ギリシャの歴史
紀元前8世紀 都市国家アテネ成立
紀元前776年 第一回古代オリンピック
紀元前334年 アレキサンダー大王のペルシャ遠征
395年 ローマ帝国東西に分裂
ギリシャは東ローマ(のちのビザンティン帝国)の支配下に
1456年 オスマン・トルコ帝国、アテネを占領
1821年 ギリシャ独立戦争開始(〜1829年)
1912年 バルカン戦争
ギリシャはセルビア、ブルガリアなどとともにトルコと戦い、領土を拡大
1919年 ギリシャ・トルコ戦争(〜1922年)
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1940年 第二次世界大戦でイタリア軍が侵入
翌年にはドイツ軍も侵入し、国王は亡命
対独レジスタンス始まる
1946年 内閣、国王復位を決定
王党派と共産党の争いにより内乱発生(〜1949年)
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1960年 キプロスの独立
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1967年 陸軍将校による軍事クーデター
1973年 軍事政権が王制を廃止、共和制樹立
軍事政権反対の学生運動活発化
1974年 軍事政権崩壊
議会再開
翌年新共和国憲法制定
1981年 ECに加盟

 [ギリシャ・トルコ戦争]
 1821年に独立を果たしたギリシャは、ビザンティン帝国時代の領土回復をめざして、トルコ領土内に国土拡張政策をすすめた。1912年、13年のバルカン戦争と、つづく第一次世界大戦においていずれも戦勝国となると、トルコ本土の海岸の街スミルナに軍を上陸、占領を果たす。しかし当時のトルコでは、のちにトルコ共和国初代大統領となるケマル=アタチュルクが勢力を伸ばし、トルコは近代的な強国に成長しつつあった。彼の活躍により、ギリシャ軍は撤退を余儀なくされる。
 ギリシャの独立から小アジア侵出までの一連の動きはねギリシャ人によって主体的に行われたとは言い難い。そこにはイギリスを初めとした西ヨーロッパ諸国の思惑がからんでいた。ギリシャは古代からヨーロッパとアジアが出会う場所であり、そのために紛争が絶えることがなかった。ヨーロッパ先進国は古代ギリシャを礼賛するがゆえにギリシャを支援し、イスラム文化への蔑視ゆえにトルコに攻撃をしかけた。これはトルコの民族運動に火をつける結果となり、ギリシャ軍がスミルナから撤退した後に残されたキリスト教徒は、トルコ軍によって虐殺されたという。

 [第二次大戦後の内乱]
 第二次大戦中、ナチス・ドイツの支配下に置かれたギリシャ。強制収容所と拷問と銃殺での支配に抵抗して、多くのギリシャ人がレジスタンス活動に身を投じた。しかし、この地下抵抗組織ELAS(民族解放戦線)はあまりに強大になったため、大戦終結直前から解放軍としてギリシャに入ったイギリスにも、亡命先から戻ったギリシャ王を中心とする旧支配者層による新政府にも疎まれることになった。大戦後の東西対決が始まった時代で、ELASの中心であるギリシャ共産党が力を持つのを恐れたのである。アメリカも、ソ連圏になった東ヨーロッパ中ただ一つ残ったギリシャのため、10数億ドルという巨額の経済援助をつぎこんで新政府を助けた。左派は次第に追いつめられ、多くは東欧やソ連に亡命してゆく。そして1949年10月、内乱は終結した。
  その後もアメリカ軍はギリシャに駐留し続け、ギリシャは共産主義の防波堤としての役割を果たした。しかし、冷戦の終結により、皮肉にも国際関係に占めるギリシャの役割希薄になってゆく。

 [分断された島、キプロス]
 地中海の東の果てに浮かぶキプロス島。現在「キプロス共和国」となっているこの島は、その地理的条件のため、ときにはヨーロッパ圏となり、またときにはイスラム圏となる歴史を経てきた。
  1829年のギリシャ独立は、トルコ支配下でイスラム教徒と共存していたキプロスのキリスト教徒たちの間に「母なるギリシャにキプロスも統合されるべき」というナショナリズムを産みつけた。このナショナリズムは1879年〜1959年のイギリス支配の時代にさらに高まり、イギリス植民地支配に対する反乱、ひいてはトルコ系住民への攻撃という形を取った。
  1955年から続いた武力闘争は、1960年にギリシャ系大統領とトルコ系副大統領を置くキプロス共和国として独立することで一応の決着をみた。しかし、その後もギリシャ系とトルコ系住民の間の対立は続き、194年には島の総面積の37パーセントにあたる北部地域が「キプロス・トルコ共和国」として建国を宣言した。
  キプロス共和国の1997年の公式データによると、人口74万人の内訳は、ギリシャ系、マロン系、アルメニア教徒、ラテン人が合わせて85パーセント、トルコ系が12パーセント、外国人3パーセントとなっている。現在、ギリシャ系住民は南部に、トルコ系住民は北部にという住み分けがなされ、南北キプロスの境界地帯には、トルコ軍と国連キプロス国家警備隊が監視にあたるという緊張状態が続いている。

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