内戦から立ち上がるクロアチアの女性たちと交流 −ドブロブニク
第83回ピースボートの寄港地、クロアチアで行われた交流プログラムの報告をお届けします。
純白の城壁に囲まれたオレンジ色の屋根瓦。その美しいたたずまいから「アドリア海の真珠」と呼ばれてきたドブロブニク旧市街は、クロアチアで最も人気のある世界遺産です。しかし、この美しい町並みは1990年代前半に起きた旧ユーゴ紛争(※)の際、数年にわたり包囲され、砲撃により粉々に打ち砕かれました。その傷跡は、今も街のあちこちに残っています。
交流プログラム「ドブロブニクの女性たちへ明るい未来を」で訪れたのは、戦争によって被害を受けた女性たちを支援しているNGO「DESA(デシャ)」です。デシャでは、女性たちが洋服を仕立てる技術を教えています。それにより収入を得るだけではなく、目的意識や新しい仲間など、自立して生きていくためのきっかけを得ることができるようになっています。
交流プログラム「ドブロブニクの女性たちへ明るい未来を」で訪れたのは、戦争によって被害を受けた女性たちを支援しているNGO「DESA(デシャ)」です。デシャでは、女性たちが洋服を仕立てる技術を教えています。それにより収入を得るだけではなく、目的意識や新しい仲間など、自立して生きていくためのきっかけを得ることができるようになっています。
デシャは、1998年にピースボートが初めてドブロブニクを訪れた際に受け入れてくれた団体です。そのときピースボートは、洋裁と仕立てのワークショップのためのミシンを寄贈しました。そのミシンは、あれから17年がたった今でも大切にされているそうです。
DESAのマネージャーを務めるセカ・リモヴスはドブロブニクが包囲されていたときの苦しみを語りました。「多くの人がすべてを失いました。家は壊され、家族は殺されて、避難を強いられました。日々続く砲撃や死や破壊が、自分たちの生活を取り囲んでいることにうんざりしていたのです」。
女性たちはグループを作り、手工芸や洋裁を行うことで意識を戦争以外のものに向けるよう努めました。女性たちの絆は深まり、難民としてここへ逃れてきた女性たちも収入を得ることが出来るようになりました。このメンバーがデシャを立ち上げ、1993年に公式にNGOとして登録をしました。
DESAのマネージャーを務めるセカ・リモヴスはドブロブニクが包囲されていたときの苦しみを語りました。「多くの人がすべてを失いました。家は壊され、家族は殺されて、避難を強いられました。日々続く砲撃や死や破壊が、自分たちの生活を取り囲んでいることにうんざりしていたのです」。
女性たちはグループを作り、手工芸や洋裁を行うことで意識を戦争以外のものに向けるよう努めました。女性たちの絆は深まり、難民としてここへ逃れてきた女性たちも収入を得ることが出来るようになりました。このメンバーがデシャを立ち上げ、1993年に公式にNGOとして登録をしました。
サーシャは、デシャが20年間支援を続けてきた女性のひとりです。彼女は、戦争中にボスニアの小さな村から逃れてデシャに加わりました。セカによれば、サーシャは特別に機織りが上手だったそうです。それから長い間、サーシャは何百人もの女性に機織りを教え、デシャになくてはならない存在になりました。今では安定した生活を手に入れたかのように見えるサーシャですが、こんな胸の内を語ってくれました。
「自分の故郷のことを毎日考えています。故郷の家の鍵をまだ持っていますし、いつか故郷に戻れる日が来ることを願っています」。
現在デシャには500名以上の女性が登録をしていて、教育とトレーニングを受けています。デシャは、衣服だけでなくアートや伝統的な手工芸品なども制作していて、新たな雇用を生んでいます。
「自分の故郷のことを毎日考えています。故郷の家の鍵をまだ持っていますし、いつか故郷に戻れる日が来ることを願っています」。
現在デシャには500名以上の女性が登録をしていて、教育とトレーニングを受けています。デシャは、衣服だけでなくアートや伝統的な手工芸品なども制作していて、新たな雇用を生んでいます。
交流プログラムの参加者は、デシャがつくる手工芸品の見学をした後、メンバーたちの家庭に招かれて、伝統料理をご馳走になりました。参加者は、ツアーを通してユーゴ紛争がどのような傷跡を残したのか、そして難民の女性たちがどのように前に進んでいるかについて学ぶことができました。一方で、こうした交流はデシャのメンバーにとっても、過去の経験をオープンに話せる貴重な機会となるとおっしゃってくれました。
ボスニア出身のピースボートスタッフであるヤスナ・バステッィチは、旧ユーゴ紛争の最中に故郷のサラエボを追われました。ユーゴスラビア連邦が崩壊するまでは、クロアチアもボスニアもひとつの国でした。地域が分裂し、紛争で難民となったヤスナは、ピースボートが初めてドブロブニクを訪れた際にもコーディネートをしています。今回このプログラムに参加した彼女は、感慨深げにこう語りました。
「自分が若い頃を過ごし、今は別の国に属するこの場所にいると思い出がよみがえってきます。このドブロブニクでは、新たな可能性、新たな架け橋を築いています。様々な背景を持つたくさんの人々が、共にこの町に平和を作り上げているのは本当に素晴らしいことです。私たちは、互いが文化の違いを認め合うことの大切さや、対話によって平和を生み出す価値に気づくべきなのです。それが、過去の歴史から学ぶ意味だと思います」
ボスニア出身のピースボートスタッフであるヤスナ・バステッィチは、旧ユーゴ紛争の最中に故郷のサラエボを追われました。ユーゴスラビア連邦が崩壊するまでは、クロアチアもボスニアもひとつの国でした。地域が分裂し、紛争で難民となったヤスナは、ピースボートが初めてドブロブニクを訪れた際にもコーディネートをしています。今回このプログラムに参加した彼女は、感慨深げにこう語りました。
「自分が若い頃を過ごし、今は別の国に属するこの場所にいると思い出がよみがえってきます。このドブロブニクでは、新たな可能性、新たな架け橋を築いています。様々な背景を持つたくさんの人々が、共にこの町に平和を作り上げているのは本当に素晴らしいことです。私たちは、互いが文化の違いを認め合うことの大切さや、対話によって平和を生み出す価値に気づくべきなのです。それが、過去の歴史から学ぶ意味だと思います」
※旧ユーゴ紛争とは
ユーゴスラビア連邦共和国の崩壊の過程で起こった一連の紛争。主要な紛争は1991年から2000年まで行われた。クロアチアでの戦争は91年から95年までで、独立をめざすクロアチアと、それを阻止しようとするセルビア共和国を中心とする旧ユーゴ連邦軍との間で争われた。
ユーゴスラビア連邦共和国の崩壊の過程で起こった一連の紛争。主要な紛争は1991年から2000年まで行われた。クロアチアでの戦争は91年から95年までで、独立をめざすクロアチアと、それを阻止しようとするセルビア共和国を中心とする旧ユーゴ連邦軍との間で争われた。