カナダの歴史
紀元前 西岸部から中央平原部にファースト・ネイションの人々が、北部海岸線にイヌイットの人々が、それぞれ独自の文化を発展させる
1497年 イギリスの援助を受けたイタリア人ジョン・カボットが、ヨーロッパ人としてはじめて、現在のカナダ(ニューファンドランド島)に到達
1534年 フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川流域に到達
河口のガスペ半島を 「ニューフランス」と宣言
1608年 フランスが現在のカナダ東部、ケベック・シティに砦を建設
フランス人の定住が始まる
このころ、イギリスもカナダ地域への進出を開始
1754年 フレンチ=インディアン戦争
1756年 英仏七年戦争
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1763年 パリ条約締結
フランス植民地であった地域がイギリスに割譲される
1812年 アメリカがカナダに宣戦布告
1814年 カナダ・アメリカ国境の確定
1867年 英国議会が「英領北アメリカ法」を制定
自治領連邦政府が成立
このころ、現在のカナダ西部で金鉱が発見され、東部から西部への移民が急増
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1885年 イギリスから完全独立
1926年 東海岸から西海岸までを結ぶ大陸横断鉄道が完成
1960年 「ケベックナショナリズム」の高揚
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1988年 多様文化主義法制定
1995年 ケベック州の「独立」を問う2回目の州民投票実施

 [英仏の抗争]
 17世紀頃から、イギリス・フランスの領土争いの場となったカナダ。イギリスは西側から、フランスは東側からそれぞれ植民地化を進め、18世紀に入る頃には、現在のカナダの国土の大半が、どちらかの国の支配を受けるようになっていた。
 当時、英仏は熾烈な領土拡張争いを繰り広げており、その波はこの北米植民地へも広がった。本国での戦争の結果は、そのまま植民地の領土争いにも反映されてゆく。一時はフランスの「ニューフランス植民地」が北米大陸の半分以上を占めたこともあったが、徐々に強い経済力を持つイギリスの優位が明らかになっていった。フランス人を追い出してイギリス人の入植地を英国に対し、フランスと先住民の人々が同盟して戦ったフレンチ=インディアン戦争、英仏が直接衝突した英仏七年戦争を経て、遂に1763年のパリ条約で、ニューフランス植民地がイギリスの支配下に入ることが決定する。

 [カナダ連邦政府の成立]
 英仏戦争の終結後、植民地カナダを脅かしたのは、独立間もない隣国アメリカだった。国境線をめぐって、幾度も争いが繰り広げられ、1812年にはアメリカが英国に宣戦布告、英領植民地であるカナダへと侵攻した。
 1814年にようやく国境線が画定されたものの、しだいに強大になってゆくアメリカに脅威を覚えたイギリスは、それまでいくつもの植民地の集合体でしかなかったカナダを、1つの連邦としてまとめ上げようと考え始めた。1864年、ケベックで開催された「ケベック会議」において、連邦形成のための決議を採択。67年に英国議会が制定した「英領北アメリカ法」で、連邦政府の成立が決定した。これが現代「カナダ」国家の枠組みとなってゆく。

 [ケベックナショナリズム]
 17〜18世紀の、イギリスとフランスによる植民地争奪戦の結果、カナダはイギリスの支配下に置かれることになった。しかし、長くフランス支配下にあった東武のケベック州では、人々の使う言葉もフランス語であり、西部のイギリス圏とはあまりに文化も異なっていた。さらに、住民の懐柔を狙った英国が、フランス時代の制度などの存続を認める「ケベック法」を制定したこともあって、現在に至るまで、ケベックは他の州とは異なる独自のフランス系文化を築いている。
 1960年代には、教育改革や発電所の州営化などを通じて、経済をフランス系の人々の手に取り戻す「静かな革命」が進行。ケベックの文化的独自性を保持し、連邦から分離独立するべきだとする動き──「ケベック・ナショナリズム」が高まってきた。
 近年も、ケベックの独立を掲げる地方政党「ケベック連合」が総選挙で進出。1980年、1995年には、連邦からの独立を問う住民投票も行われた。いずれも独立派は半数に満たなかったものの、95年時は49.4パーセントという高い割合にのぼり、連邦政府に強い衝撃を与えた。ケベック出身の人々の中には、「カナダ人」と呼ばれることを嫌う人も多い。「どこの出身ですか」の答えはあくまで「ケベック」なのだ。

 [日系移民]
19世紀の終わり頃から、多くの日本人が移民としてカナダに渡るようになった。バンクーバー郊外のスチーブストンという町には、そのころこの地にやって来て定住した和歌山県の漁師たちについての資料が残っている。
 しかし、第二次世界大戦が始まると、「敵」国の血を引く日系移民は、カナダ政府によって抑圧を受けることになる。バンクーバー近辺にいた日系人も、沿岸部から遠い内陸地方に強制移動させられ、財産を全て没収された上で収容所へと追いやられた。戦争が終わった1945年当時、バンクーバーには一人も日系人はいなくなっていたという。
 戦後も、沿岸部への帰還が許されるようになった1949年まで、彼ら日系人の苦難は続いた。日本へと強制送還された人々も多い。1970年代後半からは、カナダ政府にこの強制移動への補償を求める運動も始まっている。

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