国名
 クロアチア共和国 Republic of Croatia

ことば
 クロアチア語
・歴史
 924年にクロアチア王国が成立、のちハンガリーの支配下に。オーストリアとの二重支配を受けた後、19世紀、自治権を獲得。1918年に「セルビア人クロアチア人スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)」の一部として独立。第二次世界大戦中は、ドイツやイタリアの分割統治下に入り、ナチスの後押しを受けて民族主義が台頭する。そのなかで、チトー率いるパルチザン(抵抗運動)が、全民族の平等と協力による統合を訴えて民意を獲得。戦後、チトーを大統領とする「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が成立した。
 内部に6つの共和国を抱える「多民族国家」はしかし、チトーの死をきっかけに崩壊。91年、スロベニア、クロアチアが独立を宣言したのを皮切りに、あちこちで民族紛争が泥沼化する。クロアチアでも、人口の2割近くを占めていたセルビア系住民との間で何度もの戦いが続いた。

自立を目指す女性たち
1991、92年の旧ユーゴにおける内戦で、難民となって故郷を追われた多くの女性たち。私たちが訪れたNGO「DESA(デシャ)」は、そんな女性たちの経済的自立をサポートするため発足した。その活動内容や現在に至るまでを聞き、職業訓練のひとつとして行われる機織りにも挑戦。内戦の被害から立ち直り、そして社会へ進出してゆこうという女性たちの姿を垣間見ることができた。

ボスニア・ヘルツェゴビナへ
深い青色の川、そして石畳の街並みの美しい街、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルは、かつての内戦時に最も激しい戦闘の行われた地域。内戦が終わり5年たった現在も、その修復作業はほとんど進んでいない。当時の様子が生々しく残る街並みを歩いた。

チリピ村の子供たち
かつての旧ユーゴ内戦で大きな被害を受けた、ドブロブニク近郊、コナブレ地方にあるチリピ村を訪れました。
そこで私たちを迎え入れてくれたのは、一度は全壊し、後に日本政府の協力により復興されたチリピ小学校のかわいい子供たち。大縄飛びにドッチボール、そしてフォークダンスなど、気持ちはすっかり幼少の頃に戻って大はしゃぎの交流となった。

ふだん着の家庭訪問
26世帯約120人が住む山あいの農村リュバチで、クロアチア人家庭におじゃましてみようというコース。
リュバチは、春には山々に赤や黄色の花が咲き乱れ、夏の観光シーズンには週に1組は観光客が訪れるという美しい村。現在は秋のまっさかりで、雨がよく降る季節とのことでしたが、この日は快晴に恵まれました。
ジャガイモやキャベツなどの野菜やハーブを栽培し、山羊や牛を飼い、その乳でチーズを作る。そんな農業や酪農共に観光業も営むメディッツァさん宅を訪れました。
クロアチア音楽の演奏に耳を傾けながらのランチに続いて、お父さんとお母さんがクロアチアの民族ダンスを披露。ポルカにも似た、ヨーロッパで最もダイナミックな踊り。その衣装は、戦いの時の鎧でもあったものだとか。近所のおじさんによる演奏のリズムにあわせて一緒に手拍子すれば、気分はすっかり陽気なクロアチアン。
(平野)

ロプッド島とオイスター三昧
朝日を浴びながらのアドリア海クルージングの後、到着したのは、面積およそ5平方キロメートル、ひょうたんの様な形をしたロプッド島。
ローマ支配下時代はローマの水兵が多く住み、16世紀にクロアチア人が住み始める以前はギリシャ人が住んだというこの島。白い砂浜のビーチで泳いだり、美しい景色を前に絵を描いたりと思い思いに時間を過ごしました。
そして、お待ちかねオイスターランチは、ヨーロッパで1、2を競うオイスターの名産地、そしてワインの名産地でもあるマリ・ストンで。大皿に盛られた新鮮なオイスターは、サーブされてビックリの1人前18個。ところがそんな躊躇もつかの間、レモンを搾ったあっさり味のオイスターはあっという間におなかの中へ。アドリア海の美しさとともに、その豊かな恵みを味わって、大満足の1日でした。
(平野)

中世城郭都市を散策
“アドリア海の真珠”と呼ばれる美しい港町、ドブロブニクを満喫するコース。
港からバスで15分。城壁に囲まれた旧市街へ。オレンジ色の屋根に白い石造りの建物、大理石の敷かれた道、パイプオルガンの音色を響かせる教会など、貿易都市として発展を遂げた中世そのままの街並みが広がっていました。
世界遺産にも登録される、この見事な街並みも、クロアチア独立戦争の際には旧ユーゴ連合軍による爆撃で多大な被害を受けたといいます。今では修復が進み、再び昔の面影を取り戻した街並みをゆっくり散策しました。
(小野寺)

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