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オリンピックキャンペーン
小国を排除するオリンピックとは

小国を排除するオリンピックとは

伊藤千尋(ジャーナリスト)

30年の独立戦争を経て新国家の建設に懸命な小国エリトリアのささやかな夢は、あと一歩で及ばなかった。国際社会への認知をめざしたオリンピック出場の悲願は、国際オリンピック委員会(IOC)によって退けられた。
一方で、アフリカに利害関係をもたない日本の市民が展開したピースボートのエリトリアオリンピックキャンペーンは、オリンピック史上はもちろん、エリトリア現代史にも、そして日本の市民運動にも、新たな歴史を開いた。96年夏、多くの人々が燃えた幻のオリンピックの意義を「平和の祭典」の歴史を踏まえながら語ろう。

■バルセロナの悲喜劇■
私の本棚に黄色いビニールの表紙に覆われた分厚い書類の束がある。4年前にスペインのバルセロナでオリンピックが開かれた時、独立前のバルト3国の代表団が記者会見に持ち込んだものだ。そのころ私は新聞社の支局長としてバルセロナに1年以上前から常駐し取材していた。

当時、リトアニアなど東欧のバルト3国は、旧ソ連から独立する直前だった。まだ正式な国ではないが折りにぜひ参加したいと、代表団がバルセロナを訪れ運動していたのだ。書類は、3カ国のスポーツ組織の歴史がいかに長く、国際的にも認知されているかを克明に語っていた。しかしIOCは断った。

これと対照的にIOCが喜んで受け入れたのが、旧ユーゴスラビアからの独立国だった。独立を達成したばかりのクロアチアはもちろん、そして正式には独立しておらずIOCに承認されてもいないマケドニアさえ参加を許された。侵略者とみなされ国際的な非難を浴びていたセルビアの選手も個人資格で出場できた。

そのころユーゴの内戦は世界の注目を一身に浴びていた。血で血を洗う内戦を止めさせようととして欧州諸国も国連も失敗するなか、オリンピックが文字通り平和の祭典としての役割を果たしたと、IOCのサマランチ会長は自画自賛した。記者会見場で「砲撃され穴だらけになった陸上定規場で練習した」と涙ながらに語るクロアチアの女子選手の横で、サマランチ氏はさながら平和の立役者のような顔をしてフラッシュを浴びていた。
■オリンピック貴族と金権大会■
世界的に注目されるユーゴには手厚く、崩壊目前とはいえ大国であるソ連の傘下にある小国は無視した。それは今のIOCと、オリンピック貴族と呼ばれる幹部の姿勢を極端に表している。

サマランチ会長はスペイン出身だ。独裁者フランコの政権下で同国オリンピック委員会の会長となり、フランコ崇拝を公言する。その後、ブレジネフ時代にソ連大使を務めた。その時のロシアとの関係が、バルト3国の締め出しにつながったとみられる。

1980年以来16年にも及ぶ長期政権で、サマランチ氏はIOCに独裁者として君臨している。バルセロナ大会の準備段階で設営注の競技場を取材したとき、担当者が「サマランチ氏の意向がまだ伝わらないので工事が進まない」とこぼしていた。競技場の椅子の色を何色にするかさえ、サマランチ氏の指図がなければ決まらないというのだ。このひとことに、独裁者と官僚に支配された組織委員会の構造がみて取れる。今のオリンピックを規定するのはオリンピック憲章ではなく、独裁者の一言だ。

オリンピックが堕落したのは、彼の時代である。かつては聖なるスポーツの祭典として厳格なアマチュアリズムが守られていたが、1984年のロサンゼルス大会から本格的な商業主義に陥り、金権オリンピックと皮肉られるようなった。サマランチ氏が会長に就任し権力を確立した段階での最初の大会だ。それから12年を経て同じアメリカで行われた大会で起きたエリトリア門前払いは、商業第一主義の必然の結果を示したように思える。

今やオリンピックは選手にとって金儲けのチャンスになるが、幹部にとっては濡れ手に粟の稼ぎ場である。次期大会の主催場所に立候補する市の代表団が巨額の金を手にIOC委員を個別に訪ねることは、スポーツ関係者の常識となっている。一般の選手が目指すのは金メダルだが、幹部の多くは金(カネ)とメダル(勲章)の亡者になった。

1200年にわたって続いたギリシャの古代オリンピックで、勝者に与えられたのは名誉だけだった。勝者は、才能を授けられたことを神に愛されたと解釈して感激したのである。その古代オリンピックの堕落も、優勝者に法外な賞金が与えられるようになったことから始まった。
■復興とオリンピック■
アマチュアリズムの権化と言われたプランテージ元IOC会長がアマチュアの好例としてあげたのが、東京大会で優勝した日本の女子バレーチームである。東洋の魔女と呼ばれた彼女たちは仕事を負えてから練習し、ソ連国策チームを破った。その1964年私は中学生だった。中間試験のさなかだったが、試験勉強どころではなく、テレビにかじりついていた。日本の国際的な地位が認められたことを、子ども心にも興奮して感じとっていた。

戦争でがれきの山となった日本の復興を早めたのはスポーツだった。占領軍のマッカーサー司令官は、ブランデージ氏の前の米国オリンピック委員会の会長だった。日本が戦後初めて参加した国際競技会は1949年ロサンゼルスの全米水泳選手権大会だったが、ここで日本はアメリカ勢を押さえてリレーに優勝し、3種目でベスト3を独占した。体格の勝るアメリカ人に勝てたことが敗戦で打ちひしがれた日本人をどんなに勇気づけたことか。

今回、エリトリアがオリンピック参加を求めたのも、こうした世界各国の先例があったからこそである。独立を果たしたものの国際的には無名の小国にとって、オリンピックは国際社会へのデビューの舞台となるのだ。

それを持ちかけたのが日本の市民団体だったということは、世界にも稀な出来事である。利害もなにもない人々が呼びかけ人となって宣伝し、エリトリアなど初めて聞く人が大切な金を寄付し、言葉や習慣の違いにかまわず選手を自宅に泊めた。国際交流とはこういうものだという見本を示したと誇ってもいい。今回、アジアとアフリカに橋を架けた日本の市民は、4年後のシドニー大会で豪州をもつなぐ壮大な三角の「明日に架ける橋」を設計したのだ。

私自身、今回のエリトリアオリンピックキャンペーンの責任パートナーとなったが、この世にも珍しい運動を見ながら思い出す風景があった。かつて中南米特派員をしていた当時、軍事独裁者の支配下にあった南米チリのスラムの貧しい小屋の軒先に、チリの国旗が翻っていた。住民たちは旗を掲げる理由を、こう説明した。「国旗を掲げるのは軍政に対する抗議の意思表示です。チリ国旗は正当な民主体制の下で翻るべきだと、チリ国民は考えている」と。

同じことがエリトリアについて言えるだろう。日本の市民は今回「オリンピックは本来、平和と友好のために普通の市民が力を出し合うものである」ということを身をもって示した、といえるだろう。

西暦2000年の大会には、エリトリアが出場する。今から4年後、オリーブの国旗を先頭に彼らが入場行進する姿を、今から楽しみにしていよう。/伊藤千尋(ジャーナリスト)


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