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オリンピックキャンペーン
エリトリア真夏の挑戦

「エリトリアのサイクリストは、かつて何度となくオリンピックに参加した。ただし、エチオピア人としてだった。」エリトリアオリンピック委員会事務局長グルマイ・ハドク氏の言葉である。「エチオピアから独立を達成した今、エリトリア人として五輪に出場したいと申し出た。するとダメだという。エチオピア人としてなら出場できて、どうしてエリトリア人ではダメなのか!」

成田で、東京で、修善寺で、そしてまたアトランタで、テレビカメラと世界各国のジャーナリストを前に彼は繰り返し訴えた。「どうしてエリトリア人ではダメなのか!」
エリトリア真夏の挑戦

吉岡達也(ビースボートスタッフ/ジャーナリスト)

1996年、夏。世界をにぎわしたアトランタ五輪は、近代オリンピック100周年という節目の大会でもあった。この大会に唯一参加できなかった独立国がアフリカの小国エリトリア。ピースボートではこの小国が記念するべきオリンピックに参加できるようにとのキャンペーンをはり、最後の最後までサポートを呼びかけた。このキャンペーンの一部始終を描き出したのがこの一文である。著者は1983年以来のピースボートスタッフであり、かつ旧ユーゴ内戦などを取材してきた実績を持つジャーナリストでもある吉岡達也。エリトリアという3年前に独立したばかりの国が、国際舞台を目指した大いなる挑戦の物語である。
1.オリンピックに参加するの?
2.とにかくエリトリアへ
3.大統領の指示
4.街頭募金は一日数百円
5.「原点」からの挑戦
6.サレ大臣の作戦

7.史上初の代表選考レース
8.「参加までノックしつづける」
9.不公平な国際社会
10.日本で練習開始
11.パンク寸前の電話回線
12.最大の危機到来

13.アトランタでアピール開始
14.踏みにじられた希望
15.IOCの官僚体質
16.「話し合う必要はない」
17エリトリア人コミュニティとの出会い
18.「レインボー」への朗報

19.入場料は800ドル
20.歓喜に包まれた到着ゲート
21.観客席の選手団
22.「どうしてサラエボだけなんだ!」
23.抗議行動も辞さず
24.サマランチと会見?!

25.ワイルドカードも絶望
26.「IOC会長は別格だ」
27.十文字選手の活躍
28.「カーター外交」との遭遇
29.99%の断念

30.フェリ氏との対決
31.疑惑と豹変
32.シドニーの「切り札」
33.「スゴイ」決勝レース
34.がんばれエリトリア!
<オリンピックまであと4ヶ月>
オリンピックに参加するの?
話は三月初旬の奇妙な1日から始まる。その日、まずは某テレビ局の女性スタッフから、続いて某新聞社の男性編集員から全く同じ内容の電話がピースボートの事務所に立て続けにかかってきた。「エリトリアはオリンピックに参加するんですか?」それが2人の用件だった。各社ともそろそろ7月のオリンピックネタを探し始める時期だとはいえ、超マイナーといっていいアフリカの小国エリトリアについて、同じ日にマスコミから2件も問い合わせがあるというのはやはり珍しい。この2本の電話はアトランタ五輪参加がエリトリアにとってオリンピック初参加となる、という当たり前の事実を改めて気付かせてくれるきっかけとなった。

その翌日、昨年ピースボートが訪問する準備を引受けてくれたエリトリア青年学生同盟の議長に電話でオリンピックのことを問い合わせてみた。その祖父が独立戦争の英雄で、左利きの射撃の名手だったことからシェンゲップ=左利き、とのあだ名で呼ばれるこの議長の回答は「参加を希望してたようだが、財政問題で断念したときいている」。いつになく力ない声だった。

何とかならないものか、そう思った。しかし、まだその時は具体的な行動にはつながってこなかった。原因の一つは、オリンピックの敷居の高さということだったように思う。オリンピックはスーパーマン、スーパーウーマンのテレビショーである。少なくとも東京オリンピックの後に物心のついた私たちにとってはそうだ。超人たちがブラウン管の中でひしめき合うオリンピック、しかもそのオリンピックへの一国家の参加問題。私たちのしゃしゃり出る幕ではない。そんな風にどこかで思い込んでいた。

そんな折りもおり、この話を聞いたピースボートの水先案内人(講師兼顧問)をお願いしている伊藤千尋氏から電話がかかってきた。「問題は金だけか?もしそうなら日本で支援キャンペーンをやって金を集めようじゃないか。俺も協力する。」これは面白いと思った。私たちの頑張りいかんで、アフリカで一番若い国エリトリアの国旗がアトランタの近代オリンピック100周年記念オープニングセレモニーで翻り、私たちを歓迎してくれた人たちの代表が胸を張ってスタジアムを行進できるかもしれない。そう思うとワクワクしてきた。
<オリンピックまであと3ヶ月>
とにかくエリトリアへ
他人の私たちでさえこれだけ興奮するのだから、エリトリアの人にしてみればなおさらだろう。現代史上、類を見ない過酷な内戦に30年という歳月を費やし、やっとの思いで勝ち取った独立である。その独立が、祖国エリトリアが100周年オリンピックという願ってもない晴れ舞台で全世界に注目される。そして自分たちの代表が、ついにエチオピア人としてではなく、エリトリア人としてその舞台に立つのである。こんなにも誇らしく、こんなにも素晴らしい祝福はほかにはあるだろうか。特に、戦後の廃虚で国土の再建を目指し、必死の思いで日々を生きている今だからこそなおさらだろう。

ふと、よく両親から聞かされた「フジヤマの飛び魚」こと水泳の古橋選手の活躍の話を思い出した。日本も50年前は廃虚だったのだ。そこで私たちの父母は必死に生き抜き、自らの家庭を新しい社会を作り上げていったのだ。そんな時、世界の桧舞台での同胞の活躍は、どれほど彼らを勇気づけたことだろう。だからこそ「フジヤマの飛び魚」の名は、オリンピックの度に語り継がれていくのである。

「一肌脱ごうじゃないか!」そんな声が事務所中で挙がり出し、その勢いがオリンピックの敷居を一気に越えた。あれよあれよという間に、オリンピックキャンペーンらしきものが結成された。こうなってくると、善は急げである。現地へ行って、具体的にどんな問題があるのか、お金だけの問題なのか、どれくらいの額が必要なのかなどを調査することになった。エリトリア川に打診したところ、ぜひ来てくれとの回答。そこで、とにかく当たって砕けろの思い出、すぐさまエリトリア担当の私とスタッフの石館君とで現地へ飛んだ。
<オリンピックまであと3ヶ月>
大統領の指示
首都アスマラで、帰国中の在日エリトリア人女性、ネジャット・シャノニさんが合流し、エリトリアの関係機関との打ち合わせが始まった。当初は財政上の問題点を聞き、援助金額を決めれば、あとは日本で基金を募るために必要な情報、例えば参加種目や、代表選手のプロフィールなどを聞いて帰ればいいだろうとタカをくくっていたのだが、滞在2日目あたりになってコトはそんなに単純ではないことが明らかになった。

参加手続きが遅れており、IOC(国際オリンピック委員会)からの参加承認がまだ出ていなかったのである。オリンピック参加問題の担当者である教育省スポーツ委員会委員長IOCとの交渉状況をに聞くと、昨年の11月以来連絡をとっていないという。どうしてもっと積極的に交渉しないのかと聞くと、参加を認められても、選手の渡航費用を用意できるかわからないからだという。「では、もしお金を私たちが支援すれば、参加できる可能性はあるのですか?」と核心に迫る問いを投げかけたのだが、委員長の口からは「時間的に厳しいかもしれないし、今はなんともいえない」との返事しか返ってこなかった。「これは駄目か…」私たちの間にも諦らめムードが広がった。

ところがである。その2日後、青年同盟から朗報が入ってきた。シェンゲップ議長が副外務大臣を通じて、イサイアス・アエルキ大統領にピースボートの提案を伝えたところ、大統領は非常に興味を持ち、ピースボートと協力してアトランタ五輪への参加に全力をあげるようとの指示を出したというのである。突然、大統領の指示が出たと言われても、初めは半信半疑の心持ちだった。しかし、翌日にオリンピック参加問題の最高責任者、オスマン・サレ教育大臣との面会がかない、彼から力のこもった握手とともに次の言葉を聞いたとき、初めてエリトリア政府が本気になったことを確信した。「アトランタ五輪は普通のオリンピックではありません。100周年という歴史的な大会です。我が国の初参加を、もしこの記念すべき大会で実現することができれば、これは国民への大きな勇気づけとなるに違いありません。ご支援よろしくお願いします。」

彼との話合いによって、参加種目は国民的スポーツである自転車競技に絞ること、必要最少人数の代表選手と役員をアトランタに送ること、オリンピック前に選手を日本に招待しトレーニングを行うこと、これらの計画にかかる全ての費用はピースボートが基金で集め、責任を持って支援することなどを取り決めた。またIOCに対しては、時間的な状況もあるので、自転車競技のみの暫定参加という形で、再度、エリトリア政府から参加要請することになった。予想外に厳しい状況だが、とにかくスタートをきることを決めて、私たちはいったん帰国した。
<オリンピックまであと2ヶ月>
街頭募金は1日数百円
帰国後、私たちは正式にエリトリアオリンピックキャンペーンを立ち上げ、記者会見を行って発表した。すでに、ピースボートのスタッフやその友人たち約20名が有志の「オリンピック責任パートナー」として名乗りを挙げており、総額500万円を目標に募金活動を始めていた。このオリンピック責任パートナーは、もしも募金が目標額に満たなかったり、募金よりも経費が多くかかってしまった場合は、その赤字分を頭割りで負担することを誓いあった仲間である。傍目から見るとかなり物好きな集団だったかもしれない。しかし、アフリカで最も若く、無名の国のオリンピック初参加を助っ人するという、歴史的かつ人道的かつ面白そうな手作りキャンペーンに、私たちは十分魅了されていたのである。

それからというもの新宿駅東口での募金活動から、エリトリアの象徴ともいえるラクダが自転車に乗っているマスコットキャラクター「チャメルくん」の作成(菊田さん)、エリトリアオリンピック委員会のロゴ考案(品田さん)、それにコーチや練習場所探し、競技用自転車やユニフォームを提供してくれる団体や企業探し等に大忙しの毎日となった。

しかし、キャンペーン開始当初の熱気もつかの間。1週間も経つと「ホンマにお金集まるかな…」という不安げな声がちらほら出始めた。街頭募金は頑張っても1日数百円という低調ぶり。阪神大震災のときに街頭に立ったスタッフからも「あの時とはえらいちがいや」とお手上げの状態。さらに期待していたマスコミの報道もIOCの承認がネックとなってなかなか取り上げてくれない。「国の知名度ゼロやもん。ロシアの隣?とかブラジルの下?とか聞かれるし」。「だからこそ、世界中の人にエリトリアを知ってもらうために、オリンピック初参加を応援する意味があるわけで…。」「…わかってるけど、キツイ。」ついにはそんな会話が日常茶飯事となり、事務所の雰囲気もどん底状態を迎えつつあったころ、追い討ちをかけるようにオスマン・サレ教育大臣より悪い知らせが入ってきた。「IOCとの交渉が難航している。」

一瞬耳を疑った。というのも地球一周クルーズを通じて知合ったギリシャや米国のオリンピック関係者に聞いたところ、「手続上、少々問題があってもエリトリア政府が参加に積極的な態度を見せれば、まず問題はないだろう。2000年のシドニーに向けて会長再選を目指すサマランチ現会長にとっては、初参加国の増加がもっともアピールしやすい功績になるからだ」との分析だったからだ。

ところが、4月下旬に正式に要請したにもかかわらず「暫定参加の承認は困難」との回答がIOCからあったという。しかも、サレ大臣に対する対応が相当に無礼だったらしく、日頃は穏和な彼がこの日ばかりは別人のように感情的になっていた。「私が要請を送ってからすでに3週間。今頃になってダメだとはどういうことか!しかも、解決案を話し合いたいとサマランチ会長あてに電話を何回しても、会議中、会議中の一点ばり。あげくの果ては、たった今、海外出張に出かけたので当分戻らないという。人をバカにするにもほどがある。」
<オリンピックまであと2ヶ月>
「原点」からの挑戦
IOCの主張は、とにかくオリンピック憲章の条件を全て満たせということである。特に、国際的スポーツ連盟に加盟している国内スポーツ連盟が5つ以上存在することという条件(「5つ」と規定しているのは、膨大な憲章の中の、カッコに括られた一文にすぎないのだが)に固執しているという。一方エリトリア側は以下の状況を考慮し、暫定参加をの承認をIOCに訴えていた。

◆1、自転車競技に関してはすでに国際自転車競技連盟(UCI)に加盟しており、また今回は自転車競技のみの参加にしぼっている。参加選手の希望人数も最小規模の1人、または2人である。

◆2、自転車競技はエリトリアの伝統的スポーツであり、そのレベルも高い。オリンピックにもエチオピア選手として、メルボルン以来7回にわたって参加している。

◆3、エリトリア自転車競技連盟(UCI)に続き、残り4つの国内スポーツ連盟設立もほぼめどが立っている。しかし、30年間の戦争による国土の破壊はすさまじく、スポーツ施設の再建も努力はしているが、ままならない。そんな中で、IOCの積極的協力なしに、それら5つの国内スポーツ連盟をすべて国際スポーツ連盟に加盟させることは困難である。

◆4、バルセロナでは内戦中の旧ユーゴや、国連で独立を承認されていないマケドニアが参加。アトランタでは暫定自治状態にパレスチナが参加を承認されている。一方、エリトリアは内戦も完全に終結しており、国連に承認されている独立国である。そして現在、アトランタ五輪に参加を認められていない唯一の国連参加国でもある。

◆5、オリンピック参加はエリトリアが真なる平和を達成し、立派に国際社会の一員となったことを国民に実感させ、戦後の荒廃の中で国土再建に努力する彼らに大きな勇気を与える意義がある。このことはまさに、戦禍からからの復興を援助し、人種、民族を超えた友情を育み、世界平和の達成を目指す、オリンピックの基本概念と合致する。

◆6、100周年を迎える近代オリンピックの祖、クーベルタン男爵が示した「参加することに意義がある」という根本精神に立ち戻れば、たとえたった1人の選手の暫定参加であっても、その意義は非常に大きい。

こうしてエリトリアの主張を改めて列挙してみると、どうして参加が認められなかったのか、いまだに不思議でならない。やはりどこかで基本理念が忘れ去られ、官僚的な運営が支配するビジネスに成り下がってしまっているのではないかと思いたくなる。その意味では、エリトリアの挑戦は、オリンピックの「原点」によるオリンピックの「現在」に対する挑戦だったわけだ。
<オリンピックまであと2ヶ月>
サレ大臣の作戦
「侮辱されたまま引き下がるわけにはいかない」とサレ大臣は再び落ち着きを取り戻して言葉を続け、「私たちはまだまだ諦らめない。ぜひ、引き続き支援をお願いしたい。また、IOCとの交渉についても何か役に立つ情報や提案があればいつでも知らせて欲しい」と決意を新たにして電話を切った。その後、IOCの内情に詳しいジャーナリストやスポーツ関係者から情報を集め、数回にわたる電話やFAXでのサレ大臣との打ち合わせを重ね、以下のような計画を立てた。

まず、5つの国内スポーツ連盟を至急設立し、それらを加盟団体としたエリトリアオリンピック委員会を設立する。そして、IOCの対応にかかわらず、予定通りにオリンピック代表選考レースを開催し、2人の代表選手を選抜して日本でのトレーニングを開始する。さらに、オリンピック委員会の代表を選手とともに東京経由でアトランタへ送り、東京やアトランタでオリンピック参加承認を世論やIOCに訴え続ける、というものである。

この戦略のキーポイントは、エリトリアオリンピック委員会の設立にあった。IOCは今回のアトランタ五輪の目玉を「100周年」とともに「世界に197あるNOC(各国オリンピック委員会)が一つ残らず参加する」という点においている。そこで、サレ大臣と私たちは、エリトリアオリンピック委員会ができれば198番目のNOCとなり、「全NOCの参加」が崩れる。そうなれば、IOCも無視できなくなるだろう、と考えたのである。
<オリンピックまであと33日>
史上初の代表選考レース
エリトリアの首都アスマラで第一次オリンピック代表選手選考レースが行われたのは、6月16日。この日に合わせてニュースステーション(テレビ朝日)の取材チームとともに現地入りしていた私は、この国にとっての歴史的瞬間を目の当たりにすることになる。レースには日曜日ということ、そして何よりもエリトリア史上初めてのオリンピック代表を選ぶ自転車レースということで、はだしの子供たちから、車椅子の元ゲリラ戦士まで、町中の人という人が集まってきたような騒ぎだった。レースは町の一角を通行止めにして作った、一周1.2kmのデコボコ急造サーキットを約3時間にわたり100周回るという過酷なもの。天候も時々小雨が降るというコンディションだったが、国民的英雄ヨナス・ザカリアス選手が最後の競い合いを制して、トップをものにした。

6月18日第二次選考レースは、アスマラと郊外の町マンダフェラを往復する120kmのロードレース。終盤のモングダ峠(牛のこぶの意)の上りが明暗を分けるといい、過去にも多くの名勝負を生み出してきたコースでもある。早朝、30名を越えるレーサーたちが最後のチャンスをめぐって、スタートを切った。前半の60km折り返し地点までは、大きな波乱もなくレースは展開した。ところが後半になって、大方のファンの予想を裏切り、ヨナス・ザカリアス選手を含む人気選手たちが脱落。なんとレース前は下馬評にさえあがらなかった、ダークホース中のダークホース、ベレケット・ゼレ選手に勝利の女神は微笑んだのである。
<オリンピックまであと29日>
参加までノックしつづける
選考レースの後、大統領執務室において、イサイヤス大統領との会見の機会を得た。長身でハンサム、エリトリアを独立に導いたリーダーとして絶大な人気がある彼は、慎重に言葉を選びながら「オリンピックへの挑戦」の意味を語ってくれた。「今、私たちにとって最も重要なことは、独立を自力で達成した祖国エリトリアが国際社会の一員であるということを、世界中の人々に認識してもらい、同時に、私たち自身がそのことを実感することです。その意味で100周年という記念すべきオリンピックに初参加する意義は非常に大きい。残念ながらIOCにはまだ承認されてないようだが、あきらめず要請を続けていくつもりだ。30年の独立戦争を戦い抜き、勝利を得ることができたのは、最後まで諦らめなかったからだ。オリンピックの扉が開くまで私たちは辛抱強くノックし続けます。」

東京オリンピックにエチオピアの選手として出場したヤマネ・ナガシ氏(ニュースステーションにも出演)にも会った。彼は、その後メキシコオリンピックにも出場したが、内戦の激化とともに、独立闘争支援の地下組織に参加。そして、2回にわたる投獄と拘留中の拷問によって選手生命を絶たれたという。「東京では一生懸命に走ったが、エチオピアの旗を付けて走っていることを思い出すと胸が締め付けられるような気がした。結果なんかどうでもいいとさえ思った。しかし、常に思い直して、自分の心の中にあるエリトリア人としての誇りのために必死で走った。私の経験はけっして楽しいものではない。今の若者には、何のためらいもなくエリトリア人としてオリンピックで走ってもらいたいと思う。もし、今回その夢がアトランタでかなえば、こんな嬉しいことはない。」そう言った彼の目に、ふと涙が浮かんだ。それは不本意な国旗の下に走らざるをえなかった自らの無念と同時に、独立を見ずしてして戦死した2人の弟のことを思い出したからのように思えた。最後に彼は「しかし、日本での思い出は私の人生で最高の思い出だ。日本の人々の優しさと親切は決して忘れない」と付け加えてくれた。

C日後には、バレーボール、バスケットボール、陸上競技、サッカー、そして自転車競技の5つの国内スポーツ委員会がそろい、代表者たちが数回にわたるミーティングをもった。そして、ついにエリトリアオリンピック委員会(ENOC)が発足。事務局長には13年もの間、山岳地帯で独立闘争を戦ってきた闘士、グルマイ・ハドク氏が就任した。6月25日、選考レースを勝ち抜いたヨナスとべケレットの代表選手2人、そしてグルマイ事務局長と私は、日本へと飛び立ったのである。
<オリンピックまであと22日>
不公平な国際社会
「私たちは198番目のNOC、エリトリアオリンピック委員会を設立しました。」東京、高田馬場ピースボート事務局で開いた記者会見の席上、グルマイ事務局長は、日本の記者たちを前に、誇らしげにそのニュースを告げた。しかし、そのかたわらで彼の横顔を眺めていた私は、つくづく国際社会は不公平にできていると感じざるをえなかった。例えば、まがりなりにも東京には、ロイターやCNNやUPIといった国際メディアが存在していて、情報を提供したければたった160円かそこらの地下鉄代だけでその支局に足を運ぶことができる。ワシントンDCやジュネーブならさらにお手軽に世界各国のマスメディアとアクセスすることができる。それに引き換え、アスマラで国際的メディアといえば、唯一の英字新聞「エリトリアンプロファイル」のみ。この新聞さえアスマラ市内に数軒しかない外国人用ホテルで販売されているだけである。

電話で海外のメディアにパブリシティをしようにも国際電話代の負担は彼らにとって大きすぎる。私もIOCとの連絡が途切れていると聞いたときに「どうしてもっと頻繁に連絡を取らないのか」とグルマイ氏に尋ねたことがある。しかし、彼の回答を聞いてエリトリアの置かれている状況を考えない質問だったとすぐに後悔した。「エリトリア人1人当りの平均月収50ドル以下。IOC本部(スイス)に1本電話をかけるだけで、1人分の月収が飛ぶことになる」そして彼は続けてこう言った。「IOCの人たちにはその辺の私たちの状況が分かっているのだろうか」。
<オリンピックまであと22日>
日本で練習開始
ヨナス選手、ベレケット選手の日本での練習は、多くの人々の暖かい支援のおかげで順調に行うことができた。早朝から深夜までつきっきりで通訳、ガイド、ドライバーをこなしたピースボートボランティアスタッフ、1kmタイムトライアルの全日本アマチュアチャンピオン塩原正長選手によるボランティアコーチや、日本サイクルスポーツセンターからの練習施設の提供、ホテルラフォーレ修善寺からの宿泊施設の提供、松下電器産業からの競技用自転車の提供、ホームステイ先の保育園「空飛ぶ三輪車」の子供たちお母さんたちの暖かいおもてなし。合宿生活から練習メニュー作り、日々のトレーニングと全面協力してくれた早稲田大学自転車競走部。数え上げればきりがないほどの人々の応援を受けて、たった3人のオリンピック選手団は参加未承認のなか、練習に励んだ。

最初は言葉、食事、気候など問題だらけだった。例えば、エリトリアではエビを食べない。ほとんどの人は見たこともない。ところが、ベレケットがレストランでエビピラフを注文。出てきたエビを指差して「これは何という虫?」と聞いたという爆笑場面もあった。しかし、驚くほど急速に日本に順応していった彼らは、最後には早大生たちと朝食に納豆を頬張るほどになっていた。
<オリンピックまであと10日>
パンク寸前の電話回線
相変わらず大問題だったのはキャンペーン基金である。7月5日の時点でまだ90万円ほどしか集まっていなかったのである。既にかなり予算をオーバーしていたので、このままいけば最低でも600万円の赤字。責任パートナーの30人で1人当り20万円以上の負担を負わなければならない計算だった(この時点で選手団の来日渡航費のために既に1人当り6万円を持ち出していた)。「もうみんなで新聞配達するしかないね」と半ば本気で言い出していたころ、奇跡が起こった。ニュースステーション(テレビ朝日系)での報道である。

久米さんが電話番号を紹介した瞬間から嬉しい悲鳴ははじまった。事務所にあった電話は6回線。そのすべてが鳴りっぱなしの状態。ちょうど番組を見るために事務所にいたヨナス選手、ベレケット選手もしきりに「グレイト!グレイト!」を連発。グルマイ氏に至っては「私も電話に出てお礼を言う」と言い出すほどだった。NTTの数字をもとに計算すると、この2日間で延べ5万人の方々がダイヤルしていただいたことになる。しかし、回線の限界で2000人分しか受け取ることができなかった。おそらく、何度もかけていだたきながら、いつも話し中だった方も多くおられたにちがいない。まことに申し訳なく感じると同時に、私たちは本当に幸福者だと思う。改めてここに、ご支援いただいた方々に感謝の意を表したい。
<オリンピックまであと10日>
最大の危機到来
事魔多し。以上のようなトレーニングやキャンペーン基金の成功を嘲笑うかのように最大の難問、同時にキャンペーンの最大の危機が予期せぬ所に潜んでいた。アメリカへの入国ビザ問題である。IOC本部とエリトリア本国との交渉は続いていたが、既に主立った役員たちはアトランタ入りしているため、とにかく現地入りして、エリトリアオリンピック委員会の代表が直接交渉するのがベストだろうというのが知人の五輪関係者の一致した意見だった。参加へのタイムリミットは迫っていたが、いずれにしても参加承認はオリンピック開会の10日前から始まるIOC総会の決定を経なければならない。バルセロナでのマケドニアなど開幕一週間をきってから承認された前例もある。働きかけいかんによっては、まだまだ参加の余地は残されていた。

そんな矢先、駐日米国大使館が、彼らの米国入国ビザは発給できないと言ってきたのである。ビザを発給しない理由は、IOCの未承認にあるという。「いや、IOCに認めてもらうためにビザが必要なのだ」と説明しても、まったく取り合おうともしない。「これは何かの間違いだ。既に一週間前にサレ・エリトリア教育大臣が駐エリトリア米国領事館からビザ発給のOKをもらっている」と食い下がった。しかし、そっけなく「連絡が来ていない」との回答。すぐさまエリトリアのサレ大臣に連絡を取ったが、間違いなくOKをもらっているという。「もらってる」「連絡がない」「もらっている」「連絡がない」「もらっている」……こんなやりとりが三日三晩続いたが、結論は出なかった。その間にはっきりしたことは、選手団のアメリカ入国問題は状況が大きく変わって大使館レベルを越え、アメリカ国務省の決定事項になっていたということだった。予定していたアトランタへの出発予定日7月7日は2日後。時間がない。すぐさま駐米エリトリア大使が米国国務省と直接交渉を開始した。だが、その回答もなかなかこない。ついに7日を迎えたが、結局ビザは下りなかった。

翌8日、サレ大臣との協議の上、とにかくピースボートのメンバーだけでもアトランタへ入り、現地で参加承認問題とビザ問題の交渉を始めるべきだということになった。「こうなったからには、エリトリアオリンピック委員会の代表として頑張ってきてほしい」サレ大臣の激励を受け、10日私は単身アトランタへ飛んだ。
<オリンピックまであと9日>
アトランタでアピール開始
アトランタ入りしてまず驚いたことは、セキュリティーチェックの厳しさである。とにかくIOC発行の顔写真にバーコードのついた身分証明書なしにはどこにも入れない。IOCが本部としていたマリオットマーキーホテル、それにプレスセンターなどマスコミ関係の建物は、ほとんど刑務所なみと言っていいほど出入りの際には徹底的なチェックを受ける。しかも、身分証明書の発行枚数は割り当て制で、たとえ大手のマスコミの記者でも割り当てにもれた場合、プレスセンターにも入れず、町角取材をするしかない仕組みになっていた。そんな状況の中で、何の身分保障もなく、IOCとマスコミに接触するという任務は、実際のところ困難を極めた。

まずは、アトランタ五輪組織委員会共同議長アンドリュー・ヤング氏との面会に挑戦。ニューヨークの著名な平和活動家でピースボートのサポーターでもあるコーラ・ワイズ氏から紹介されていたのだが、前アトランタ市長かつ前国連大使だったヤング氏は全米レベルの超有名人。自身も黒人で、人種差別には厳しく、アフリカ各国の支援にも熱心と聞いていたのだが、さすがに超多忙で秘書のブロックは堅く、30回以上電話をして、事務所にも直接5回訪ねたが、その度に慇懃に面会を断られた。

同時に、挑戦したのが田英夫参議院議員から紹介されていたIOC委員の猪谷千春氏。もう、当たって砕けろ!の気持ちで連絡を取ってみたところ、委員として多忙なスケジュールの中だったにもかかわらず、面会OK。これまでの経緯、エリトリア初参加の意義などを伝え、協力をお願いしたところ、なんとIOCの担当者に直接話を聞いてもらえることになった。

一方、マスコミへはアトランタ入りするや否や、片っ端からFAXを送りまくった。内容は「198番目のNOC、エリトリアオリンピック委員会設立。米国のビザがおりないため初参加が危うい」。毎日10枚以上送っていたので、ホテルの係りの人も顔なじみになり、ボランティアでアフリカの国の参加を支援してるんだと説明すると、FAX料金を時々サービスしてくれたりした。CNNや、ロイターTV、トランスワールドスポーツなどが強い興味を示してくれた。しかし、なにぶん日本人の私一人。「エリトリアの初参加を」といくら騒いでも絵にならない。やはり是が非でも入国ビザを勝ち取って一刻も早くエリトリア選手団にアトランタ入りをしてもらうしかない、そんな気持ちが日に日に高まっていく。しかし、現実は厳しかった。
<オリンピックまであと7日>
踏みにじられた希望
米国国務省から、駐米エリトリア大使宛に「IOCとの交渉が入国目的ではビザ発行は不可能」との回答がはいったのである。理由はIOCが交渉の必要なしと言っているからだと言う。このIOCの態度には正直驚いた。しかし、驚いたと同時に腹が立ってきた。「交渉の必要なし」とはどういうことなのか。3年前の独立とはいえ、エリトリアはれっきとした国連加盟の独立国である。その一国の大臣が公式にオリンピック参加を要請し、話合ために代表をアトランタへ送ろうとしているのである。どうして一方的に「交渉の必要なし」などと言うことができるのか。だいたい、IOCはNOCの集まりにすぎないのである。NOCこそが主体であり、参加する選手こそが主役なのである。なぜ話し合いさえも拒否するのか。

米国も米国である。たとえ交渉が決裂し参加できなかったとしても、エリトリアの選手たちがアトランタにきて、オリンピックの雰囲気と興奮を感じ取り、世界各国の一流選手たちの姿から多くを学び、ふれあいから友情が育まれていけば、これこそまさに開催国の誉れではないか。物見遊山でアトランタへ行こうとしているのではない、国民の期待を一身に背負い、エリトリア史上に残るオリンピック10周年記念大会への初参加という偉業を達成するため、その最後の要請に行こうとしているのである。なのになぜその希望を踏みにじるようなことをするのか。
<オリンピックまであと7日>
IOCの官僚体質
理不尽な通告に起こっている矢先、今度は先の猪谷千春氏から、IOC理事会でエリトリア参加承認は今回見送りとなり、総会でこの件は議題とはされない可能性が高いとの連絡が入った。とにもかくにも、このまま待っていればいずれにしてもタイムアウトである。一か八かの思いで、エリトリア参加問題の担当役員ギルバート・フェリ氏に直接コンタクトを試みた。余談だが、IOCに電話をかけてみて、オリンピックがいかに官僚的なシステムの中で行われているのかは、いやというほど知ることができた。かけた回数20回以上。回りまわって同じ部署に回されたこと5回。日本の役所が天国に思えたほどである。朝から電話の前で丸一日このたらい回しゲームに費やし、フェリ氏と電話がつながった時には日が沈みかけていた。

「エリトリアのことでお会いしたいのだが」。「忙しいでの無理だ」。「参加問題にかかわる重大な用件なのでぜひお会いしたい」。「その問題はエリトリア当局と交渉している。第三者に会う必要はない」。「私たちは日本でエリトリアのオリンピック参加を支援してる。ところがまだIOCからの参加が承認されてないと聞き心配している。しかも、米国ビザが出ないために、選手団はいまだ日本で足止めされている。エリトリアの代表と話合うと言うのならば、ビザ発行を求めるレターを米国国務省に送って欲しい」。しばらくの沈黙の後、フェリ氏はビザ問題には答えず、明朝6時30分なら面会可能と言って一方的に電話を切った。
<オリンピックまであと5日>
「話合う必要はない」
約束どうり、早朝6時30分にIOC事務局のあるマリオットマーキーホテル10階に着いた。少し遅れて彼はやってきた。昨日と同様、フランス語なまりの英語を早口でしゃべりだした。「エリトリアの参加問題はエリトリアのスポーツ関係者と話し合っている。日本人のあなたには関係のない問題だ」。昨日と同じことを繰り返した。「では、米国国務省に対して、エリトリア代表にビザがおりるよう働きかけて欲しい」。それは米国政府の問題で「私たちの関知する問題ではない」。「米国政府はIOCがエリトリアと交渉しないと言っているから、ビザを出せないと言っている」。「エリトリアには全ての情報を送っている。今話し合う必要はない。あとは彼らが参加条件を満たす努力をすればいいだけだ」。

寂しい気持ちに私はなった。フェリ氏の名前はサレ大臣からの手紙で知っていた。サレ大臣からの手紙はすべて彼に送られていて、エリトリアの国情、財政問題などを彼は十二分に知っているはずであった。独立後まもなく、大変な時期にあることも当然理解しているはずである。なのに、どうして彼はエリトリア参加問題の担当という立場にありながら手を差し伸べようとしないのか。バレスチナの参加問題についてはサマランチ会長自らが実現のために精力的に関係団体に働きかけていたと聞く。ではいったいエリトリアに対するフェリ氏の怠慢としかいいようない態度は何なのか。世界の耳目を集める人々には暖かく、そうではない「とるにたらないアフリカの小国」の人々は平気で無視するのか。オリンピックとはそうやって作られているのか。そんな疑問が次から次へと沸いてきた。

夜、このフェリ氏との話合いの様子をサレ大臣に伝え、このままでは参加どころか3人の米国入国も危ういと正直な状況を伝えた。そして、オリンピック見学ビザでも、観光ビザでも何でもいいから、もう一度ビザ発行をエリトリア政府から国務省に掛け合って欲しいと頼んだ。
<オリンピックまであと4日>
エリトリア人コミュニティとの出会い
7月15日、IOC総会がついに始まった。それにあわせて私はアトランタで入国拒否の危機にあることをアピールする記者会見を開いた。出席者は日本人記者が大半だったが、大きな収穫があった。その中で通訳をしていた地元アトランタのジャーナリストがアトランタのエリトリア人コミュニティのまとめ役なる人物を知っていたのである。さっそく彼女から電話番号を聞き、連絡を取ってみた。

彼の名はキフレ。電話をして自己紹介をするや否や、彼は友人のウォルドー氏とともに飛んできてくれた。待ち合わせた場所はハンバーガーショップのウェンディーズ。「CNNのニュースでエリトリアの選手が日本で練習していることや、ビザの問題があるということは知っていたが、その後どうなったかちょうど心配していたところだった。ほんとによく来てくれた」。たった独りで奔走してきた未知の土地で、ようやくようやくエリトリア人に会えた嬉しさに興奮した私は、これまでの経緯を一気にキフレ氏とウォルドー氏にまくしたてた。2人とも熱心に聞き入っていたが、やがて話しが一段落つくと、いかにも自信ありげに言った。

「安心してくれ!アトランタには500人以上のエリトリア人が住んでいる。1990年にはカーター元大統領の呼びかけた和平交渉がアトランタで開かれて、イサイヤス大統領も来たことがある。あの時も大統領の面倒をコミュニティで全部みたんだ。政府は今以上に金がなかったから、このウォルドーが大統領の車を運転して、コミュニティメンバーの家に泊まってもらったりした。それに、交渉の手伝いも皆でボランティアでやったんだ」。地獄で仏とはまさにこのことだろう。やっと一緒に戦う仲間が、しかも主役であるエリトリア人の仲間が見つかったのである。
<オリンピックまであと3日>
「レインボー」への朗報
翌日からエリトリア人コミュニティの逆襲が始まった。既にAP通信、UPI通信、ロイター通信といった国際メディアには当たっていたが、「やはりまずは地元だ」というキフレ氏の言葉に従い、アトランタの有力紙「コンスティテューション」にアタック。エリトリアの独立運動にもシンパシーを持っていたという記者が見つかり、何らかの形で記事にすると約束してくれた。

次にやはりキフレ氏の人脈で米国下院議員のジョン・ルイス氏に陳情に行った。残念ながら氏はワシントンにいて会えなかったが、第一秘書と面会できた。キフレ氏はにこりともせずに陳情の趣旨を述べた。「エリトリアのオリンピック選手団に対するビザ発行拒否は、明確に人権侵害だと思われる。ぜひ議員に国務省に対してその真意を問いただしていただきたい。その回答によっては私たちエリトリア人コミュニティも今後、エリトリア政府と相談の上、国際社会にこの問題を訴えて行くつもりでいる。ぜひ、議員にもご協力いただきたい」。小太りの愛嬌あるおじさんといった風貌のキフレ氏が、この時ばかりは、大きな黒い眼が鋭く光るエリトリア戦士の顔になっていた。

夜、キフレ氏の呼びかけで、やはりエリトリア人移民の経営するレストラン「レインボー」にコミュニティの主立ったメンバーが集まった。店のどこにも「レインボー」という看板はなく、インジャラ(エリトリアの主食)を焼く匂いが染み付いたような不思議なレストランで、エリトリア人タクシードライバーの溜まり場だという。このレストランがこの後、私たちの活動拠点になる。アトランタのタクシーの1/3以上はエリトリア移民だという。キフレ氏も昼は法律事務所に勤めるサラリーマンだが、夜はタクシードライバーに早変わりする。「娘の養育費がかかりすぎる」というぼやきが彼の口癖である。しかし、この夜はコミュニティの力強いリーダーだった。

最後通牒に等しい回答が、前日の16日マスコミに流れていた。IOC事務総長のカラード氏が日本人記者の質問に答え「エリトリアの今大会出場は困難」と回答したのである。私にとってもキフレ氏にとっても、これは大きなショックだった。しかし、悲しんでいても何の力にもなりはしない。とにかく今からやれる最善の策を考え、実行するしかない。すぐさまそう気持ちを切り替えた。キフレ氏も悲観的な現状を説明した上で他のメンバーに訴えた。「確かに厳しい状況には違いない。しかし、最後の頼みのIOC総会はまだ開催中。オリンピック開幕までにも2日ある。アフリカの他の国のNOCにエリトリア参加問題を総会で提起してくれるよう頼む時間もある。いずれにしても、日本に足止めされている選手団をこのままエリトリアに返すようなことがあっては絶対にならない。残念ながら開会式には間に合いそうもないが、どんなことがあってもこのアトランタに彼らを迎え、最後の最後まで自転車ロードレーズ参加実現を目指し頑張ろうではないか!」

と、その時である。私の携帯電話が鳴った。「ビザを出すと大使館が言ってきました!」東京のピースボートスタッフでキャンペーンの中心的メンバー山本君の興奮した声が飛び込んできた。「開会式にもギリギリ間に合いそうです!」この思ってもみなかった朗報で、悲壮な雰囲気に包まれていた会議は、一瞬にしてお祭り騒ぎとなった。
<オリンピックまであと1日>
入場料は800ドル!!
開会式前日はエリトリア選手団の入場券探しでほとんど丸一日費やした。というのもすでにチケットセンターでは、安いチケットが売り切れており、一枚650ドルのものしかないという状況だったからだ。町中を徘徊しているダフ屋連中にも片っ端から聞いてみたが、駄目だった。ひどいときは800ドルとふっかけてくる輩さえいた。最後は、マリオットマーキーホテルにIOC関係者専用の特別チケットセンターがあると聞い、なんとか潜り込んでみた。ここでは一般のチケットセンターだと3時間は並ばなくては買えないチケットが、ものの10分で買える仕組み。やはりIOC本部は違う。さらに私が行ったときには、運良く215ドルの入場券が偶然再発行されたところで、大幅に出費を節約することができたのである。

いよいよアトランタオリンピック開幕の日、7月19日になった。とうとう選手団が日本からやってくる日だ。キフレ氏らは前日からアトランタ以外に住むエリトリア人移民にも連絡を入れており、「少なくとも40人は空港に出迎えに来る」と豪語していた。また、タクシー仲間に頼んで大型のリムジンも手配しているらしかった。予定通りならば飛行機が午後7時55分アトランタ着で、オリンピック開会式は8時30分開始だから、ぎりぎり間にあう計算だ。祈るような気持ちでデルタ52便の到着をキフレ、ウォルドー氏らとともに待った。エリトリア人コミュニティの人々もぞくぞくと空港に集まってきていた。小さな子どもたちから民族衣装を着込んだ女性たちまで、みんな手に手に新生エリトリアの国旗を持ち、選手団の到着を今か今かとゲートの方を覗き込んでいた。

期待を焦らすかのように20分の延着が掲示される。一瞬ため息混じりの落胆が襲うが、しかしたったの20分である。選手団は日本でアトランタ着を10日間240時間も待ち続けたのである。それに比べればどうということはない。開会式にも遅刻はするが、式の半ばにはスタジアムに着くだろうと自分に言い聞かせ、不安を押し殺しながら彼らを待った。
<オリンピック開会式>
歓喜に包まれた到着ゲート
52便到着。ゲートが開き、乗客が姿をあらわした。次か、次か、次か。なかなか出てこない。いや、そう感じただけなのだろう。実際にはほんの2、3分だったはずだ。そして、出てきたと思った瞬間、子どもたちの歓声とエリトリア女性特有の甲高い掛声で、そこはアスマラ空港かと錯覚するほどの熱気に包まれた。誰が先に出てきたのか、全然憶えていない。気が付いたときにはアスマラ空港出発時と同じスーツを着込んだグルマイ、ヨナス、ベレケットの3人が、民族衣装の女性や大きな旗を持った男性に囲まれ、子どもたちから花束を渡されていた。不安に苛まれながらも練習を続け、慣れない日本の生活の中で、ただひたすらこの日を待ち続けた彼ら。そんな彼らをありったけの笑顔で迎えているエリトリア人コミュニティの人々。そんな光景を目の当たりにして半ば夢心地でただただ感動していた。

グルマイ氏は私を見つけるなり「来たぞう!」と一言叫んで抱きした。ヨナス、ベレケット両選手とは声にならない声をあげて抱きあった。彼らの来日以来ずっとボランティアで付き添ってきた江口君がアトランタへ同行してきた。彼も顔を紅潮させながら言った。「本当にこのキャンペーンをやってきて良かったですね」。この瞬間この出会いが生まれただけでも多く人々の支援を受け、また応援をお願いしてここまで頑張ってきた意味はあったんだと私も思った。彼らの花束を渡した子どもたちは必ずこの日のことを思い出し、なぜ3人の同胞を迎えに行ったのか、その意味を考える日が来るだろう。これからアメリカ社会でマイノリティとして生きていくエリトリアの子どもたちにとって、それは貴重な体験となるはずだ。感動の嵐はなかなか醒めそうになかったが、時間はない。もう開会式の始まる時間となっていた。選手団の3人は用意された超ロングボディのテレビ付きリンカーンリムジンに乗り込み、スタジアムへと向かった。このリムジンは妙案だった。テレビのおかげで開会式の進み具合まで分かったからだ。
<オリンピック開会式>
観客席の選手団
スタジアム入口まで着いたとき、ちょうど各国選手の入場行進が始まったところだった。「やっぱり私たちは観客席だね」グルマイ氏が言った。右手方向200m先が入場ゲートらしく、ユニフォーム姿の各国選手団の誇らしげな姿が見える。彼はそれを眺めながらぽつんとそう言った。今、数々の困難を乗り越えてアトランタオリンピックスタジアムにやってきたエリトリア選手団は観客席に向かって歩いていた。地球上にある「国」のなかで唯一入場行進に参加できない「国」の代表であり、唯一自分たちで入場券を買って開会式を見る「国」の代表である。入場行進に向かうエチオピア人選手と、観客席に向かうエリトリア人選手の違いはいったい何なのだろう。

スタジアムに入って眼前に入場式の風景が広がったとき、3人が3人とも感嘆の声をあげた。そのあまりの規模の大きさときらびやかさにである。グルマイ氏はまるで毒気にあてられように座席に座り込んでいた。「サマランチ会長に見えるように観客席で振ってやろう」と持ってきた1m四方のエリトリア国旗も彼の膝掛けと化していた。今まさにこの3人が、観客席に座っていることと入場行進に参加することとの違いを、おそらく世界中の誰よりも強く感じていただろう。群衆の中で遠く選手たちを眺めることと、強烈なライトを浴び地鳴りのような歓声を受けながら世界に向けて手を振ることの違い、その落差を身をもって感じていた。それはあのスタジアムの中にいないと理解できない天国と地獄の体験である。
<オリンピック開会式>
「どうしてサラエボだけなんだ!」
グルマイ氏がようやく元気になりはじめたのはスタジアムに入って20分ほどしてからだった。「ナウル?どこの国?島?」「香港は国じゃないだろ」「グアムはアメリカの一部じゃないのか」「リベリアは内戦の真っ最中なのに」彼は熱心にメモを取り始めた。他の小国や国になっていない地域を記録しておいて、それらがどうして参加できることになったのかIOCに聞いてみると言う。ヨナスとベレケットもアフリカの小国が紹介されるたびに「あそこが出ているのか」「エリトリアよりも小さいのに」と口々に文句を言っていた。

「どうしてサラエボだけなんだ!」グルマイ氏が叫んだのは、サマランチ会長の開会演説の時だった。「会長は今『オリンピック運動は連帯の行動として長い戦争によって破壊されたスポーツ施設の再建に貢献する』と言った。30年の戦争によって破壊されたエリトリアはどうなのか?どうして無視されるのか。私達は何もスポーツ施設の再建をIOCに頼んでいるわけではない。たった2人のサイクリストの出場を願っているだけだ。なのに…」。サマランチ会長の演説の後、アトランタに生まれ人種差別反対に身を捧げたキング牧師の「私には夢がある…」という歴史的演説が流れ、会場を厳粛な雰囲気がおおった。「サラエボには手が差しのべられ、エリトリアは無視される。キング牧師が生きていたならなんと言っただろう」再びグルマイ氏が呟いた。「私たちにも夢がある」

。 開会式が終わりレストランレインボーへの帰路、どうして今ごろになって米国はビザを出したのかとグルマイ氏に聞いてみた。「もう、IOC総会に直訴できないタイミングだからだろう。米国もエリトリアにとやかく言われずにすむ。しかもIOCとの事前交渉する時間はなくなった。どっちにしても都合が良かったんだろう。サレ大臣はそう言っていた」。もしもこれが真実だとすると、小国エリトリアに対する情けない弱い者のいじめのハラスメントではないか。
<オリンピック2日目>
抗議行動も辞さず
開会式の翌々日からヨナス、ベレケットは練習を開始。同時に取材ラッシュが始まった。この日だけでマスコミ8社が取材。次の日も4社が、最後の望みにかけるアフリカのサイクリストを追っていた。その一方、グルマイ氏とコミュニティーのリーダー達はこれからの戦略を早急に相談しなければならなくなった。IOC総会も開会式も終わってしまった今、残る可能性はロードレースへの参加のみである。再びエリトリア人コミュニティの活動が活発になった。まずはエリトリア選手団を迎えてのウェルカムパーティ。残念ながらオリンピック期間中は駐車料金が数倍になっているため来たくても来れない家族もいたが、それでも30〜40人が集まり選手団は大歓迎を受けた。その場で今後の方針についても話合いがもたれた。第一に、ロードレース出場獲得のため最大限努力すること。第二に、それが不可能だとしても、グルマイ氏がサマランチ会長かそれに準じる人物と会って、シドニーへの参加支援の約束をとりつけること。第三に、もしもIOCがエリトリアを無視するようなことがあれば、おおやけにエリトリア人コミュニティとしてIOC非難の声明を発表し、オリンピック公園で平和的抗議行動を行うことV等が決定された。
<オリンピック4日目>
サマランチ会長と会見?!
「今すぐ選手団全員と正装で資料一式を持ってきてくれ。サマランチ会長に会えるかもしれない」。仕事が忙しくなってきたキフレ氏に代わって精力的に動いていたシウム氏から突然連絡があった。すぐさま、グルマイ氏に連絡をとり、少し郊外で練習している選手達と一緒に大至急レインボーに集まるように伝えた。スーツに身を固めたシウム氏が私達を引率していった先は、アフリカNOC協会のパーティだった。会場ではアフリカ各国の代表が所狭しとひしめき合いながら、久しぶりの再会を喜び合っている様子だった。「まずアフリカNOC協会のガンガ会長に会ってエリトリアオリンピック委員会の設立を報告し協力を求めよう」シウム氏はそう言うと、ガンガ氏を探し出し、グルマイ氏以下私達を紹介した。

ガンガ氏に会って分かったことは、ガンガ氏にはエリトリアの参加は困難ということ以外何の情報もIOC本部から伝えられていなかったということである。「アフリカでの新しいNOC設立という私達にとって重大なニュースを何故知らせてこないのか」彼はIOC事務局に憤慨していた。そして、すぐに事務局長のムスタファ氏を呼びグルマイ氏とIOC幹部との面会をアレンジするように指示した。

ムスタファ氏との打ち合わせが終わった時、以前面会がかなわなかったアトランタオリンピック組織委員会共同議長のアンドリュー・ヤング氏が会場に姿をあらわした。さすがに全米レベルの有名人だけあって会場にいたほとんどの人の注目を集め、すぐさま彼の周囲には人垣ができた。その人垣をかき分けかき分け、私達も彼にアプローチした。ヤング氏も面会を要請されたことを憶えていたらしく、社交辞令とはいえ「忙しくて力になれないでいるが、IOCとの話合いがうまくいかないときは、また連絡をくれれば相談の時間を取る」と約束してくれた。もう2週間早くその言葉を聞けていたらとは思ったが、とにかく前進には違いない。

結局サマランチ会長はその場には来なかったが、シウム氏を始めエリトリアオリンピックチーム一同、その結果には満足だった。やっと歯車が噛み合い始めた、そんな感じだった。
<オリンピック4日目>
ワイルドカードも絶望
アフリカNOC協会のパーティと同じ日、もう一つ非常に重要な面会の約束を取り付けていた。国際自転車競技連盟の(UCI)の競技運営担当役員、ミロン・バラミヤ氏との面会である。以前IOCのフェリ氏と連絡を取ろうとした時と同様、2時間以上もたらい回しにされたあげくに結局連絡がつかず諦らめていたところ、私の残した伝言を聞いて向こうから電話してきてくれたのである。すでに自転車のトラック競技開始は翌日に迫っていた。彼はその準備に忙殺されており、面会は夜の9時となった。

旧ソ連のグルジア共和国出身というバラミヤ氏は実に誠実かつヒューマンな人柄だった。いままで同様に官僚的で冷淡な対応を予想していた私達にとっては大いなる驚きだった。彼はまず個人的な意見としながらも、エリトリア選手団がアトランタに来ているにもかかわらず参加困難という状況に対して、「大変残念なことだ」とした。さらに「今回の悲劇はまさしく情報の欠如から起こったことだ」と暗に情報を提供すべき立場にあったIOCおよび自らの立場を批判した。本当にこんな謙虚なオリンピック関係者に会うのは始めてだった。

出場権に関しては当初よりワイルドカード(特別招待枠)しかないと考えていたので、その点を率直に問うてみた。「今回のオリンピックから財政上の問題ということで、IOCは自転車競技に参加する選手を大幅に制限してきた。以前なら自転車競技以外の参加種目がないということでワイルドカードを使うことができたかもしれない。しかし今回はそのワイルドカードもごく少数に限られたために各国から希望者が殺到した。この5月にもめにもめた末にやっと決まったという状況だ」。ワイルドカードによる出場権が既に決定されてしまったと聞いて、グルマイ氏は顔色を変えた。「ではワイルドカードでこのヨナスとベレケットが出場するのは…」。バラミア氏は沈痛な表情でかぶりを振った。
<オリンピック4日目>
「IOC会長は別格だ」
IOCが参加申請を拒否する根拠の一つとしてUCIも拒否していることを挙げていたので(IOCエリトリア参加問題担当役員であるフェリ氏から7月になって突如サレ大臣宛にきた連絡でそのことが触れられていた)、そのことも尋ねてみた。「ひとつ基本的なことを理解してもらいたい。参加基準を決めるのはUCIの役割だが、特定の選手が出場をできるか否かを決定するのは唯一IOCにしかない。たとえUCIがワイルドカードを出したとしても、IOCの承諾なしには誰も競技に参加できない」。彼は丁寧にIOCとUCIの関係を説明し、次回参加のために何と何を急いですべきか、手続きではどんな点に注意しなければならないかを噛砕いて教えてくれた。そして、4月末頃ならまだ何とかなったかもしれないのにIOCが何故もっと早く連絡しなかったのか、それが不思議だと繰り返した。

グルマイ氏は「4月末にはすでにIOCに参加要請を出していたのに」と悔しがった。「たとえばオブザーバー参加のような形でもロードレースに参加することはできないか」気落ちしているグルマイ氏に代わって尋ねてみた。バラミア氏はやはりかぶりを振った。「何とか彼らを他の選手達と走らせてやる方法はないのか」すがるような気持ちで再び訊ねてみたが、彼は一言「残念だが」と言って下を向いてしまった。最後に「サマランチ会長が直接OKを出せばどうか」とやけくそ気味にタブーとも言える、しかし一番知りたい質問を投げかけてみた。するとバラミア氏はこちらを向き直し「その答を私に聞くのか」と苦笑しながら言った。「君たちも知っているように彼だけは別格だ」。
<オリンピック5日目>
十文字選手の活躍
自転車競技のチケットはチケットセンターでは既に売り切れていたため、バラミア氏と電話連絡できた時にできればチケットを用意して欲しいと頼んでおいたところ、なんと全ての自転車競技にわたり人数分揃えていてくれた。真夜中近くなって彼と別れ、私達は帰路についた。グルマイ氏は車の中で何度となく「彼と半年前に会えていたならば」と繰り返した。

バラミア氏との面会の翌日から彼にもらったチケットで自転車トラック競技を観戦した。24日は修善寺の日本サイクルセンターで会った日本競輪会のスーパースター神山選手と新生十文字選手が出場。二人で順位を競うスプリントでの神山選手は残念ながらふるわなかったが、1kmタイムトライアルでの十文字選手はご存知のように第3位で銅メダル。競技者が最後の3人になるまで彼のタイムが1位だったので、みんなもしやと思い興奮して観戦した。ヨナス、ベレケット選手も銅メダルを手にした十文字選手と握手ができて上機嫌だった。25日には競技場で橋本聖子選手と会うことができ、彼女からの「これからもエリトリア自転車競技支援を続けていきたい」との言葉にグルマイ氏は感激していた。
<オリンピック5日目>
「カーター外交」との遭遇
「カーターセンターの人が君に会いたがっているよ」。話は3日さかのぼるが、そんな電話が突然ある記者からあった。カーター外交という言葉を新聞紙面でよく見かけることがあるが、カーターセンターとはカーター元大統領が米国の平和人権外交を推進するために設立したNGOで、カーター外交の戦略基地でもあり研究機関でもある。アトランタ五輪への北朝鮮参加もその一例であった。そのカーターセンターが今回のエリトリア問題に興味を持っているという。理由の一つはカーター氏が大統領在任中にエリトリア独立戦争が激化し、エリトリアとエチオピアの和平合意にカーター氏の働きかけが大いにあったということだ。

「とにかく連絡を取ってみれば」というその記者の言葉に従い電話をしてみた。「その問題はこのカーターセンターの紛争解決部が何かお手伝いできるのではないかと思ったので、その記者の方にその旨を伝えておいたのです」。電話に出た紛争解決部部長ジョイス・ニュー氏はそう言った。早速選手団とシウム氏を交え24日に会うことになった。

面会ではまず私がこれまでの経緯を説明し、続いてグルマイ氏、最後にシウム氏がことの重大さを強くニュー氏に訴えた。「このカーターセンターの尽力もあり、エチオピアとエリトリアの和平は実現し、今や両国は非常に安定した友好関係を結んでいます。しかし両国の安定の大前提がエリトリアの独立にあることは明らかです。国連を始め国際社会は私達の独立を快く歓迎してくれました。にもかかわらず私達のオリンピック参加の希望はまったく無視されています。このようなIOCの態度は決してエチオピアとエリトリアの平和にとってもプラスではありません。」

ニュー氏は大至急IOC担当者と連絡を取って事情を調査することと、参加の可能性について確認することを約束してくれた。そしてニュー氏が他に何かできるかと訊ねた瞬間、まるでその言葉を待っていたかのようにグルマイ氏とシウム氏は同時に言った。「サマランチ会長に会わせて欲しい」。ニュー氏は「最善は尽くしますが、あまり期待はしないでください」と言って席をたった。
<オリンピック6日目>
99%の断念
カーターセンターの翌日25日、アフリカNOC協会のムスタファ事務局長とカーターセンターのニュー氏から相次いで電話が入った。両方とも同様の内容で「参加は不可能。だがIOCのエリトリア参加問題担当役員フェリ氏が面会すると言っている。今後のためにも会ってみたらどうか」ということだった。ここでフェリ氏に会うということは、参加への希望を99%断念するということになる。そのことをグルマイ氏、シウム氏、キフレ氏らはよく理解していた。

彼らは数回にわたり慎重なミーティングを重ねた。グルマイ氏はすでに警察からも許可を得ていたオリンピック公園での平和的抗議行動後、再度サマランチ会長へ面会を試みたいと主張していた。しかしシウム氏らはフェリ氏からシドニー五輪への支援約束を取り付ける方が重要だと力説した。結局グルマイ氏もこれに同意し、翌日26日午後3時に面会予約を入れた。この夜、サレ大臣は電話でグルマイ氏に次のような助言をした。「もはや卑屈な態度で参加を願う必要はない。批判すべきことは批判し、エリトリアが参加できなかった理由を明確に聞いてくるように」。

26日、マリオットマーキーホテルに向かった。CNNとテレビ朝日が来ていたが、その目的は果たせなかったようだ。フェリ氏は内部的なものという理由でこの会談の取材申し込みを拒否したらしい。どこまでもこの問題を非公開で処理したいらしい。ホテル入口では例によってセキュリティーチェックに30分を費やし、10階のIOC本部にたどり着いた。
<オリンピック7日目>
フェリ氏との対決
エリトリアオリンピックチームを迎えたフェリ氏の態度はさすがに緊張しているように見えた。なにしろこの日以外にも様々なマスコミからこの問題に関する取材申し込みが殺到していたのである。そのうえ米国下院議員、アフリカNOC協会、カーターセンターまでが執拗に問い合わせてきたとなれば、いかなIOC事務局役員といえども平常心ではいられないようだった。

まずはグルマイ氏が切り出した。「どうして昨年11月に送ってくるとあなたが約束した最新版のオリンピック憲章を送ってこなかったのか?意図的なものか。」これはずいぶん前からサレ大臣が怒っていたことだった。なにしろオリンピック憲章を理由に参加承認を拒否しておいて、肝心のオリンピック憲章を送ってこないとは、故意の差別ととられても仕方ない。これに対しフェリ氏は「私は送った。スイスからエリトリアに届くまでに何かあったのだろう。私には分からない。この件についてはサレ大臣からも抗議があったので、今ここに用意しておいた」。フェリ氏は手元に置いてあったカラフルなB5版小冊子をグルマイ氏の前に差し出した。「あなたはこれがなかったために私達がどれほど苦労したのか分かっているのか」。グルマイ氏の感情的な言葉に対してフェリ氏は首をすくめだだけだった。

「4月25日に暫定的参加を申し入れたが、その返事が3週間以上もなかったのはどうしてか」。「私がその頃スイスの本部にいなかったからだろう。2週間ほど出張に出ていたはずだ」。「その3週間の遅れで決定的に参加が困難になったとUCIは言っている。だとすれば、あなたの責任は重大だ」。徐々に苛立ちが見えてきたフェリ氏は「UCIがなんと言おうと、君たちがオリンピック憲章の規定をクリアーしていなければ参加は承認されない。それだけだ!」大きなジェスチャーで言い放った。

「米国のビザの件はどうか?どうしてIOCは私達のアトランタ訪問を妨害したのか?」とグルマイ氏も攻撃的になってきた。フェリ氏が返す。「すでに吉岡氏にも伝えたが、米国ビザは米国政府の問題で、私の知ったことではない!もうこんな過去のことばかりを話すのなら、こんなミーティングに意味はない!」ほとんどヒステリックに叫んでいた。
<オリンピック7日目>
疑惑と豹変
「いや、現在のこともある」。グルマイ氏は落ち着いて切り返した。そしてかねてから私達の間で話題となっていたIOC会長室長のファカル・キダネ氏のことに触れた。キダネ氏は「サマランチの耳」とも呼ばれ、IOC内ではかなりの権勢を誇っていると評判の人物だった。彼のことはサレ大臣もグルマイ氏も知っていた。というのも彼がエリトリアを強制合併した旧エチオピア政権(ハイレ・セラシェ時代)にその政府内部にいた人物で、エリトリアのオリンピック参加を快く思っていないという噂を耳にしていたからだ。

現在のエリトリア・エチオピア関係は安定した友好関係にある。アトランタでも開会式の翌日、エチオピア選手団のパーティにエリトリア選手団がわざわざ激励のため招待されたほどである。しかしキダネ氏のように亡命した旧エチオピア政府関係者の中にはエリトリアの独立をいまいましく思っている者もいる。しかしそんな個人の政治的な問題をオリンピックに持ち込んで良いはずがない。そのキダネ問題をここぞとばかりグルマイ氏は正面からフェリ氏に問いただしたのである。「キダネ氏がエリトリアの初参加を政治目的で妨害していると、あるジャーナリストから聞いた」と。

フェリ氏は明らかに動揺した。声が急に小さくなりしどろもどろになった。「そんなことは…、それはあってはならないことで…、私は聞いたことがない」彼の態度は明らかに何かあったことを示していた。しかしそれ以上この問題を追求しても証拠が出てくるはずもない。「もし何か明確な事実が出てきたときには、必ず私達の政府はそのことを国際社会に提起します。よく覚えておいて下さい」グルマイ氏は宣言した。

約1時間たったころ、話はやっとこれからの協力関係に移っていった。キダネ氏の話がこたえたのか、フェリ氏はほっとしたように表情が明るくなり、饒舌になった。「とにかくシドニーに向けては今回のようなことがないよう、全面的に支援していきたいと思っている。財政支援もエリトリアオリンピック委員会が承認されれば可能になるだろう」。正直いってこの豹変ぶりには私も開いた口がふさがらなかった。さっきまでの彼はどこへいったのか。いや、アトランタ開催前までの彼はいったい何処へいってしまったのか。
<オリンピック7日目>
シドニーへの「切り札」
フェリ氏はなおもおしゃべりを続けた。「アトランタにはほとんどの種目の国際的な競技連盟のリーダー達が来ている。エリトリアが加盟を目指しているバレーボール、バスケットボール、陸上競技、サッカーの代表ももちろんきている。もし必要なら私が推薦状を書くから、それを持っていけばこれからの交渉に役立つだろう」。

もう私達は積極的に話す気にならなかった。彼が今まさに言っていることをサレ大臣は1年前から訴えていたのであり、だからこそ今回の参加が叶わなかったとしてもアトランタにグルマイ氏らを送りたかったのである。それらの要求をことごとく無視してきたのは、他の誰でもなくIOCでありフェリ氏ではなかったのか。フェリ氏のあまりの変節に複雑な気持ちで私達はIOC本部を後にした。

「サマランチ会長はノーベル平和賞を受賞するために、シドニー2000年オリンピックには200のNOC参加を実現させたがっている。ところがほとんどの国と地域が参加してしまっているから、エリトリアはそういう意味では貴重な一国というわけだ」。後日UPIの記者からこんな解説を聞き納得がいった。

夜、レストランレインボーではいつものようにキフレ氏、シウム氏らが待っていた。グルマイ氏はフェリ氏との会談内容を報告した。「腹は立つ。しかしシドニーでの目的達成のためには大きな成果だったと思う。IOCとの対決姿勢をやめ、抗議行動も中止し、これからは各国国際スポーツ連盟との関係作りと、ヨナス、ベレケットと地元サイクリストとの交流を図るのが建設的な活動だと思う」。この夜のグルマイ氏の判断は正しかった。オリンピック公園で爆弾テロ事件があったからだ。エリトリア独立闘争時のゲリラ戦士だったウォルドー氏が「あのままIOCと対決していたなら、今ごろエリトリア人が一番疑われていただろうな。俺なんかまっさきに取り調べられていただろうよ」と言って笑わせた。

28日は早朝から地元アトランタのサイクリンググループが主催する80kmトレーニングレースにヨナス、ベレケット両選手が参加した。地元サイクリスト達は幻のオリンピック選手の飛び入り参加を大歓迎してくれた。オリンピックへの参加は絶望的になったとはいえ、ここアトランタの空気の中で代表選手のユニフォームを着て新品のロードレーサーで風を切って走る、それは忘れがたい体験となったはずである。レース後、ヨナスがベレケットに言った。「俺はアトランタで走った。これはいつまでたっても俺の誇りだ」。
<オリンピック12日目>
「スゴイ」決勝レース
31日、いよいよ男子ロードレースの決勝の日が来た。ベレケットに「出られなくて残念だったね」と声をかけると「見ることができて幸せだ。エリトリアの他の仲間はテレビでもなかなか一流のサイクリストのレースを見ることができないから」と返事が返ってきた。ロードレースの沿道はかなりの人出。日本の応援団も2、3グループ来ていたようだった。私達はコールまで200mの地点に陣取って観戦し始めた。

注目はツールドフランス4連覇という記録を持つスペインのインデュライン選手と、今年そのインデュライン選手の5連覇を阻止したデンマークのリース選手。一方、我らがエリトリア最強のサイクリスト、ヨナスとベレケットは初めから興奮しっぱなしだった。周回コースを重ねる毎にレースの世界に没頭し、20分おきに目前を通過していく選手たちを見つめる2人の眼が尋常ではない。有名な選手を見つけようものなら「インデュライン!ゴー!」「ハヤク!リース!」などと大声で叫んでいた。そして彼らの通過後、真剣な表情であれこれとレース評を戦わせるのである。そんな嬉々とした彼らの姿を見ていると、本当にサイクルレースが好きなんだということが痛いほど伝わってくる。

スタートから4時間53分55秒後、スイスの選手がゴール。続いてデンマークの選手が銀メダル、英国の選手が銅メダルとなった。かなりの番狂わせだったがやはりヨーロッパ勢は強かった。「スゴイ!スゴイ!」まだ覚えたての日本語を繰り返していたヨナスに「もし出場していたら何位だったと思う?」と少し意地悪な質問をしてみた。彼は少し考えてからニヤッと笑って「メダルはちょっと無理。だけど神に誓って最下位じゃないよ」と答えた。
<おわりに>
がんばれエリトリア!
近代オリンピック100周年記念アトランタオリンピックは閉幕した。グルマイ氏とヨナス、ベレケット選手の、そしてエリトリア人の「真夏の挑戦」はとりあえず一時休憩となった。しかし、ベレケット選手曰く「みんなあんなに強いのなら早く帰って練習しなくちゃ間に合わない。もうシドニーまで4年しかないんだから」。すぐに新しい挑戦の始まりだ。2000年シドニーオリンピックに向かって。がんばれ!エリトリア!<完>


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