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その旅で、私は平和の意味を知り、世界に平和をもたらしたい気持ちを、ゆるぎないものにするつもりだった。
しかしその旅で、私は自分の気持ちが分からなくなり、終始混乱していた。
平和。平和とは何か? どうすれば平和になるのか? なぜ戦争をするのか。
ありきたりな疑問が私にまとわりついて離れなくなった。
今年9月末。私たち3年生は修学旅行へと出発した。広島・京都への2泊3日の旅だった。学級委員だった私は、修学旅行実行委員を兼任した。またとない機会だ、とばかりに、私は毎回の実行委員会にはりきって参加した。
修学旅行関係のプリントの作成を担当することになった私は、そのほかにも原爆の子の像にささげる千羽鶴を、1、2年生に一緒に作ってもらうため、朝礼でそれを呼びかけたり、被爆体験者の方にお礼を言うことにもなった。
被爆体験者の方へのお礼の言葉は、聞いたことをもとに話すつもりでいたが、もとの骨組みとなった原稿も作っていた。なかなか寝付けなかった修学旅行前日、その原稿を頭の中で何度も思い浮かべ、私はやっと眠れたのだった。
翌日の新幹線の中で、私はまたお礼の言葉を頭の中で繰り返していた。ひとりで練習していたときとは違う。私の言葉が実際に影響力を持ち、人の心を動かすことになるかもしれない。緊張してきた。
広島駅に着き、新幹線のドアが開いた瞬間、9月も末だというのに生ぬるい風が吹き込んできた。駅に降り立ってみればきれいな構内。駅を出ても、目の前に広がるのはきれいな町並みだった。
路面電車に乗り込めば、平和な日常の中を生きる人が沢山いる。
本当にここに原爆が落ちたのか?
そこから、私の考えていたのとは違う広島が現れた。
原爆ドーム前で路面電車を降りる。目の前にあったのは確かに原爆ドームだった。しかし思っていたよりもずっと小さい。平和の象徴、原爆の威力を示す、などとは言うけれど、原爆ではない爆弾の威力を知らない私は、原爆ドームを囲むたくさんの新しいビルを目にして、一体どんなものだったのだろうかと、62年前を思い浮かべようとした。
通勤途中の人もいた。犬の散歩をしている人もいた。原爆ドームは日常に溶け込んでいた。
平和記念公園へ向かう途中、橋を渡った。その下に流れる川の中には、今もたくさんの遺骨があるのかもしれないと思った。その上を小船がゆっくりと通り過ぎていった。「平和」だった。
原爆ドームをバックに記念写真を撮り、私たちは班別で碑めぐりをした。案内をしてくださったのは戦災孤児の方だった。碑と碑の間を移動していたときには、楽しげに長距離走が得意だったと話してくれた。戦争の悲しみを背負っているからと言って、毎日そればかり考えてもいられない。時代は確実にあの戦争から離れていく。
名前も分からない方々のための慰霊碑、原爆症でなくなった佐々木禎子さんのための「原爆の子の像」、さらには広島にいた朝鮮人の方のための慰霊碑があった。
爆風でばらばらに吹き飛ばされた、被爆した墓石の前に来たとき、ガイドの方は私たちに聞いた。
「どうして平和記念公園の地面が、この墓石が立っている地面より高いんだと思う?」
分からない、というような顔をすると、
「米軍が崩れた鉄骨や残骸や何やらを、全部この地面の下に隠させたんだよ。だから今でもこの下を掘れば、沢山残骸が埋まっているんだよ」
そうだ。広島の「表面」だけを見て平和だと思ってはいけなかった。実際の地面や、人々の記憶を掘り起こせば、そこには確かに残酷な現実が待っているのだった。
駆け足で碑めぐりを終わらせ、ガイドの方にお礼を言った後、私たちはついに被爆体験者の方のお話を聞くため、原爆資料館に集まった。
お話をしてくださったのは、原爆資料館の元館長である高橋さん。被爆したのは、ちょうど私たちと同世代の頃だった。学校で被爆し、いくつもの好運が重なり、家まで何とかたどり着き、原爆症と戦いながら今まで生きてきた方だった。
淡々とお話をする高橋さん。集中して聞いているうちに1時間があっという間に過ぎた。そしてほとんど忘れかけていた私の仕事を思い出した。
そうだ、お礼の言葉を言うんだ。
高橋さんと向き合い、マイクを持ち、私は初めから声が震えていた。もともと考えていた文章はすでに壊れていた。震えた声で「まず今日は貴重なお話をありがとうございました」ときりだした後、どんどん気持ちが不安定になっていって、ついには抑えきれず涙がこみ上げてきた。
かわいそう、でも、かなしい、でもない。無力。目の前にいる高橋さんのつらさをただ聞くことしか出来ない自分への叱責。そうしたものが混ざり合った涙だった。
かっこ悪いかなと思いながら、私はお話を聞いた感想や、核をなくしたいということを話した。核をなくしたい、以前の私ならもっと自信をもって言っていただろう。しかし広島での体験を通して、その難しさを体感して、本当は無力感が勝っていたけれど、つい言ってしまったというか、あまりに混乱していたのだった。
そして日本へ来ることがなければ広島へ来ることもなかった。そういう自分の運命のようなものに感謝する。本当にありがとうございました、と結んだ。
無事にお礼の言葉を終え、広島にいるとはいえ学校生活の一部である修学旅行の中、私は級友の間に戻っていったのだった。「王さん泣いてた?」「なに泣いてんだよ〜」とさまざまな声を聞きつつ、私は静かに平和について考えるには、一人で広島に来るしかないと気付いた。
碑めぐりもしない。お話も聞かない。ただ平和記念公園の中にいる。そうして何時間でも考えている。
平和って何? 戦争って何? 欲望って、憎しみって、人間って…何?
広島の町の、平和。皆が望んでいる「平和」。その間には、何かあるような気がして仕方ないのだ。近所に原爆ドームのある暮らし。住んでいる国に原爆ドームのある生活。そしてこの世界に原爆ドームのある真実。平和と「平和」。薄くて低くて、それでも越えられない壁が存在しているような気がしてならない。
いつかもっと大人になって、知恵をつけて、また広島の地に立てば、何か分かるかもしれない。そして、これからは、「平和」を軽々しく口に出してはいけないと思った。
修学旅行は、私に友情や団結のほかに、平和について、教えてくれたのだった。 |
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