「旅と平和」エッセイ大賞・大賞受賞作品
白い国に黒い線、地図の中の×/椎名知里さん
 それはちょっぴり近くて漠然と遠い言葉。小さい頃からよく聞く言葉。長年大勢の人が願ったのに未だに達成されていないらしい言葉。それでもこの国は俗にそれだと言われる言葉。それなのに私たちは実感できていない言葉。戦争のない状態、と辞書には書いてある。私も今までずっとそれがこの言葉のすべてだと思っていた。でも、十八になったいまだからこそ思う、「平和」って何?

 小さい頃から地図を眺めるのが好きだった。初めて眺めた地図は絵本のそれで、カラフルな大陸、その地域の民族衣装、特産物、そして大きな平仮名でその国や地域の大まかな解説が添えられていた。字が読める年齢ではなかったので、実際はその絵本の半分の意味も理解できていなかったと思う。でも、それでも十分楽しかった。インドのサリー、中国のパンダ、エジプトのピラミッド、青森のなまはげ、特に気になったものは母に読み方を聞いた。どのページを開いても、どの国を、どの地域を見ても、絵本の中の「世界」はカラフルでそこの人々は楽しそうに笑っていて、キラキラしていた。

 「世界って凄いところなんだ。」

 何にも知らなかった。地図に白い部分がある理由も、ピラミッドのすぐ傍にあった解説の読み方も。それでも、あの頃の私は漠然と「世界」に憧れていたんだ。

 「世界」=外国に行く、その夢が叶ったのは案外早かった。小学2年生の夏休み、私ははじめて、韓国に両親と行った。あえて旅行とは言わない、旅行というには精神的にも肉体的にもきつすぎた。親の仕事にひっついていったから仕方ないと言えば仕方なかったのかもしれない、覚悟も多少していた。でも、一番ショックだったのは、韓国にロッテワールドというものがあることを帰国した後に友達から聞いたこと。韓国に遊園地は無いって言ってたのに。現実は甘くない。

 それでも小学生、やっぱりはじめての海外ということで、ウキウキしていた。でも、ソウルの街を見て、がっかりした。周りはビルばかり、道行く人も黄色人種だから、日本と大差が無い。しかも服装も日本人とほとんど一緒、平和そうなところも一緒だ。外国人が日本には侍がいると未だに思っているように、私も韓国人はチマチョゴリを着て生活しているもんだと思っていたから、裏切られた気がした。実際、韓国でチマチョゴリを来た人を見たのは2人だけだった。一人はお土産に買ってもらった韓国版りかちゃん人形、もう一人は日本語を話す韓国人のお婆さんだった。

 そのお婆さんの話をしたい。その人に会ったのは韓国に行ってから二、三日経った日、そろそろ日本語が恋しくなった頃だった。朝早くにバスに乗り込み、ソウルを出た。高いビルは段々無くなって、民家も疎らになった、信号もないような道を曲る。

 「どこに行くん?何すんの?」
 「話を聞きに行くねん。」
 「誰に?」
 「元従軍慰安婦の人たち。」

 じゅうぐんいあんふ?もちろん初めて聞いた言葉だった。昔、日本が戦争していたときに韓国の人にすごくひどいことをした、そのひどいことの話を聞きに行くの、と母がそうざっくり説明してくれた時にバスが一軒の民家で止まった。

 「いらっしゃい。」

 流暢な日本語で出迎えてくれたのは、赤いチマチョゴリを着たお婆さん、随分深いしわだ。あいさつもそこそこに家の中に通される。

 イスに腰掛けたお婆さんは深呼吸するみたく、深く息をはいた。そしてゆっくりと低い声で淡々と、綺麗な日本語で一言ずつ、そのひどいことについて話し始めた。

 実のところ、私は話の途中から逃げ出したくなった。韓国と北朝鮮がひとつだった話、日本兵に連れて行かれる話、無理に働かされる話、逃げ出そうとした話、そして捕まった話、そうして友達が亡くなっていった話。怖くて怖くて仕方なかった、現実の世界というよりそれは地獄の世界のようで、本当は聞きたくなかった。でも、聞かないわけにはいかなかった。話が進むにつれて、お婆さんの顔が少しずつ強張って、呼吸が速くなる。でも、それを無理に整えて、淡々と話そうとするから、声が震えてくる。眉間のしわをさらに深くして、それでもゆっくり言葉を選んでお婆さんは必死に伝えようとしてくれていた。だから、私が逃げるわけにはいかなかったのだ。

 「もう私達みたいな人をつくりたくないんです。兵器とか軍隊の無い、早く平和な世の中になってほしいです」

 お婆さんはそんな言葉で話を終えた。バスに乗り込むときにお婆さんが「ありがとうね。」と言った。何故お礼を言われたのかわからなかったから、とりあえず会釈を返した。バスに向かって手を振ってくれたお婆さんの顔は笑顔だったけどすごく辛そうで、小さい体がさっきより小さくなった気がした。それはきっとさらに深くなったしわのせいだろうと、手を振り返しながら思った。

 ソウルに戻ると、今まで気にならなかったものが目に入った。

 「あのフェンスの中は何なん?」
 「あぁ、あれは米軍基地なんよ」

 まだ、この街は「平和」じゃなかった。今日の朝まで、日本と同じだと思っていた街が、まったく違うものだとやっとわかった。

 日本に帰ってしばらくした頃、久しぶりにあの絵本を開いた。白い国はそのままで、韓国と北朝鮮の間にはしっかり黒くて太い戦がひかれていた。ふとピラミッドの横のあたりの国の解説を見た、その時にやっと読めた。

 「ふんそうがおおいです。」

 そのカラフルで私に世界への憧れを抱かせた絵本はキラキラしているばかりではなかった。地図が少し、怖くなった。

 中学、高校と進学すると、歴史の教科書とともに地図はもっと血なまぐさくなった。世界史の授業で紛争・戦争地帯に印をつけていくと世界中に×がついた。もちろん、かつて絵本で見たピラミッドの横、パレスチナ地区には大きな×がついたし、国名がはっきりしない白い国にもいくつか×を書いた。

 そのうち疑問に思うようになった。こんなに×ばっかりついて「平和」な所は世界のどこにあるんだろう。

 中学の歴史の授業では、「昔、日本が戦争してた時」のことも勉強した。教科書を読んだ、結構必死に読んだ。でも、年号や事件名がでてくるばかりで、あのお婆さんが言っていたようなことは「日本軍は韓国人にたいへん酷いことをした」ぐらいにしか、載ってなかった。

 「こんなんでは伝わらんやろ。」

 お婆さんの苦しそうな顔を思い出して、悔しくなった。お婆さんやその友達、その他の韓国の人の苦しみがこんな簡単な一文で片づけられていると思うと、すごく腹が立った。でも、本当はそうではなかった。私が一番腹立たしかったのは、その苦しさを生で聞いたのに、みんなに伝えられない自分自身だったのだ。

 従軍慰安婦問題について、様々な見解があることは理解している。日本軍が強制したのではなく慰安婦が志願したのだとか、そもそも慰安婦はいなかっただとか、この問題に対してはいろいろな意見がある。私はそれらの意見にきちんと反論できるほどの知識も見解も、恥ずかしいがまだ持てていない。それでも、あのお婆さんの震える声が嘘を言っていたとはどうしても思えない。

 この「平和」といわれる日本に生きる私たちは想像力をフル働かせなければいけない。教科書にはスペースに制限がある。人から聞いただけでは漏れがある。報道だけでは心配だ。だから、その一文にどんな意味があって、誰のどんな思いがあったのか、想像しなければその痛みや苦しさに寄り添うことができない。また、その一文の重みがどれほどの意味を持つかも考えなくてはいけない。

 世界地図の×印の数だけ、いやもっとそれ以上、今でも苦しみがあり、悲しみがあるはずだ。

 一般的に今の日本の状態を「平和」・「自由」としよう。自殺者が毎年3万人を越えていても、親殺し子殺しが頻発していようと、インフラが整備され、清潔な水を使え、おおむねの人は食料の心配が無く、識字率がほぼ百パーセントのこの状態を「平和」としよう。

 だが、この「平和」だって何かの上に成り立っているのだ。日本の裕福な生活は、世界の、誰かの犠牲の上あるのではないだろうか?

 知ろう、わかろうとしないと過去の悲しみや苦しみ、不幸な出来事はどんどん埋もれていく。そして、またどこかで誰かが同じ道を歩いてしまう。

 私は近づきたい、誰かの目を通してでなく、自分の目で自分の肌で感じて、その悲しみや苦しみに寄り添いたい。

 私はもっと「世界」が見たい。
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