第3回「旅と平和」エッセイ大賞・大賞受賞作品
私はもっと世界を愛したい。/山本なお子さん
 将来は核兵器廃絶に携わる仕事を。
 ヒロシマ・ナガサキの声を世界に。

 これが今の私のすべて。2年前の夏、熱いヒロシマで私の人生は大きく変わったように思う。それまでは理学部で数学を学んでいた。今は“国際関係”学部生。この私の中に深く根付く思いは、ヒロシマ・ナガサキで得た感情のみに因っている。しかし、私がこの平和への願いを世界規模に広げる時、そこに、ヒロシマ・ナガサキだけでなく、世界に対する感情、愛がなくてはならない。今の私は、愛するほど世界を知ってすらいないのだ。

 2006年8月、私はヒロシマにいた。ひょんなことから全国から学生が集まり、平和について話し合うPeace Now! Hiroshimaの実行委員をやっていたからだ。実行委員一人ひとりがヒロシマ、ひいては平和に関するテーマを持ち、それに沿ったフィールドワークを構成し、参加者が興味を持ったフィールドワークに参加し、8月6日を含む5日間をヒロシマで過ごす、という企画だった。私も自分なりのテーマを定め、それまでの約3ヶ月間、試行錯誤しながらも自分なりにフィールドワークを組み立てていた、つもりだった。後から思ってみれば、その頃の私は、まだヒロシマに心が入っていなかった。いろんな本も読んだ。ビデオも見た。去年実行委員をやった先輩にも話を聞いた。ただ、それら全ては、ヒロシマではなく、瀬戸内海を隔てた四国は愛媛県でやっていたのだ。何度か実行委員会議のために広島に足を運んだこともあった。しかし、2、3回の一泊二日の広島の旅では、ヒロシマを本当に知ってはいなかった。うわべの平和、知識だけのヒロシマ、私はそれらをこねくり回していただけだったのだ。

 私が本当にヒロシマを知った日。私のターニングポイントは、開催日が翌日と迫った、8月3日だった。その日、私は自分が担当するフィールドワークの最終調整に追われ、ヒロシマの地を汗を流し、ひたすら走り回っていた。そんな時、街中でビラを配っている人たちを見かけた。この時期のヒロシマでは珍しい光景ではない。自分のフィールドワークに役立てばと、単純にそう思い、1枚受け取った。「原爆の詩−峠三吉展」。詩か、新しい視点だな、そう思い少し立ち寄ってみることにした。原爆資料館で見たのと同じような写真。ただそこには、自身も被爆者である峠三吉の詩が添えられていた。焼け爛れた女性の写真の横に、「人間をかえせ。」という言葉。私は泣いていた。自分が歩いたあの道で。さっき見てきたあの建物で。この人は死んだんだ。こんな姿で。次の写真に目を写すのがこわかった。私が涙を浮かべているのに気付いた一人のおばあさんが私にハンカチを差し出してくれた。「私も被爆者なんよ。」心の中で何かが決壊し溢れた。そして、そこで初めて被爆者の人から直接話を聞いた。涙が途切れることはなかった。嗚咽も混じり、その場にいた人たちが私を見ているのがわかった。それでも止められなかった。どうして自分がそんなにも泣いてしまったのかは、今でもうまく説明が付かない。ただ涙があふれて、感情があふれてどうしようもなかった。ただ強く、被爆者の人の気持ちが、心がわたしの心にストッっと入った。その時その被爆者の方が私に向けて放った言葉一つ一つを私は未だに忘れられない。

 「絶対に伝えてください。次の世代に、世界に。」

 どうにかしたい。ただ、ただそう思った。そう思ってしまったら、もう、後には引けなかった。フィールドワークは一から作り直した。私がわかったつもりでいた広島はヒロシマにはなかった。私のフィールドワークはあまりにも薄っぺらかった。ヒロシマの地を自分の足で歩き、目で見、肌で感じ、そしてそこに生きる人たちの声を聞いた後では何もかもが変わっていた。

 熱い熱い4日間を終え、夏休みを考え抜き、私は理学部をやめた。もう後には引けなかったし、引きたくもなかった。そして、その思いだけを頼りに勉強し、今の大学に入った。2年たった今でも、あの時私に根付いた感情はやはり今となっても一向に枯れる気配はない。彼らの話を聞いた私には、伝える責任がある。伝えたい。もう誰にもあんなことは起きてほしくない。地球上でもう二度と核兵器が使われませんように。

 しかし最近、私は自問するようになった。
 なぜ?なぜ私はそう願うのか?私がヒロシマ・ナガサキの被爆者の話を聞いて涙を流したのはなぜなのか?

 ただの感情移入?情?

 もちろん情が悪いとは思わない。むしろ私は、その“情”の面から平和、反核を唱えていきたいと思っている。理論的にやるのなら理学部でもできた。そういう方向から攻めるのなら科学の知識こそ役に立つだろう。でも、そうじゃなくて、私は、人々の感情、道徳に訴えたいと思った。そういう角度から平和を探っていきたいと思った。

 ただ、ヒロシマ・ナガサキのみに限らず世界規模で平和を望む時、そこには、世界に対する愛が必要だと感じるようになった。私がヒロシマ・ナガサキの被爆者の人たちに感じたような情を世界に対してもっていなければ世界平和は望めない。

 しかしだ。そう考えたときに次なる疑問に直面した。
 果たして私はちゃんと世界を愛せているのか?

 大学では、国際関係論や各国の文化、歴史、政治や経済など幅広く勉強している。私の大学はなかなかユニークで、教師はほとんど外国人、授業はすべて英語。キャンパスにいる学生の4分の1は留学生。この1年と半年ほどでセカイについていろいろ学んだ。いろいろ知った。確かに着実に知識は付いてきている。

 しかし、書籍から得た知識や人づてに聞いた情報で、世界を愛せるだろうか?

 私がヒロシマでやったように、地球中で、汗を流して自分の足で歩き、自分の目で見つめ、自分の耳で聞く。その土地に生きる人々と交わる。楽しい思い出ばかりじゃなくっていい。美しくなくてもいい。ただ、地球をリアルに感じられればそれでいい。そうやってこそ世界が自分と初めて繋がって、情が生まれるのではないだろうか。そうやってこそ初めて世界を本当に愛せるのではないだろうか。そして、だからこそ世界が平和であることを望めるようになるのだと私は思う。

 私はもっと世界を感じ、愛したい。
 しかし、それが果たして本当に愛すべきものなのかどうか、守る価値のあるものなのか、私は確信を持つことができない。自分の信念を確かめ、鍛えなおさなければならない。

 そのためにまず世界を知る必要がある。テレビや書物を通した知識ではなく、自分で体感しなければならないと今思っている。そしてそれは短期間で出来ることではないだろう。その土地について前もって知識を得、思いをはせ、実際に目で見る。そして、その後自分の中で見て聞いて感じたことに考えをめぐらせ消化しなければならない。そういう意味において船という場は最高のフィールドであり、旅の手段だと思う。海上を漂う船の上で膨大に流れる、果てしないとも感じられるような時間。飛行機などでは感じられない国と国、人と人を隔てる距離。人生においては一瞬ともいえる人との交わり。その人たちから得られる刺激。船という、自分の観念を鍛えてくれるフィールドの上で私は世界を旅し、世界を直視し、自分の信念を確かめたい。世界を、船で、旅してみたいのだ。

 私は世界を愛せるのか。世界は平和を望む価値があるほどの場所なのか。そこに暮らす全ての人々の幸せを私は、心から願えるのか。私があの時流した涙何を意味するのか。あの涙は世界にも通用するのか。
 私は100日間にわたる旅の間でそれらを自問自答し続け、そして、人々と意見をぶつけ合わせたいのだ。

 答えがNOであってもいい。仕方がないではないか。
 私はそういう人間であったというだけのことで、世界はそのようなものであったということだ。少なくとも、今の私、今の世界、今回の旅においては。本当の世界を見て崩れてしまうような信念なら、私はいらない。持っていても役に立つはずなんて無い、社会に出てより多くの知識を得るたびそんな信念は崩壊していくだろう。

 だからこそ、私は、今、世界を知りたい。
 いいところも悪いところも。

 その上で世界を好きになり、この世界は守る価値があると思った時、今の私を支えている思いはより強固なものになるだろう。その時こそ私は、この信念を私の人生の道しるべ、目標として生きていけると、強く信じている。
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