漁業に従事した方々もいました。
ホカマさんは、アルゼンチンの日系移民には特徴があると言います。「政府の政策より、何千人という個人がそれぞれ主導者となり移民の流れを作りました。彼らが現在5万人にも上る日系コミュニティの礎を築いたのです。」
日本からの移民は20世紀初頭に始まり、沖縄県や鹿児島県出身の方が中心でした。多くは首都ブエノスアイレスに居を定め、家の使用人や肉体労働者として働きました。首都以外では花の栽培や漁業に従事した方々もいました。
日系人というアイデンティティ
プログラム参加者は2台のバスに分乗し、新しい商業地域「プエルト・マデロ」、次いで五月広場、大聖堂、カサ・ロサーダ(大統領府)を訪れました。その後は雰囲気ある街並みのボカ地区を日本からの参加者と地元の方とがペアになって歩き、相手と自由に話す時間を満喫しました。
会話の話題は様々で、例えば日系人としてのアイデンティティの問題を話す方もありました。移民当初、日系人社会は非常に閉鎖的でした。ある程度時間を経た後も、日系2世はやはり日系人と結婚するのが普通だったと言います。
元アルゼンチン日系センター会長のアキ・オオキさんは「多くの日系人にとって、ラテンアメリカ社会に溶け込むのは時間を必要とし、難しいことでした。私はここで生まれて周りの人と同じアルゼンチン人でありながらも、小さい頃から常に、自分は何か違うと感じていました」と述懐します。 しかしより若い世代にとって溶け込むことはさほど難しくはなくなってきているようです。
アルゼンチン日系センターの現在の財務担当者 シンシア・シムラさんは「私は自分自身をアルゼンチン人だと思っています。でも、私の祖父母や両親が日系人で良かったと思っています。私は2つの文化の良いところを身につけていますし、2つの言語を操れることは職を得るためにも有利です」と語りました。
彼女によれば、日系人社会は最近大きな変化を遂げました。以前はこのセンターは日系人たちが集う場所でしたが、現在は日本文化に興味を持つアルゼンチン人が多く訪れます。「現在、センターでの講座やイベントに参加する人の70%は日系のルーツを持たない方々です。大多数の人は日本語や漫画などの日本文化への興味で訪れているのです」とシンシアさん。
会話の話題は様々で、例えば日系人としてのアイデンティティの問題を話す方もありました。移民当初、日系人社会は非常に閉鎖的でした。ある程度時間を経た後も、日系2世はやはり日系人と結婚するのが普通だったと言います。
元アルゼンチン日系センター会長のアキ・オオキさんは「多くの日系人にとって、ラテンアメリカ社会に溶け込むのは時間を必要とし、難しいことでした。私はここで生まれて周りの人と同じアルゼンチン人でありながらも、小さい頃から常に、自分は何か違うと感じていました」と述懐します。 しかしより若い世代にとって溶け込むことはさほど難しくはなくなってきているようです。
アルゼンチン日系センターの現在の財務担当者 シンシア・シムラさんは「私は自分自身をアルゼンチン人だと思っています。でも、私の祖父母や両親が日系人で良かったと思っています。私は2つの文化の良いところを身につけていますし、2つの言語を操れることは職を得るためにも有利です」と語りました。
彼女によれば、日系人社会は最近大きな変化を遂げました。以前はこのセンターは日系人たちが集う場所でしたが、現在は日本文化に興味を持つアルゼンチン人が多く訪れます。「現在、センターでの講座やイベントに参加する人の70%は日系のルーツを持たない方々です。大多数の人は日本語や漫画などの日本文化への興味で訪れているのです」とシンシアさん。
アルゼンチンの方を船に案内
ボカ地区での散策後は、レストランでアルゼンチンの多様な肉料理を堪能しました。ピースボート参加者の一人は「一緒に食事をしたりゲームができたのがとても良かったです。地元の人と一緒に行くのがその街を知るためには良い方法だと思いますし、ピースボートならではです」とコメントしました。
食事の後は日系センターを見学し、着物や扇子など日本で集められた寄付品を贈呈しました。
一日の締めくくりに、アルゼンチン側の参加者を船に迎えました。今度は逆にピースボート参加者が船内を案内。日系人ではありませんが、漫画やアニメから日本に興味を持ったというエリカ・マリアニさんは「船の訪問も、アルゼンチンの事をあまり知らない日本の方と一緒に過ごせたこともとても良い経験でした」と語りました。お別れ会の最後には皆でで沖縄の歌を歌いました。
食事の後は日系センターを見学し、着物や扇子など日本で集められた寄付品を贈呈しました。
一日の締めくくりに、アルゼンチン側の参加者を船に迎えました。今度は逆にピースボート参加者が船内を案内。日系人ではありませんが、漫画やアニメから日本に興味を持ったというエリカ・マリアニさんは「船の訪問も、アルゼンチンの事をあまり知らない日本の方と一緒に過ごせたこともとても良い経験でした」と語りました。お別れ会の最後には皆でで沖縄の歌を歌いました。
新しい日系コミュニティの形
アルゼンチン側の参加者のギセシェ・タカエスさんは一日を次のように締めくくりました。
「とても良い一日でした。日系コミュニティは現在、昔のように閉鎖的ではなく、開かれた、あるべき形に変わりつつあります。この事をお伝えできたのが嬉しいです。私はアルゼンチン人であり、また日本人だと思っています。二つのアイデンティティの葛藤は、少なくとも私を含め多くの人にとっては過去のものです。これからは2つの文化の両方を味わい、ともに生きることができると思います」。
「とても良い一日でした。日系コミュニティは現在、昔のように閉鎖的ではなく、開かれた、あるべき形に変わりつつあります。この事をお伝えできたのが嬉しいです。私はアルゼンチン人であり、また日本人だと思っています。二つのアイデンティティの葛藤は、少なくとも私を含め多くの人にとっては過去のものです。これからは2つの文化の両方を味わい、ともに生きることができると思います」。