アカプルコの歴史
紀元前1200年 メキシコ湾岸地方の低湿地帯に、メキシコ最古の文明といわれる「オルメカ文明」が生まれる。
これを母体として、ティオティワカン、マヤ、アステカなど、数多くの文明がメキシコ全土で生まれ、栄えた
1492年 スペインの支援を受けた探検家・コロンブスの第一次航海。
現在のバハマ、キューバなどに到着
1517年 スペインのキューバ提督ヂィエゴ・ベラスケスらが現在のメキシコ・ユカタン半島に到着
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1519年 スペインの遠征隊がベラクルスに上陸、2年後アステカ王国を征服
1810年 メキシコ独立戦争
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1821年 コルドバ条約、メキシコ独立
1846年 米・メキシコ戦争、48年の講和条約でメキシコは国土の約半分を失う
1864年 フランスがメキシコシティを占領、以後3年間フランスによる支配が続く
1910年 メキシコ革命
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1995年 チアバス州サバティスタ民族解放戦線が蜂起
2000年 大統領選で野党国民行動党のフォックスが当選、71年にわたる制度的革命党の一党支配が終わる

 [エルナン・コルテスとアステカ王国征服]
 コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したそのころ、アステカ王国が強大な権力を築き上げていた。ヨーロッパ人として初めてこの地に踏み込み、王国を制圧したのが、スペイン人エルナン・コルテスである。キューバ総督ベラスケスの部下だった彼は、ベラスケスの制止を無視して、遠征隊長としてメキシコに渡った。彼は、そこに暮らす先住民にスペイン王国への忠誠とキリスト教への改宗を迫り、従わないものは容赦なく武力で制圧していった。1521年、最後のアステカ王が捕らわれの身となり、アステカ王国の歴史は断ち切られる。一瞬にして3000人が殺害されたという「チョルーラの虐殺」をはじめ、アステカ人以外にも多くの先住民が犠牲となった。
 この後、多くのスペイン人がメキシコに移住、メキシコの植民地化は急速に進んでいった、スペイン人は、アステカ時代の建造物を破壊し、スペイン調の街を建設、キリスト教への回収も強制され、抵抗したものは次々に処刑された。伝染病の流行、苛酷な強制労もあいまって、先住民族の人工は激減。1519年には約2500人だった彼らの人口は、1625年には約100万人になっていたという。

 [メキシコ独立戦争]
 18世紀後半のメキシコでは、スペインからの独立を求める動きが大きくなった。その中心となったのがクリオーリョ(メキシコ生まれのスペイン人)である。発展するメキシコ経済の中核を担う彼らは、ヨーロッパから流れ込んでくる啓蒙思想に大きな刺激を受け、「メキシコ人」としての自覚を強めていった。1808年、本国スペインがナポレオンによって征服され、王室とその代理人・副王の権威が失墜すると、独立への気運は一気に高まる。
 火蓋を切ったのは、クリオーリョとして生まれながら、先住民族の生活向上に奔走していたイタルゴ神父だった。教会で信者たちに武装蜂起を呼びかけて出発したとき、彼に従ったのはわずか600人。その数は見る間に増え、数日のうちに約10万人にまでふくれあがった。しかし、イダルゴ神父は1811年に、そしてその後を継いだモロレス司祭も1815年に敵の手に落ち、それぞれ処刑される。
 メキシコに結果的に「独立」をもたらしたのは、皮肉にも独立派を苦しめた副王軍から寝返ったイトゥルビデ大佐だった。クリオーリョの保守派やカトリック教会を味方につけた彼は1821年、副王との間に「コルドバ条約」を交わし、独立を認めさせた。1836年には、スペイン本国もメキシコの独立を認めた。
 しかし、現在メキシコ国民が祝う「独立記念日」はコルドバ条約の日ではなく、いだるご神父が蜂起した9月16日のほうである。

 [メキシコ革命]
 独立後も保守派と自由主義派の対立が続いたメキシコは、内戦と外国の侵略に苦しむことなった。「建国の父」といわれるベニト・ファレスは、教会権力を解体し自由主義憲法を発布するなどの一連の改革(「レフォルタ改革」)を実現したが、彼の死語権力を握ったディアス大統領による独裁は、ふたたび経済を悪化させる。
 もと大統領候補でアメリカに亡命していたフランシスコ・マデロの呼びかけに応えた農民たちが立ち上がったのが、メキシコ革命の始まりだった。ディアスは辞任してパリに亡命、帰国したマデロは大統領に就任するがわずか2年半で暗殺される。
 その後も、革命政府内での対立は続き、政情は混乱を極めた。ディアス以後1928年までに大統領をつとめた9人のうち、3人が暗殺され、その他も全員争いに敗れた国外亡命という運命を辿っている。

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