6月27日
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パレスチナ難民キャンプ訪問
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クルーズ参加者の中から有志が集まって、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人難民キャンプを訪問した。今なお続くイスラエル・パレスチナ問題を、肌で感じる時間となった。
つい20日前にイスラエル軍から砲撃を受けたばかりの家々を見て回った。その村「ベイトジャラ」は、谷を挟んで、ユダヤ人入植地「ギロ」と向かい合わせている。ベイ トジャラが聖地の一つである「ベツレヘム」の中にあるためにイスラエル側は日夜、戦車やヘリコプターを使って砲撃をおこなっている。私たちが見て回った家は、今は誰も住んでいない。住民たちはイスラエルからの攻撃に耐えかねて家を捨てざるをえなかった。このようにしてパレスチナ人を追い出して、後から入植地を建てていくのが、イスラエルのやり方なのだという。
ヨルダン川西岸地区にあるパレスチナ人難民キャンプの1つ「デヘイシャ難民キャンプ」に向かう。ここができたのは、第一次中東戦争が始まった1948年。現在、約1万1千人の難民が暮らしているが、そのうちの6千人がこの難民キャンプで生まれた子供たちだ。彼らは自分の故郷を見たこともない。
遠くから見ると、「難民キャンプ」という言葉からは想像がつかないほど建物は立派に見える。しかし実際は一部屋に家族全員が一緒に眠っていたり、インフラ整備が満足に整っていなかったりもする。ここは53年もの間続いている、まさに「難民キャンプ」なのだ。
かつてこの難民キャンプに入るためには、イスラエル兵による検問を通らなくてはならなかった。この入り口は、難民たちをひとりひとり通すためにイスラエル側が設けたもの。今では使われていないが、その時の無念さを忘れないためにこの門だけは残してある。
家の壁には紛争の様子を描いた絵がいくつも残っていた。手を挙げているパレスチナ人をイスラエル兵がねらっている。「What did he do?(彼が何をしたの?)」という言葉が添えられている。
最初のインティファーダが始まって、初めて殺された子ども。そのころは学校に壁はなく、紛争が始まって教師たちがインティファーダに参加しようとすると、子供たちも一緒に飛び出していったそうだ。今でも子どもたちは、親に内緒でインティファーダに参加している。イスラエル兵に石を投げることが彼らのちょっとした冒険であったり、勇気試しであったりしているのだという。
元気に遊ぶ子どもたち。難民キャンプには学校が2つあるが、校庭など彼らが遊べる場所はない。そのため子どもたちは通路で遊んでいる。パレスチナの子どもたちは明るい。どん底まで追いつめられた彼らは笑うしかないのだという。
UPA援助チーム、ピースボール、チームユネスコが協力しあい、キャンプに住んでいる人達にメッセージを届けた。私たちが彼らの下を訪れたことで何が変わるわけではないのかも知れない。しかし少しでも彼らを励ますことが出来たのではないだろうか。参加者の中からは、「日本に帰ったら何かアクションを起こしたい」という声も上がっていた。
船内に帰る途中でイスラエル軍による検問にあった。パレスチナの車のナンバープレートはイスラエルのものとはデザインが違うので、簡単に識別できる。パレスチナ人の車ばかりが止められて検査を受けていた。
(磯部弥一良・森一成)
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