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「あなたに出会えて嬉しい。そういう気持ちを持つことが、平和へとつながっていく。」
先日、ある先生がそういう話をしているのを耳にしました。人と人との出会いには、偶然もあれば、必然性のあるものもあります。でも、私はその先生の話を聞いて、どんな時にも出会いを大切にして、人々やものごとに出会えたことに感謝しながら生きていきたいと思いました。
私は、小学校時代をネパールで過ごしました。父が、医者や薬の足りないネパールの山奥の病院で働いていたためです。車が通れる舗装された道は近くにはないので、どこへ行くにも歩いて行きました。ろうそくのあかりの方が毎日停電する電気より明るく、水は近くの共同井戸までくみに行く生活でした。
病院には、いろいろな国から医師やその家族が来ていました。子ども達の学校は、病院の中を通り抜けて登っていく小高い丘の上にありました。11ヶ国の子ども達が、その小さな学校で勉強しました。みんなそれぞれに言葉が違うので、英語を使って話したり遊んだりしました。校庭から見えるアンナプルナ連峰は、碧い空にくっきりとそびえていました。いつもはとても仲のいい私達でしたが、戦争の勉強をした時、韓国のキムとものすごいけんかをしたことがありました。
『日本は、僕たちの国にひどいことをしたんだ。』
とキムは私に向かって言いました。私はその頃、日本であった戦争のことすら知りませんでした。家に帰って、父や母に戦争の話を聞いて初めて、ネパールにキムのおばあちゃんが来た時、なぜあんなに日本語が上手だったのかがわかりました。本当のことを、お互いの立場から考えることの大切さを、身をもって学んだ出来事でした。
私達の住んでいた村からカトマンズに行くためには、バスで12時間もかかりました。その頃のネパールの山道を走っていたバスは、もう日本ではとっくに廃車にされたガタガタのバスでした。1日に1本しかでないバス乗るために、夜明け前の山道を歩き、ぎゅうぎゅうづめのバスに乗りました。小さかった弟は、小麦粉の袋の上に乗せてもらい、とても喜んでいました。途中、雨が降ると土砂崩れで道は何度もふさがりました。そうすると、バスに乗っていた人達総出で土砂を取り除いたり、バスを押したりしました。月に何回かは、谷底に落ちてしまうバスもありました。だから、小さい頃の私にとって「旅」は、命がけのものでした。
日本に帰ってきて、ネパールで暮らしていた頃と時間の流れが違うのに驚きました。とまどうこともたくさんありましたが、いつのまにか日本の時間の流れにも慣れていきました。でも時々、本当にこれでいいのだろうかと立ち止まって考えてしまうことがあります。そんな時、ピースボートのことを知りました。私がピースボートに参加できたら、3ヶ月の船旅の中で、たくさんの出会いを大切にしながら、たくさんの国々を巡り、その国の時間の流れ方を、肌で感じてみたいと思いました。そして、日本の忙しい時間の流れの中で、私が忘れかけてしまったものを取り戻してみたいと思いました。
私は、今年の6月まで1年間の交換留学でロンドン大学で勉強をしていきました。勉強の合間に、セルビアやボスニア、ヘルツェゴビナへ行きました。セルビアでは街のまん中に空爆で半分崩れかけた建物がそのまま残っていました。サラエボの街には、銃弾の跡が生々しく残っていました。平和で、食べ物の心配もなく、自由に勉強したり遊んだりできる日本から離れてみて、私は思わずドキッとしました。自分の中の、ネパールにいた頃はもっていたであろう感覚が甦った感じがしました。もっと自然や人々の心に寄り添って感じたり考えたりすることを、いつのまにか忘れてしまっていたことに気がつきました。めまぐるしく流れていく時間の中で、自分のことばかり考えていた自分に気がつきました。
「平和を考えよう」と言葉でいうのは簡単です。しかし、どのようにしたら平和な世界を作っていけるのか、具体的に行動することは、簡単なことではありません。私は、銃弾の残る建物の前に佇みながら、自分にできることがあるのだろうかと思いを巡らせました。
戦争や暴力、いじめや争い、これらはみんな人間の心からうまれてくるものです。相手の気持ちになって考えたり、想像したりしてみること、相手を知り、違いを認めた上で分かりあおうと努力すること、暴力でなく話し合いで解決していくこと、それを自分のまわりから始めることが私にできる第一歩ではないかと思いました。
留学先でも、日本から来たと言うと
『あなたは、ヒロシマを知っているか?今ヒロシマは、どうなっているのか。』
と何回か聞かれたことがありました。
敗戦後60年の年に、私は丸木美術館に行きました。弟が広島の原爆記念式典に参加してきた後、丸木位里さん、俊さんの描いた「原爆の図」をどうしても見てみたいというので、家族みんなで見に行きました。
「原爆の図」は、それはそれは大きな絵で見ていると、中に引き込まれそうなくらい怖い絵でした。真っ暗な空にうっすらと青い虹がかかっていました。生きているものを一瞬のうちに殺し、建物を壊し、生き残った人にさえ後遺症を残したたった一発の爆弾。逃げまどい、もがき苦しむ人々の様子は、地獄のようでした。しかし、たくさんの戦争の絵の中で、もう一つ、私の心が震えた絵がありました。それは、南京大虐殺の絵でした。原爆の被害国である日本は、同時に加害国でもありました。丸木夫妻は、ありったけの祈りをこめて、二度と戦争を起こしてはいけないとどの絵からも訴え続け、叫んでいるようでした。私はいつか、真っ暗な空にかかる虹ではなく、平和で明るい青空に、美しい虹を描きたいと、その時思いました。
留学していた一年の中で、休みを利用して近くの国々に旅をしました。いろいろな国の友達といろいろな国を旅すると、本当にちょっとしたことにも、その国の文化や習慣の違いがあることがわかりました。同じものを同じように見ても、感じ方や考え方が違ったりします。自分が当たり前と思っていたことが全然通用しないことにも出会います。そして自分の方が違ったり、間違っていたりしているのかもしれないと気づかされる場面があります。そんな時、自分の殻を破ってもう一つ先へ進めた気持ちになります。
自分が生きていることは、世界とつながっているということだと思います。平和を作り上げていくためには、日本人としての自覚だけではなく、同じ地球に生きている人間としての意識や自覚を多くの人が持つことが求められていると思います。
言葉が違っても、肌の色が違っても、考え方の違いがあっても、私達は仲間です。大切な友達です。国を越えて、人間の命をお互い大切にしていくこと、違いを乗り越えて相手を認め、受け入れることを1人ひとりが考え始めた時、世界は変わっていくと思いました。
「旅」は、自分と向きあえるいい機会だと思います。と同時に、たくさんの出会いが自分を大きくしていってくれる気がします。
今年は、オリンピックが開催される年です。北京オリンピックのスローガンは、「1つの世界。1つの夢」です。世界が1つになり、みんなで1つの夢に向かえたら、どんなにすてきなことでしょう。オリンピックの時だけ日頃敵対している国や世界の国々が集うのではなく、お互いが相手の国を思いやり、認めあえたら、4年に1度のスポーツの祭典だけではなく、より多くの時を世界が1つになってすごせるのではないかと思います。
私も平和を作りあげる責任を負った1人の人間として、世界を見渡し視野を広げ、自覚をもって行動できる人間になりたいと思います。私にとって、まだまだ未知の国を旅する今回のピースボートで、「あなたに出会えて嬉しい」私がそう思い、私も出会った人達からそう思われる旅に出かけてみたいと思います。 |
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