村をあげての熱烈歓迎
標記のオプショナルツアーに参加した。Da Nangから国道1号線をバスで南下し、Tam Kyというチョットした街から西へ山岳部に向かった。Tra
My(チャーミィと発音する)村の村役場までは道路状況も良くスムーズに普通のバスで行けた。そこから先は米軍が建設したと思われる砂利道(子供の頭大の砕石を敷き詰めたもの)で、米軍の軍用トラックを改造したバスでないと入れない。
しかも歩くくらいのスピードしか出ないので、目的の山岳民族村(Tra Pu:チャープィと発音)までは地図の上では大した距離ではないのに、時間はTra
My村までの2倍ぐらいかかった。この村は川向こうにあり、渡し舟でしか行けない。竹を編んだものに泥を塗った船で、小学生低学年としか見えないかわいい船頭さんが一生懸命漕いでくれた。これでその山岳民族村に入れるのだが、これが有名なホーチミン・ルートの一部分なのだそうだ。

有名なホーチミン・ルート |
ここでの生活は、自給自足を基本としていて、すべてリサイクルされているようだ。食物連鎖を、人・家畜・栽培植物で成り立たせている。従ってここからはゴミは出ない。山岳民族だけでなく、ベトナム人のほとんどはこの生活をしているみたいである。 |
ベトナム戦争で米軍が彼らに勝てなかったのも、この事実を見れば明確に理解できる。しかもこの土地は簡単に穴を掘ることのできる地質で、いくらでもトンネルを作ることができそうである。第二次世界大戦中の日本より数十倍の爆弾を落とされたのに、それによる死者の数は極めて少ないというデータも頷ける。米の3毛作が可能で、それにより各村単位ぐらいで自給自足以上の経済が維持できている民族に対して、軍事力のみで圧倒できると考えるのが馬鹿である。この点、現場に行って、現物にあたり、現実(データ)を知るという旅の楽しみは素敵である。
さらに、どういう訳か、いわゆる貧富の差というものはこの地にはなく、言ってみれば、皆一様に貧貧で生活しているという感じである。しかもその貧というのが、我々が言う所の貧でもないらしい。
Tra My村に戻り、夕方になって、ウェルカムパーティが村役場主催で行われた。おおよそ2000人以上の大集団の熱烈歓迎パーティであった。戦争後の世代である子供たちは、ベトナム人とそれほど違いのない日本人を含めて外国人は初めてだそうで、サインをねだったりして現場を大混乱に陥れた。特に、12年生(日本で言う高3)のアオザイ3人娘の日本男性に対する積極接近ぶりはすさまじく、我々日本男性若者の3人はバスに戻れなかった。遅くなって彼らはよれよれになって宿舎に帰ってきた。
吉塚文雄
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