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「私にとっては、今がしあわせなときで、平和な日だと思います。」
これは、10年前の私が書いた平和についての作文のラストである。
その夏、私は清瀬市のピースエンジェルズとして広島へ派遣された。
初めての新幹線、初めての広島、内心わくわくしていた。しかし、平和記念館で私を待っていたのは楽しみにしていた旅行とは全く別のものだった。皮膚がとけ、髪が抜け落ち、体中に斑点が出来た人々の写真は、若干10歳の私にはあまりにも受け入れがたく、心に大きくのしかかった。
平和記念式典の参列で聞こえた何十万人もの人のすすり泣く声、「ごめん、ごめん」と石碑にすがりつきながら泣くおばあさんの姿、涙ながらに被爆体験を語る被爆者の「アメリカが憎い」という憎悪の目、その全てが、幼い私に「こうなったのは全てアメリカのせいで、アメリカが悪いのだ。」という概念を与えた。
しかし、とても良くしてくれる親のアメリカ人の友人たちが悪人には見えず、私の心の中に「本当は一体誰が悪いのか、この悲しみは誰のせいなのか。」という疑問が生まれた。日を追うごとにその疑問は大きくなり、私は、日本にいても答えは見つからないと思い単身アメリカの高校へ留学することに決めた。
留学先は、東海岸の高級住宅地、ホストファミリーは韓国系アメリカ人だった。学校の生徒の大半は白人、アジア人は韓国人ばかりで、日本人は私一人。白人主義者たちが黒人を蔑み、韓国系アメリカ人と移民韓国人とが常に対立していた。
歴史の授業の最初の日、渡された辞書くらい分厚い歴史教科書。原爆の話はどこにのっているのだろう、と思いページをひらいたが、ひらいてもひらいても見つからない。
やっと見つけた原爆投下の話は、1ページの半分もなかった。広島で見たような、なまなましい写真の代わりに小さな日本地図に広島と長崎の場所が示されているだけだった。先生がそのページについて説明したのはほんの一瞬「アメリカが日本に原爆を落としました。そして、アメリカが勝ちました。」どのくらい犠牲になったのか、その後被爆者がどうなったのか、その日にちすら、説明されなかった。
その授業の1年間のうち内容の大半は、パールハーバーとKKKについてだった。
「日本では、パールハーバーをどう教えているの?」
先生の何気ない質問に、パールハーバーについて何も知らなかった16歳の私は、正直に「こんなに詳しく教えない」と答えた。すると、一瞬教室が冷たくなり、途端、クラス中がざわめきだしてみんな私に向かって意見をぶつけだした。「なぜ?!あんなひどいことをしたのに。」「日本はまだ反省してないんだ。」「何の罪もない人達を警告もなしに殺した。それも大勢。」
その言葉は、冷たく、怒りと憎悪がまざったあの広島で見た目をしていた。
そのとき突然あの広島で見た写真がフラッシュバックして、怒りと疑問が込み上げてきた。「うるさい!あなた達だって、日本に原爆を投下したじゃない!警告もなしに。それも2回も。それなのに、被害者ぶって、あまりにも自己中すぎる。」私は、必死に冷静を装いながら、心がそう叫んでいるのを感じた。そして自分が憎悪でいっぱいになっているのを感じた。
そして、戦争の始まりを痛いほど感じた。
その授業の期末テストで「パールハーバーについてどう考えるか述べなさい。」という問題があり、私は、自分が前に授業で思ったことを全て書いた。
そして、その翌日、校長室に呼び出された。
そこには、怒った校長先生と私の解答用紙を持った不機嫌そうな歴史の先生と困った顔の日本語の先生がいた。結局、私に発言の余地はなく、留学生の私の英語力不足という理由を日本語の先生が押し通し、その場は何事もなかったように終了した。
その日、帰宅すると学校から連絡を受けたホストファミリーが、バツが悪そうに私を待っていた。彼らの質問に「本当の思いを書いただけ。」と言い張る私に当時不仲であったホストシスターは、「なぜ反省しないのか。日本人は野蛮で戦争が好きって有名。韓国は何もしてないのに、日本は、韓国をバラバラにして、多くの女性をレイプして、名字も名前も言葉も変えさせた!なぜ侵略したの?!確かに私たちは、広島に原爆を落とされた日を知らない、でも、あなたはパールハーバーがいつか知っているの?韓国に何をしたか知っているの?」
そう言って、目に涙をためながら私を睨む彼女に、私は何も答えられず、立ちすくみながら、戦争の残した傷跡をただただ感じて涙を堪えていた。
次の日のランチタイム、全校生徒が集まるカフェテリアで私の話をホストシスターから聞いた学校中が私を非難の目で見た。耐えられなくなり、トイレに逃げこんだ。トイレでサンドウィッチを食べているとき、昨日言われたことを思い出してハッとした。私は、何も知らなかった。真珠湾が起きた日も何人犠牲者が出たのかも。なのに、いつの間にか被害者ぶって、辛いのも可哀想なのも全部自分だけ、唯一の被爆国の日本だけになっていたのだ。
それから、私はアメリカと韓国の日本との関係についての真実の歴史を知るため出来る限りのことをした。歴史についてのアメリカの本をよみあさり、日本の本に乗っている内容と照らし合わせてみたが、真実である確信がなかったために、戦時経験のある友達のおじいさんなどに頼んで話を聞くことにした。
ある人は、怒りながら、ある人は、泣きながら、自分の戦時経験を話してくれた。英語の話せない移民の韓国人のおばあさんの話を理解するために韓国語も勉強し、元慰安婦であった人にも話を聞けた。彼女には最初、日本人には会いたくないと門前払いをされたが、友達の説得で話を聞かせてもらえた。教科書にはのってない真実を目の前に、私は気づくと泣いてしまっていた。話し終わったあと、彼女は私の手を取り「ありがとう」と日本語で言ってくれた。
そのとき、本気で真実を知ろう、理解しようとする力が世界を平和へと近づけるのだと感じた。
そうやって何十人もの人の心に触れた私は一つのことに気づいた。誰もが、『被害者/加害者』であるということだ。戦争は、誰のせいでもなく、「もっと」という人間の欲のせい。それを高校卒業テーマとしてまとめ発表し、見事成績優秀者として卒業することが出来た。驚くべきことに、その発表会で一番に拍手してくれたのは、あの不仲だったホストシスターだった。
真実を語るべき歴史の教科書は、その国の良いように加工されていて、その加工された教科書は、人々に色眼鏡をかけさせる。同じ平和を願うには、色眼鏡から見る世界は国によってあまりにも違いすぎる。小さな意見は英語力不足として、かき消され、小さな私は、反省しない日本人として非難された、あのアメリカでの経験は私にその色眼鏡の取り方を教えてくれた。そして、アメリカ、韓国、日本の3カ国に挟まれた高校生活は、私の視野と興味を世界へと開かせた。
あの作文を書いた10歳の頃私は、自分の周りで戦争がなく、何不自由ない生活をしていればそれが「平和」だと思っていた。
あれから10年、大学生になった今、私の心は世界へと向いている。
知らなかったではすまない真実がある。
教科書にはのってない大切な真実がある。
将来、あの憎悪の目をする人が一人でも減るように、私は、知りたい。教科書の世界にはない真実をこの目でしっかりと見たい。分かり合いたい。そして、教室では学べない大切なものをピースボートの一員として学びたい。こんな小さな私だけの力では、世界は平和にならないかもしれない。どうにもならない、無理だ、と諦めたくない。
私は、あの日もらった「ありがとう」を決して無駄にはしない。 |
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