第10回エッセイ大賞入賞者発表

第10回エッセイ大賞入賞者発表
第10回「旅と平和」エッセイ大賞では、以下の作品が入賞いたしました。審査委員による選評および、作品前文を掲載いたします。

大賞 「Never Again という言葉にどれだけの重みがあるのだろうか」/三藤紫乃さん
次点 「僕らは一つ」を伝えるために/田中昂佑さん

※第11回エッセイ大賞の作品を募集中です。ご興味のある方は、記事の最後にあるリンクをクリックしてください。

第10回エッセイ大賞選評

●鎌田慧さん(ルポライター)

三藤紫乃さんの『Never Againという言葉にどれだけの重みがあるのだろうか』には、
少女時代に読んだ一冊の本が、人生に大きな影響を与えるということが、はっきり描かれている。

ポーランドに留学して、アウシュビッツを視る。「いま見ている現実が、歴史を陳腐化してしまう」との危機感がある。視る、という行為はどんなことなのか、との自分にたいする問いかけが、その現実に9回も足を運ばせることになる。
このこだわりに、これからのものの見方を深化させるたしかさがある。アラン・レネ監督の『ヒロシマ わが恋』(邦題『二十四時間の情事』)は、視るという行為を、突き詰めて考えさせる映画だったが、
その苦悩のプロセスが感じられる。

既存の善悪基準では推し量ることができないあまりにも巨大な死と苦痛を前にして、
私たちの感覚は麻痺してしまう。これは、アウシュビッツの収容者が、
「その絶望的な生活環境にさえも順応していったこととも似ているかもしれない」。
と書いている。これからどう生きるか、その手探りの問いかけが読み手に伝わってくる。

次点となった田中昂佑さんの『「僕らは一つ」を伝えるために』について。いじめられていた少年が、ボランティア活動で、自己回復を遂げ、ベトナムに出かけて、子どもたちとの交流し、マイケル・ジャクソンのパフォーマンスを世界に伝える活動をするようになる。子どもたちの世界の可能性を、子どもたちに直に伝える楽しさが書かれている。

●伊藤千尋さん(元朝日新聞記者・ジャーナリスト)

今年、世界で最初に戦後70年を記念したのがアウシュビッツの強制収容所だ。1月27日の「ホロコースト記念日」に開かれた式で、生き残りの収容者がこう語った。「監視兵から毎日、言われた。『お前たちは門から入ったが、出られるのは煙突からだ』と」。大賞の三藤さんは、その門から書き起こし、二度と悲劇を起こさないために何ができるかを考え行動する必要性を綴った。

驚くのは、三藤さんがこの門を自ら9度もくぐったことだ。愚直と拘りを絵に描いたような行動だ。別のものを見て比較することから、新たな視点も生まれるだろう。船に乗って現在の世界の悲劇の現場を見てほしい。その深い感性なら確かなものをつかむだろう。

これに対して田中君は対照的だ。非行からボランティア、ベトナムからケニアと、まるで跳ぶように世界を回って問題意識を高め、かつ具体的な行動につなげている。何をすべきかを自分の頭で考え、自分で道を切り拓いた。ほかの子が大学受験に役立つ高校、就職に役立つ大学を目指す中で、まったく違う方向を実践した。実に清々しい。そこを買う。ときにじっと立ち止まり、もっと別の世界を、より深く経験してほしい。

応募作を読み終えての総合的な感想だが、概して文章が綺麗すぎる。このエッセイ大賞は、文学作品を求めているのではない。きらびやかなドレスではなく、現場でボロボロになったジーンズこそふさわしい。優れた文章ではなく旺盛な意欲を、スマートなエッセイストでなく額に汗をかく旅人こそ大賞に値する。それをあらためて肝に銘じてほしい。

第10回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

「Never Again という言葉にどれだけの重みがあるのだろうか」 / 三藤紫乃さん

アーチ部分に『ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)』と書かれたゲート。かつて何十万人もの人々がくぐり抜け、生きて外にでることができなかったこの門の下を多くの観光客がカメラ、ガイドの声を聞くための無線イヤホンなどを持って元収容所敷地内へと吸い込まれていく。

ここはポーランド、オシフィエンチム。ドイツ語名ではアウシュビッツと呼ばれるこの地には毎年100万人もの観光客が世界中から押し寄せる。人類史上、他に類を見ない負の歴史を見るために。私もそんな観光客の1人だ。ただ、他の観光客と違うところがあるとすれば、アウシュビッツ強制収容所訪問がこれで9回目だということだろうか。アウシュビッツにこんなに来る観光客は珍しいかもしれないが、これには理由がある。

ポーランドへの留学、という考えが浮かんだのは2013年の秋のことだった。第2次世界大戦中のホロコーストの歴史を現地で研究したいという思いが私を突き動かした。そもそものホロコーストの歴史との出会いは私が小学2年生の時にまで遡る。ハンナというあるユダヤ人の少女について書かれた「ハンナのかばん」という本がきっかけであった。同じ年頃の少女が理不尽な差別、暴力に曝され、死んでいくという物語は、8歳の私に強い衝撃を与えた。人間とはこんなにも恐ろしいことができるのかと。

この年にもう1つ私の記憶に残る出来事が起こる。9.11同時多発テロだ。それまで暴力という言葉すら知らなかった私が、人間の負の側面、暴力と迫害、差別とテロという問題に強い関心を抱くことになっていった。

小学生から中学生、高校生から大学生。私は成長し、ハンナの年齢をあっという間に追い越していった。この間私のホロコーストに関する興味関心は消えることはなく、本を読み、夏休みにアンネ・フランクをテーマにして自由研究を書き、ホロコーストに関する展示会や講演会があれば親に頼んで参加しに行った。

大学生になった私は、ディスカッションイベントを開催する学生団体に所属した。団体ではあらゆる社会問題に関して、問題提議を行い議論することができた。私が選んだテーマは共生社会。グローバル化が進んでいく中で、異なる人種、宗教、国籍を持つ人々が共生することの難しさとその課題を、ホロコーストの歴史という切り口から問いを投げかけた。

そして大学2年生になった私が持った目標がポーランドへの留学であった。ホロコーストの歴史というと、多くの人はヒトラーとドイツを思い浮かべる。しかし、ポーランドは、ホロコーストの影響を受けた広範なヨーロッパの国々の中でも被害者数、収容所数といった点から見ても被害が最も深刻な国であった。アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所(以下アウシュビッツ)があるのも実はポーランドだ。深刻な被害を被った国として、ポーランドではホロコーストの歴史はどのように捉えられているのか。現地で学びたいと思った私が選んだ道がポーランドでの1年間の留学だった。

初めてのアウシュビッツ見学はただ圧倒されるばかりだった。そこで展示される犠牲者の莫大な遺品や、拷問部屋の展示、犠牲者から刈り取られた髪の毛が生々しく、わずか70年前にその場で行われていた残酷な現実を突き付けられる。自分の気持ちを言葉にしてしまうと今見ている現実を、歴史を陳腐なものにしてしまう気がして、どう表現すればいいのかもわからないくらいだった。

そしてそれ以外のショッキングな光景にも出会った。アウシュビッツではカメラの持ち込みは禁止されていない。撮影に不適切だとされる数か所を除いて、ほとんどの場所では撮影も許可されているからだ。ガイドツアーの最中にも熱心にカメラで撮影する観光客は多い。その中には最近はやりのセルフィー用スティックを使って、収容所の建物や敷地を背景にしてポーズを決めながら写真を撮る若者もいれば、撮影が禁止されている髪の毛の展示やガス室内部でも黙々とスマートフォンで撮影を行う人々がいた。そういう人々を見て私は複雑な気持ちになった。髪の毛は遺体の一部であり、クレマトリウム(ガス室兼焼却炉)は被害者の殺害現場であり、そこで亡くなっていった人々の墓場でもある。そこでどれだけ多くの人々が悲惨な目にあったのかを想像すればシャッターを容易に押すことはできないと思う。だけれども、それができてしまう人たちがいるのも現実だ。

ここにアウシュビッツ特有の、それを見る人々の感覚を麻痺させるような特徴がある気がする。アウシュビッツの展示は、見る者の心に深い衝撃と悲しみをもたらす。既存の善悪基準では推し量ることができないあまりにも巨大な死と苦痛を前にして、私たちの感覚は麻痺してしまう。これは、アウシュビッツの収容者が、その絶望的な生活環境にさえも順応していったこととも似ているかもしれない。

ホロコーストを勉強していて恐ろしいと思うのは、自分が他人の痛みに鈍感になっていると気づくときだ。勉強すれば勉強するほど、私の感覚は麻痺し、写真に写る痩せ細った死体を見ても、以前ほど心は動揺しなくなる。犠牲者の数は数値となり、大量虐殺のシステムや構造に目を引かれ、1人ひとりの人生に目がいかなくなる。自分の勉強をはじめようと思ったきっかけであった恐怖、異常を感じなくなった時、私のナチスの生み出したホロコーストという現象に飲み込まれてしまっているような感覚に陥り、ぞっとする。もしかすると、これこそがアウシュビッツの、そしてホロコーストの本当に恐ろしいところなのかもしれない。

だから、一般の観光地にいるときと同じようにして写真撮影をする人々を見ると違和感を覚える。その人たちもアウシュビッツという場所に麻痺しているように見えるからだ。

私たちがアウシュビッツを訪問する理由は様々だ。どんな理由でも私は良いと思う。アウシュビッツという場所に行くことで、感じること、学べることが多くあり、訪れる価値がある場所だ。ただ、同時にアウシュビッツは戦争、過去の教訓を学ぶきっかけを与える場所にすぎない、というのも事実なのかもしれない。アウシュビッツに行ってもすぐに考え方が180度変わったり、自分というものが変わったりするわけではない。わずか70年前にそこで起こった事を想像し、豊かな文化を生み出し、多くの知識人を輩出したドイツという国が、なぜホロコーストのような悲劇を起こしてしまったのかを考えてみる。アウシュビッツで感じる言いようのない恐怖・違和感を言語化し、自分なりの教訓を見つける。そのプロセスがなければ、アウシュビッツに行く意味の大半はないのかもしれない。アウシュビッツで起きたことを他人事にする限り、この歴史から得られる教訓は少ない。

いやそもそも私たちが期待するほどアウシュビッツという場所は特別な場所なのだろうか。ヨーロッパ各地にかつての収容所跡が何十もある。しかしその多くは人知れず、静かに朽ちていくばかりだ。

クラクフにあるプワシュフ収容所もその1つだ。映画『シンドラーのリスト』の舞台になったことで注目されるまで、収容所跡地は戦後ずっと放置されていた。今日でも、そこがかつての収容所であったことを示すのは、それを説明する立て看板と慰霊碑、犠牲者を弔うための十字架のみである。

そのプワシュフで問題になっているのが投棄ゴミの問題だ。今日公園のようにして敷地内が解放されているプワシュフには自由に人が行き来できるようになっている。暖かい季節になると、そこでお酒を飲み、お菓子を食べて、散らかしたまま帰る人や不法投棄のゴミを置いていく人々がいる。先日参加した地元住民によるプワシュフ収容所の清掃活動では、10人弱の参加者と2時間の活動で120袋分ものゴミを集めた。かつての収容所跡地がゴミの不法投棄場所になっているという悲しむべき事実について教授に話を聞いてみると、地元住民でさえ、プワシュフがかつてどのような場所であったのかを理解している人は少ないという驚くべき答えが返ってきた。そして、ポーランド中にある多くの収容所跡地、ユダヤ人墓地で似たような出来事が起こっているということも。

規模、収容者の数こそ大きいものの、もともとはアウシュビッツもこうした収容所の中の1つにすぎなかった。今日ではホロコーストのシンボル的役割を果たし、年間100万人以上もの人々を受け入れる負の遺産としてアウシュビッツをつくりあげたのは、アウシュビッツの記憶を後世に語り継いでいかなければならない、ホロコーストの歴史を忘れてはならない、という人々の思いなのだと私は考えている。そうして、その人々の思いの根底にあるのは「こうした悲劇が二度と起こりませんように」という祈りにも似た願いだ。

けれど世界を見ると、今でも世界中で争いはやまず、偏見や差別がなくなることはない。ホロコースト、というのは600万人もの犠牲者が近代的な技術を用いられながら効率的に殺害されていった前例のないジェノサイドであった。しかし、これは決して極端な例ではない。背景にあるのは、社会に蔓延していた反ユダヤ主義やジプシー(ロマ・シンティの人々)に対する差別意識、知的障害者への無関心な態度だ。こうした偏見や差別は今なお社会の至る所に存在している。私自身の中にもあるだろう。

善悪の所在、人間の生と死、差別・偏見の根深さ、極限状態での人生の選択、近代文明の危うさ…。ホロコーストという事象から得られる教訓には限りがない。二度と悲劇を起こさないためには私に何ができるのか、口先だけの願いにとどめるのではなく、行動と考えでこれからも示していきたい。

第10回「旅と平和」エッセイ大賞 次点受賞作品

「僕らは一つ」を伝えるために / 田中昂佑さん

「死にたい。」
中学2年生の時ずっと思っていた。
引っ越しで転校したばかりの僕は、新しい環境で学ぶことにとてもわくわくしていた。転校先での新しい学校生活はどれほど楽しいのだろう、と希望にあふれていた。

ところが転校して間もなく、僕はすぐに不良に目をつけられた。理由はわからない。それから2年間暴力や暴言などのいじめを受けた。周りの人たちは、僕に近づくと自分も巻き込まれると思ったのか、誰も僕を助けてはくれなかった。常に孤独で、友達と呼べる人はいなかった。いつしかネットで「楽に死ねる方法」を検索しては、いつ死ぬか考えていた。実際は、死ぬことが怖くて、せめて自分の存在を証明するために犯罪の道に逸れて、家族や周りの人たちに迷惑をかけていた。

わかってはいても、自分が生きている事を証明するためにはその方法しかわからず、何度も同じ過ちを犯していた。
ある日、生活指導で担任の先生に呼ばれた。先生は僕の悪行には触れずに、あることを提案してきた。
「1年間保育園のボランティアをしてみないか?」
子供はあまり好きではなかったし、最初は断っていた。ところが、放課後不良に殴られるくらいなら、と先生の提案を受け入れることにした。

そうすることで、放課後彼らと会う機会も減り、殴られることもないと思ったからだ。
そして、保育園ボランティア初日。100人の園児がいる保育園へ向かった。
ボランティアの内容は「子供たちと遊ぶこと」だった。

最初は子供と鬼ごっこなんて疲れるし、やんちゃな子供は砂を投げてきて挑発してくる。
ストレス以外のなにものでもなかった。ところが、ボランティアに通うにつれて、無邪気に笑う子供た
ちやいつも将来の夢について語る子供たちに次第に惹かれるようになっていった。
「僕はウルトラマンになる!」
そんな純粋な夢を語る子供たちの姿に自然と元気をもらっていた。
「なんで死にたいなんて言ってたんだろう」
いつしか子供たちの笑顔や姿に勇気をもらっていた。

保育園ボランティアを始めて半年ほど経ったある日、担任の先生と面談があった。
いじめられるのが怖くてサボり気味だった僕に先生はたった一言こう言った。
「明日の授業には必ず来なさい」
担任は英語担当で、英語嫌いだった僕は全然行きたくはなかったけど、保育園も含め先生のおかげで何度も救われたこともあり、その日だけは行くことにした。

先生の授業が始まった。「We Are The World」のドキュメント映像を見る内容だった。当時ちょうどマイケルジャクソンが亡くなり、マイケルジャクソンの話題で世間が持ち切りだったから、この曲を教材にするのだと思っていた。
衝撃だった。世界にはこれほど苦しんでいる子供たちがいるのだ。
特にアフリカの地域は飢餓や内戦がひどく多くの子供たちが苦しんでいた。僕の通っている保育園児たちが無邪気に笑っている一方で、他の国々では生きたくても生きられない現実に涙がこぼれた。

僕はインターネットで「世界の内戦で苦しんでいる子供」を検索した。すると、ベトナム戦争で苦しんでいる子供の写真を何枚も見つけた。枯葉剤という化学兵器によって体が変形して生まれてくる子供たちの姿が映し出され、言葉にならなかった。しかもその化学兵器は日本が作ったものだという事に。この時、「日本人としてこの子たちを救わなければならない」という使命感のようなものが僕の中に芽生えた。

その日から僕は変わった。彼らを救うには意志疎通が欠かせない。ベトナム語を学ばなければならない。僕はベトナム語を学べる高校を調べ受験した。合格した日に、僕は高校3年間ベトナム語を学ぶと決意をした。幸運なことに当時、ベトナム語を学んでいる学生は僕を含め3名しかいなかった。おかげで、ベトナム人の先生とマンツーマンで授業を受けることができた。

高校2年生になり、ベトナムの高校に2週間単身短期留学をする機会を得た。そこでは、現地の高校生と、ベトナム語や日本語の学習に加え、ベトナム戦争について話し合うディスカッションの時間など貴重な経験をすることができた。しかし、ベトナム戦争で苦しむ方々と会うことはできなかった。
そこで、ベトナムの貧困地に行き、そこで暮らす子供たちと話す計画を立てた。そこに住む子供たちは何を考えているのか。日本の子供たちとどう違うのか、興味があったからだ。

貧困地域は想像を超えていた。僕が通っている保育園児と同じくらいの子供たちが物を売ったり、ゴミから使える物を拾ったりしている。それも一人二人ではない。何十人もいるのだ。そしてその子たちに笑顔はない。
「学校は?」と聞くと、「お金がないからいけないの。だからこれ買って」。
希望がない瞳で物を売る子供に本当にショックを受けた。
僕はひたすら考えた。この子たちに何ができるのかを。

それが世界共通のダンスであった。中学の担任の先生から「We Are The World」を教えていただいてから、マイケルジャクソンの歌声や世界平和のメッセージに影響を受けた僕は、密かにマイケルジャクソンのダンスを練習していたのだ。
翌日、市場で安いスピーカーを買い、再びその地域に行った。そして子供たちの前に立ち、音楽を流し、マイケルジャクソンのダンスを披露した。すると、子供たちは、「僕たちにも教えて!」と目をキラキラさせながら寄ってきた。
僕は「あれほど目に希望がなかった子供たちがこんなに輝いている!」そう思うと嬉しくなり、子供たちにダンスを教えることにした。気づいたら50人は超える子供たちに囲まれていた。
「僕のダンスでこんなに子供たちが笑顔にすることができた」

もっともっと世界中の苦しんでいる子供たちの笑顔を僕のダンスで増やしていきたい。
帰国し、高校3年生になった僕は進路について考えた。大学ではベトナム語を学習できるところはもちろん、国際的な環境で平和学を学びたいと考え、立命館アジア太平洋大学という大学に進学した。そこには80カ国を超える留学生がおり、宗教や人種問題、貧困などの平和学や開発学の分野について深く学べると思い入学することを決めた。

大学1年生になり、ベトナムで学んだことや感じたことを実践した。多くの子供たちの笑顔を増やすために、日本各地をはじめ、フィリピンのスラム街、タイの貧困地域、カンボジアの孤児院(海外NGO)、インドのマザーハウス、ケニアのスラム街を訪れ、たくさんの子供たちとダンス交流を行った。そして思った通り、多くの子供たちの笑顔を観ることができ、とても嬉しかった。そんな時、僕の人生を再び変える衝撃的な事件が起こった。

昨年2月(2014年)、僕はケニアに1ヵ月半滞在した。ケニアを選んだ理由は、「We Are The World」でアフリカの飢餓を知ったからだ。アフリカの貧困地をこの目で見たい。この人たちのために何かしたい。と考えるようになったからだ。ケニアのキラベスラムというスラム街はアフリカで2番目に大きく、安全とは言えない場所だった。僕は「子供たちが笑顔になれば、世界は平和になる」そんな風に考えていたがそこは他の国と明らかに違っていた。僕の想像を遥かに超えた貧困だった。

町は殺風景で、そこで暮らす人々の目は狼のように鋭かった。危険を感じた僕は、すぐにナイロビの中心地に移動した。そしてそこで僕はある事件に巻き込まれた。「無差別殺人事件」だ。お金を両替する目的でナイロビのビルに訪れた僕を、警備員はボディチェックした。そしてその警備員に、「どこから来たの?」と質問され、「日本だよ!」というと、「日本か!日本大好きだよ、僕たちは友達だね」と言って僕に手をかざした。ハイタッチして笑顔で挨拶し、僕は建物の中に入った。するとその直後、銃声が6発鳴り響き、大騒ぎになった。僕は頭が真っ白になり、無我夢中で建物を駆け上がった。その時「死にたくない」と心から思った。

あれだけ「死にたい」と思っていた僕が、初めて「死にたくない」と感じた瞬間だった。
そしてその後、僕は深い悲しみに陥ることになる。

ニュース速報で「無差別殺人事件、死者2名」と流された。その死者の中に先ほどハイタッチした警備員の写真が映し出された。

言葉も出なかった。受け入れられない現実がそこにあった。そして、想像した。
もし僕が少し後にそこにいたら、死んでいたのは僕かもしれない。怖くなった。明日何が起こるかわからない。今生きていることが「奇跡」なんだ。
この事件をきっかけにして、より世界平和とは何かを追求するようになった。そして、自分の経験を多くの人に伝えるべきだと感じるようになった。

この経験を通して、今までに約10カ国の国を訪れ、平和へのメッセージを込めて、マイケルジャクソンのパフォーマンスを行っている。彼は世界平和を常に訴えていたエンターテイナーであり、彼のダンスは国境も世代も超えた世界共通言語だと思うからだ。

旅をして気づいた。僕たちはみんな同じだということを。ただ生まれた場所が違うだけ。世界中のあらゆる問題を解決できる可能性はまだまだたくさんある。平和という言葉には多種多様な意味が込められているが、この多種多様な意味を持つ平和について、旅を通して追及し、彼らに何ができるのかを深く考え、自分にできる最大限のことをしていきたい。

僕を助けてくれた人がいるように、僕もその誰かになりたい。死にたいと思っていた僕に生きる希望を与えてくれた先生のように。世界で苦しんでいる子供たちの存在を教え、そのために行動すべきだと教えてくれたマイケルジャクソンのように。いつも迷惑をかけていたのに見捨てなかった両親のように。僕は彼らの家族になりたい。
犯罪でしか生きる希望を持てない子供たちに。
世界の紛争、飢餓で苦しんでいる子供たちに。
両親のいない子供たちに。
僕は伝えたい。

「僕たちは家族だよ。君は一人じゃない」
このメッセージを伝えるために僕は旅に出る。

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