シンガポールの歴史
14世紀頃 トゥマセ国が成立 その滅亡後は漁民などが細々と暮らしていた
1819年 イギリス東インド会社のラッフルズが上陸、植民地経営に着手
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1824年 英蘭条約により近隣の島々や海峡に関するイギリスの領有権が認められる
1832年 英領海峡植民地に編入
1896年 海峡植民地が他の保護国と合併され「マレー連邦」に
1942年 日本軍がシンガポールを占領、「昭南島」と強制改名
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1945年 イギリスの直轄植民地に
1959年 総選挙でリー・クワン・ユー率いる人民行動軍が圧勝。英連邦内の自治州に
1963年 マラヤ、ボルネオとともに「マレーシア連邦」を結成
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1965年 連邦を脱退して独立国に
1970年代 「シンガポールの奇跡」といわれる経済発展
1990年 リー・クワン・ユーが首相退陣、ゴー・チョクトン首相誕生

 [「英雄」ラッフルズの上陸]
 それまで、わずかな数の漁民が暮らすだけの小さな漁村だった「シンガポール」に、初めて目をつけたのはイギリス人ラッフルズだった。
 当時のイギリス東インド会社は、さかんに中国から茶葉を輸入していたが、インドを出て中国へ向かうためには、オランダの支配する港で水などの補給をしなくてはならないため、莫大な停泊料がかかった。ラッフルズは、それに代わる補給地としてシンガポールに着目したのである。
 ラッフルズが植民地経営に着手し、街づくりを始めてから5年で、人口は1万人以上にまで膨れあがったという。1824年には、オランダとの間で条約が結ばれ、近隣の島々に対するイギリスの領有権が認められることになった。

 [日本軍政時代]
 1941年の太平洋戦争勃発以後、マレー半島を南下して侵略を進めた日本軍は、翌42年2月15日、当時イギリスの「要塞」だったシンガポールを陥落させて「昭南島」と改称し、軍政を敷いた。その直後から、日本の軍や憲兵隊が住民たちを広場に集合させ、「反日分子」と特定された人たちを海岸などに連行し殺害。この虐殺の犠牲者は5万人以上ともいわれる(日本の教科書の記述は6000人)。強制献金なども行われた。
 戦後、1967年になって、日本政府は5000万シンガポールドルの有償無償の経済援助を供与する協定に調印。戦後補償に関しては、いちおうの決着をみたことになっている。しかし、人々の心の傷が癒えたわけではない。

 [マレーシア連邦からの独立と経済成長]
 シンガポールが、英連邦の自治州という立場を脱し、独立を宣言したのは1963年のこと。ともに英連邦の一員だったマラヤ連邦、ボルネオなどとともに「マレーシア連邦」を結成する。しかし、華人が人口の8割近くを占めるシンガポールと、マレー人優遇政策をとる連邦政府との対立は深まるばかりだった。さらには連邦政府がシンガポールに財政負担の増加を求めてきたことも引き金になり、シンガポールは1965年、連邦を脱退して独立国となる。「半ば追い出されるような形だった」と見る向きも多い。
 しかし、59年に首相に就任したリー・クワン・ユーは、その強烈な個性と、強引ともいえる政策でシンガポールの経済発展を引っ張った。伝統的な中継貿易依存型の経済から脱し、工業化を推進。さらには積極的に海外企業を誘致すると同時に、金融市場の育成に力を注ぎ、華僑資本を国内に集中させた。これらの政策が効を奏し、シンガポールは「奇跡」と呼ばれるほどの経済発展を遂げることになる。

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