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ガザで出会った子どもたち[パレスチナ] |
ガザ地区内、アル・アザハール大学にて。学生たちの政治グループとの討論会[パレスチナ] |
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イスラエルへの抵抗運動に身を投じて投獄されたという男性の話を聞いた。家族が殺された人も少なくないという[パレスチナ] |
パレスチナ自治政府本部も訪れた[パレスチナ] |
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ペヤにある女性団体のメンバー。いまだ行方不明の夫や息子について語ってくれた。セルビアの刑務所に囚われているか、遺体として発見されるケースも多くある[コソボ] |
女性たちの体験談に耳を傾ける地球大学生。戦争は終わったといえ、傷跡はまだまだ深い
[コソボ] |
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ペヤにあるマザーテレサ病院を訪問。募った義捐金を院長に贈呈した。医療器具や医薬品はまったく患者に足りていない[コソボ] |
少しずつ活気を取り戻すペヤのマーケット。KLA(コソボ解放軍)の本拠地のあったペヤはセルビア軍の激しい攻撃を受けた[コソボ] |
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ペヤ市長を訪問。
(前から3列目中央がペヤ市長)[コソボ] |
ペヤの中心にあるホテル。現在は、NATO(北大西洋条約機構)のイタリア軍が基地として占領
[コソボ] |
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遠くから見るとキノコのように見えるパラボラアンテナ。インフラ整備が進んでないコソボでは、地上ケーブルを使用しない衛星利用が普及しやすい[コソボ] |
コソボ西部にあり一番被害の大きかったユニック村。村の代表にサッカーボール、ボアコートを手渡しした[コソボ] |
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アルバニア系住民のお祈りの場であったイスラム教モスク。改修工事に必要な資金がなく、放置されたままになっている[コソボ] |
黄色いテープには"MINES"と書かれている。ピースボートが訪問した日にも1人が地雷の犠牲となった[コソボ] |
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戦時中、セルビア軍の通過を妨げるためにNATO軍が空爆した橋。のちにNATO軍によって再建された[コソボ] |
ジャコバにある行方不明者・拘留者協会のスタッフ。手に持つのは故郷に帰れない人たちの写真入ファイルで、赤十字などの国際機関と協力して、身元調査をすすめている[コソボ] |
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ジャコバ市内の広場。名前が書かれたアルバニア系住民の行方不明者のブロック[コソボ] |
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のビニールシートにもいろんな用途が。各国政府の援助により、マーケットの再建工事が急ピッチで進められる[コソボ] |
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ホームステイ先で折り鶴交流[コソボ] |
セルビア軍によるアルバニア人強制連行の場に居合わせた女性。当時の状況を涙を浮かべながら語ってくれた[コソボ] |
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セルビア正教教会の牧師。コソボ内ではマイノリティーとして生活するグラチャニッツァのセルビア人たちを訪問した。「牧師としてこの教会を離れるわけにはいかない。共存は可能だ」[コソボ] |
首都プリシュティナにあるUNMIK(国連コソボミッション)本部で勤務する岡村さん。「皆さんなら国連がコソボで何をすべきだとお考えですか?」と先の見えにくいコソボ問題についてスライドを交えながら説明してくれた[コソボ] |
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日本の憲法9条を刻んだ碑がある「ヒロシマ・ナガサキ広場」を持つテルデ市。集まってきた市民たちと、文化を紹介しあう交流会を開いた。まずは折り紙から[カナリア諸島] |
Photo 鎌田 遵 |