エリトリア日記
「エリトリア日記」Vol.3 8月8日(水)(by 大場寿人)
先週末はアスマラから135キロ程南下したところにある街セナフェに行ってきました。この街は1998年から始まった国境紛争の第3回目の戦闘、2000年の5月にエチオピア軍に攻め入られ攻撃を受けました。そして他のキャンプに避難していた住民も今年の6月末に帰還をはじめたばかりです。そんな街セナフェの視察報告をしたいと思います。
1.道中の景色

5ナクファ紙幣の絵柄になっているダロの木
首都アスマラから車で3時間程度。アスマラを抜けると山が続きます。「エリトリアに真っ直ぐな道はない」という通り長く曲がりくねった道が続きます。まさに"The long and winding road"です。村に近づくとが大きな荷物を抱えバスを待っている村人を見ることができます。また辺りには小麦・大豆・とうもろこし・テフの畑が広がっています。天気がよければ青々とした美しい景色が見えるでしょう。さらに、セナフェに近づくと、ロバに荷を乗せてひたすら歩いている人、ラクダに荷を載せて運ぶ人、山羊の群れを連れている人、などを見ることができます。また、道の両脇に所々「Bronze」とか「Emerald」と書かれた赤い看板が立っています。これはそこいらいったいに銅やエメラルドが埋まっているという印だそうです。まだ採掘は行っていないものの政府が鉱物調査をしているとのことです。さらに、セナフェの手前の最後のtownアディケイの街を通り過ぎるとエリ軍のチェックポイントがあります。道路の両脇に棒を立てそこに紐を渡し道路を遮断しています。ここでは特別のパーミッションを見せて通らせてもらいます。これをすぎるといよいよUNの展開しているTSZ(Temporary Security Zone)に入るUNのチェックポイント。ここには道の両脇に鉄線がはられUNの旗のはためく建物があります。ここでまたパーミッションを見せTSZの中へと入っていきます。といっても、風景はそんなに変わるものではなく、あいかわらずロバや山羊を連れた人たちが歩いていたり小麦畑が広がっていたりします。別にUN軍がそこらにいるというわけではありません。そしてまたエリ軍のチェックポイントを抜けると左前方にセナフェの街が見えてきます。結構大きい街のようです。いよいよセナフェかという思いが沸き起こってきます。ところがその手前に視線を落とすと先端が赤く塗られたポールが2本対になって路肩の所々に立っていたり、ドクロマークの赤い立て札が立っていたりするのです。これはここに地雷が埋まっているので近づくなという印だそうです。ほんと舗装道路から2メーター位入っただけのところにいくつも立っているのでちょっとびっくりです。囲いでもしておけばよいのに、これでは間違って子供や山羊が地雷を踏んでしまうこともあるだろうと思うのですが。
2.セナフェの街

エチオピア軍に破壊された建物
セナフェに入ると道路の右側に白いテントが見えてきます。これはセナフェに戻ったが家が破壊され住めなくなった人や、セナフェよりも奥の町に住んでおり、いまだ地雷撤去が終わっていないため町に帰れない人々が住んでいます。総150〜200位のテントがあるかと思います。さらに先に進むと屋根をテントで覆った家や屋根に新しくトタンをのっけた家などが見えてきます。これはエチオピア軍が家の屋根や扉などを外して持って帰ってしまったからだといいます。ほとんどの家の屋根は新しく作られたものでした。また、屋根どころではなく、建物ごと爆破され破壊された建物も見えてきます。全ての家が爆破されたわけではないようですが街の要所となっている建物は破壊されてしまったようです。役所や裁判所、学校や病院までも。今現在は他の場所にテントをはって仮の病院や学校を作っているようです。セナフェの人々はその多くは戦時中他のキャンプに避難していたのですが、その間逃げることができず街に残った人もいたそうです。彼らの中にはエチオピア軍にレイプされたり連れ去られてしまった人もいるとのことです。また、キャンプでは臨時の学校があり子供達はそこで勉強をすることができましたが、セナフェに残った子供達はその間勉強をすることができなかったので、今夏休み中も学校に通い勉強をしているそうです。もっとも、僕らが訪れたのは土日だったため学校の様子をみることはできませんでした。セナフェの中心地へと行くとたくさんの商店が建ち並び衣類や雑貨などの物も揃っており意外にもなかなかの賑わいを見せていました。もっとも、食糧はそのほとんどが配給に頼っているとのことで市場にはほんの少しの野菜しか置いてありませんでした。ただ、自ら野菜を栽培したり購入できる人々もおり、レストランではそれなりの食事をとることもできます。街では子供達も元気に遊んでおり、僕らが歩いているとたくさんの子供達があつまってきました。ほとんどの子はがりがりに痩せているでもなく健康そうに見えたのですが、その中に1人だけ異様にお腹が膨れており栄養失調と思われる子がいました。また、その子だけ異常に多くのハエがたかっているのです。セナフェでは食糧は配給ということですから貧富の差でそうなるわけではないはずです。それだけに彼の様子は不思議で仕方ありませんでした。なぜ、彼だけなのでしょうか。これはいまだになぞです。
3.セナフェ以南
セナフェの南端にあるエリ警察のチェックポイントを超えさらに南、すなわち国境付近へと向かいました。TSZは両国の国境にまたがってあるわけではなく国境からエリトリア側25キロにわたって展開されているとのことなので、セナフェから国境まではまだ25キロほどあることになります。チェックポイントの警察は、この先にもうひとつUNのチェックポイントがあるからとりあえずそこまで行ってみろ、と言っていたのですが、ex-fighterであるtaxi driverが、俺は怖いからこの先には行きたくない、というのです。彼は国境戦争のときもfighterとして戦っていたので、どの付近までエチオピア兵士がやってくるのかが判るというのです。それでもどうにかセナフェから5キロほど入った丘まで行ってもらうことができました。その丘から見える山の向こうにエチオピア軍がいるというのです。そして、その山の手前に見える森では7人くらいのエチオピア兵に襲われ幾人かの人がさらわれたことがあるというのです。そしてこの辺にもエチオピアのスパイが来ることがあると言います。運転手ははじめは俺は車を降りたくない、と言っているくらいでした。しかし、僕らが歩いてこの先の丘まで行ってくるというと、しぶしぶと車を降り、一緒に行ってくれました。正直、僕らには彼の抱いているような危機感・恐怖感というものを感じることはできませんでした。特段、エチオピア軍の兵器が見えるわけでもなく、またエリトリア軍やUNの軍隊すら視界に入ってこず、そこに住む人々の洗濯物がなびくような生活感溢れる風景しか見ることのできないこの場所で、彼のいうような"危険"の存在を感じることはできなかったのです。なお、彼らの話によると、エチオピア軍は国境を越えエリトリア側の街、ゼランベサにまで展開している、とのことです。しかし、以前のBBCのニュースを見ると「エリトリアが1999年にZalambessaを破壊した」とあります。ということは、ここではゼランベサはエチオピアの町という文脈で書かれています。そもそもどこが国境かということが決まっていないのですからある街がどちらの国家に属するのかということも定まっていないのですよね。結局、このエリエチ国境紛争はまだ終わったわけではなく今なお継続しているといえるのでしょう。
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