[三山分立の時代と琉球王国の成立]
12世紀頃から、各地に按司(あじ)と呼ばれる首長が現れ、群雄割拠の状態が続いていた沖縄本島。しかし、やがて弱い按司は強い按司に従えられていき、14世紀に入るころには、北山、中山、南山の3按司が勢力を競い合うようになっていた。彼らはそれぞれに拠点となる城(グスク)を築き、中国との貿易によって経済力をつけながら、さらに勢力争いを続けた。
しかし、15世紀に入ると、南部に現れた按司の尚巴志(しょうはし)が台頭。1429年には三山すべてを滅ぼして島の統一を実現し、琉球王国を成立させた。
[島津氏の侵攻]
琉球王国は、その統一後、三山分立の時代から貿易を続けていた明との関係をさらに深めていった。琉球から明へさまざまの貢物が船で運ばれ、明はそれと引き替えに中国の特産品などを与えるという「進貢貿易」朝献貿易は、琉球王国に多大な利益を与える。
この利益に目をつけたのが、徳川幕府と、その傘下にあった薩摩藩(現在の鹿児島県)の島津氏だった。島津氏は幕府の命を受けて、琉球に明との仲介役になることを要求。これを拒まれると、1609年に軍を率いて琉球に侵攻した。わずか10日間で降伏した琉球は、この後、対外的には「独立国」として明などと交易を行いながらも、実質的には薩摩藩に従属するという状態に入ることになる。薩摩藩の支配下では、厳しい差別や年貢の取り立てが行われ、経済的に困窮した琉球政府が、八重山諸島などに人頭税(土地の広さでなく人数に応じて税金を課すという制度)を課すなど、二重、三重の差別と搾取の構造が生まれた。
[琉球処分]
明治時代に入ると、日本政府は、それまで薩摩藩を通じて支配されていた琉球を、政府の直轄支配下におくことを画策。まず、1872年に、琉球王国を「琉球藩」として支配下に組み込み、さらに「説得」による琉球王国の解体が難しいことを知ると、79年に琉球に侵攻し、首里城を占拠して王国の解体と「沖縄県」の設置を通達した。
これによって、「日本の一地域」としての扱いを受けることになった沖縄だが、明治政府の扱いは決して「他の地域と同等」だったとはいえない。教育や経済面での施策はほとんどなされず、貧困に苦しんで島を離れる人々も多かった。また、沖縄に伝わる文化は下等なものとされ、うちなーぐち(沖縄のことば)での教育が禁止されるなど、「日本文化」の押しつけが行われた。
[戦後の沖縄と米軍基地]
第二次世界大戦末期、日本の中で唯一地上戦が行われた沖縄は、1952年、日本がサンフランシスコ講和条約によって完全独立を得たあとも、米国の支配下におかれることとなる。この支配下で、米国は「土地収容令」を出して半強制的に沖縄の土地を収用し、多数の米軍基地を建設。ベトナム戦争の際にも、多くの爆撃機が沖縄の基地から飛び立った。
そして、「復帰」の声が高まる中、1972年にはようやく日本への復帰が実現。しかしその後も米軍基地は残されたままで、2003年現在においても、県の面積の約1割は米軍基地が占めている。これは、日本全体の米軍基地の約75パーセントにあたるという。1996年には日米基地協定に関する県民投票が行われ、89パーセントが基地縮小に賛成という結果が出たが、基地の返還は遅々として進まないまま。「基地のない島」への道のりはいまだ見えていない。 |