3月14日
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タイタニックコンサート
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「タイタニックコンサート」と銘打った船上ミニコンサート。出演バンドを構成するのは、船内で知り合った音楽好きの参加者たち。練習期間が短く、楽譜を手にしたのがコンサートの前日という曲目もあったというが、その演奏はなかなかのもの。演奏曲目はチェロとバイオリンの「白鳥」、バイオリンの「G線上のアリア」など名曲ばかり。
聴衆は今夜のために特別に用意された「タイタニック」や「アイスバーグ」といった名のカクテルを片手に耳を傾け、優雅なひとときを楽しんだ。最後にバイオリン、チェロ、キーボート、ベース、エレキギター、フォークギターという特別編成のバンドで「カノン」が演奏されると、会場からはアンコールの嵐が巻き起こった。
(菅井)
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日本のアパルトヘイト・オキナワ〜本土防衛の捨て石〜
/尾形憲(法政大学名誉教授・ピースボート平和顧問)
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「私たちは、南アフリカでアパルトヘイトが残した現実を目の当たりにしてきました。そしてこれから、過去の軍政によって多くの人権弾圧が繰り返されてきた南米諸国を訪問しようとしています。この区間、大西洋でこそ、オキナワ問題を考える意味があるのです」と語るのは、ピースボート平和顧問の尾形憲さん。沖縄問題の2回シリーズの初回は、戦時中の沖縄の置かれた状況、そしてその現在の姿について、スライドを交えながらお話しいただきました。
「私の考える『アパルトヘイト』とは、『人権を無視した行動のすべて』です。これをオキナワの視点から考えれば、廃藩置県という名で行われたヤマト(本土)による非情な行為のことであり、戦後の日米地位協定における現在の姿そのものであるともいえるのです。このふたつは表面的には違うものに見えますが、根っこは同じだと思います。
15世紀から19世紀にかけて、各国との交易によって栄えたのが、のちに「オキナワ」となる琉球王国でした。まだヤマトが大型船を作ることができなかった頃でも、すでに琉球には進んだ造船技術がありました。
そのあと1609年、徳川家康の時代にヤマトに征服されてからずっと、オキナワはヤマトによって植民地のような扱いを受けてきました。第二次世界大戦中には、標準語を使うことを強制され、オキナワの言葉を使った人は 『スパイ』として処罰されました。さらに戦争末期には、政府は東京にあった天皇の住居や「三種の神器」を安全なところに避難させるために、オキナワを「時間稼ぎ」に使ったのです。子どもたちを含む12万のオキナワの人たちが、54万人にも及ぶ米兵と戦わなくてはなりませんでした。戦争が終わって56年経った今も、ガマと呼ばれる壕の中で放置されたままになっている骨があります。『安全な』ガマに逃れるために、ヤマトの兵士たちの慰み者になった幼い女の子もいたといいます。
そして今も、オキナワはヤマトに米軍基地を押し付けられています。ヤマトのオキナワ蔑視は変わっていません。フェンスに隔てられた”豊かな”米軍基地が存在する限り、沖縄のアパルトヘイトは続いているのです」
(石橋)
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