[カスティーリャ・スペインの誕生]
12世紀、地中海貿易の最大拠点として栄えたカタルーニャ王国・バルセロナ。カタルーニャは地中海への勢力拡大政策を進めていたアラゴン王国と合併し、勢力を飛躍的に広げた。その貿易圏は全地中海におよび、バルセロナでは、ジェノバなど外国からの商人が多数行き来する姿がいつも見られたという。
しかし、15世紀に入ると、アラゴンとカスティーリャ王国の接近が始まる。1469年、カスティーリャ女王とアラゴン皇太子が結婚。スペインの中心はカスティーリャ、そしてその中心地マドリードへと移ってゆく。コロンブスのアメリカ大陸到達をきっかけに、新大陸との貿易を中心とする「大航海時代」に突入したことも大きな影響を与えた。バルセロナを支えた地中海貿易は縮小の一途をたどってゆく。「カスティーリャ・スペイン」にあってカタルーニャの繁栄は「過去の栄光」になろうとしていた。
[悲劇の一週間]
17世紀以降、カタルーニャの民衆は幾度となく独立を求めて立ち上がった。しかしこれはいずれも成功せず、カタルーニャ語の使用が禁止されるなど、さらに抑圧が強まるという結果に終わっている。
20世紀に入っても、民衆の願いは変わらなかった。1909年、当時スペインの植民地であったモロッコの鎮圧のため、スペイン政府が徴兵制を実施すると、バルセロナはこれに反対のゼネストで応じる。19世紀頃から、バルセロナは繊維工業の中心地となり、スペインの労働運動の中心地としての顔も併せ持つようになっていたのだ。一週間続いたこのゼネストを、政府は戒厳令を布告して鎮圧。その後の弾圧はすさまじく、多くの人々が犠牲となった。のちに「悲劇の一週間」と呼ばれた7日間だった。
[スペイン市民戦争]
1936年2月の総選挙によって誕生した人民戦線政府は、大土地所有制度の解体などの農地改革、初等および中等教育の充実、宗教の自由、国会と教会の分離などを定めた宗教改革を進めた。2年前に廃止されていた「カタルーニャ自治法」も復活し、カタルーニャには再び自治権が与えられる。しかし、これらの政策は、教会、地主、そして軍部などの強い反発を生んだ。
そして選挙からわずか半年後の7月、フランシスコ・フランコ将軍率いる反乱軍が、スペイン領モロッコで蜂起する。スペイン市民戦争(スペイン内戦)の始まりだった。この戦争は、のちに「国際内戦」とも言われたように、地理的にはスペイン国内だけを舞台としながら、フランコ将軍側にはイタリア、ドイツのファシスト政権が、そして共和国政府側にはソ連がそれぞれ援助をおこなうなど、国際社会を巻き込んでゆくことななった。さらには、世界中から数万人が外国人義勇兵となって「国際旅団」に参加、共和国政府側に立って戦ったという。なかには、のちに「カタロニア賛歌」を著すジョージ・オーウェル、「誰がために鐘はなる」の著者アーネスト・ヘミングウェイもいた。
[フランコの独裁政権]
スペイン市民戦争が長びくと、共産党系と非共産党系の争いなど、共和国政府側の足並みは乱れた。1939年1月にはバルセロナが、3月にはマドリードがフランコ将軍側によって占領され、4月、フランコは「内戦終結」を宣言する。
その年フランコは、スペイン全土に軍事独裁体制を成立させる。敗北した協和派は、徹底した報復を受け、殺され、投獄された。さらに、カタルーニャやバスクなど「自治」「独立」を求める人々も激しい弾圧の対象となった。カタルーニャ語の書物は焼かれ街路や街の名前はカスティーリャ語(スペイン語)に変えられる。
60年代はじめになって、ようやくカタルーニャ語を公用語とすることが認められたものの、自治権の復活には、フランコの死とそれに伴うスペインの民主化を待つ必要があった。 |