古代からイタリア統治まで |
エチオピアとエリトリアの国境付近にアクスムという町がある。古代アクスム王国のあった所である。アクスム王国は4世紀半ばに栄華を極め、8世紀に滅びる。その後にエリトリアと呼ばれるこの地域は、ベジャ族や、士候国、アビシニア、トルコ、エジプトと次々に支配者が代わった。そして1869年には、国土が統一されたばかりのイタリアが進出してくる。
当初のイタリアは交易のために、マッサワ港を使っているのみであったが、他のヨーロッパ列強が続々とアフリカに進出してくるのにしたがって、内地攻略へと進む。それに対しエチオピアのメネリック2世は1889年国内政情の不穏な動きを恐れ、マレブ川以北をイタリアに与えた。こうしてイタリアはエリトリア全土を占領した。歴史上エリトリアという地域がまとまった一つの形で、一つの政府に支配されるのはこれが初めてであった。イタリアは支配した翌年にラテン語の紅海(マーレ・エリトリウム)にちなみ「エリトリア」という地名をこの地域に名づけた。
その後、イタリアはエチオピア全土の侵略を画策するも1896年にアドワで大敗を喫し、だ往年にエチオピアとの間で講和条約(アジスアベバ協定)を結んだ。この中でエリトリアはイタリアに割譲され、その見返りにエチオピアの国境尊重をイタリアが認めることになった。しかし、今世紀に入ってからけ会強硬に襲われたファシスト政権下のイタリアは、国民の目を海外に向けさせるためにも再びエチオピア侵略を夢想する1931年には侵略拠点を作るために、エリトリアに巨額の投資を開始した。1935年、ついにエチオピアに軍事進出。翌年にはエチオピア全土がイタリアに制圧され、エリトリア、エチオピアともイタリアの支配下に入ることになった。 |
エチオピアとの連邦から併合へ |
1941年には第二次世界大戦が勃発し、連合軍の北アフリカ反攻作戦の始まりとして、イギリス軍がイタリア支配下のエチオピアに攻め込んだ。この戦闘で、イギリスはエリトリアからもイタリア軍を一掃した。
戦後、国連によるエリトリア問題の討議が始まる。エチオピアはエリトリアの併合を求め、エリトリアはエチオピアからの独立を主張した。しかし二度の国連の調査の結果、1950年に「エチオピアとエリトリアの連邦制」決議が採択された。この結果、軍事と外交はエチオピアに握られたが、エリトリアは国旗や自治政府議会をもった。しかしエチオピア政府は、次々に言論統制や、政党活動の制限、ついで国旗掲揚も禁止するようになる。このエチオピア政府の動きに対し、アスマラで大規模なデモ、ストライキが起こる。このデモ隊に対し、エチオピア軍が発砲。1962年にはエチオピアの皇帝ハイレ・シェラセがエリトリア併合を発表し、再び他国の支配下に置かれることになった。 |
独立へ |
エチオピアによる併合と前後してエリトリアでは完全な独立を目指した運動が展開されていく。最初に組織された独立派は、イスラム色の強かったエリトリア解放戦線(ELF)で、1958年に結成された。その後ELFから分派したのが、現政権を握るエリトリア人民解放戦線(EPLF)であった。その名の通り、社会主義派の500人が結成したものであったが、「民衆から奪うよりも死ね」をスローガンとして次第に民衆の支持を受けることになった。内部抗争でも主流派となり、独立運動をリードしていくことになる。
ここからが、ユニークで苛酷な独立闘争が始まる。というのも、この当時のアフリカは、米ソの「代理戦争」の様相を帯びた独立戦争が頻発し、一気に独立国が増加することになるのだが、ここだけはそう一筋縄には行かなかった。
「敵国」であるエチオピアでは、非常なカリスマ性を持ってきたハイレ・セラシュ皇帝が権力闘争に明け暮れるなかで国民は飢餓に苦しみ1974年のクーデターで政権を追われる。新たな支配者となった軍事「革命」政権は、旧ソ連の潤沢な援助をもとに軍事力を強大化させ、アフリカ随一の軍事力を誇るまでになった。一方で、国民の飢餓状態は改善されないばかりか、悪化の一途をたどった。
ここで「普通」ならば旧ソ連の「敵」である米国の支援があるものだが、「反帝国主義」を旗印にするEPLFに対して、そのような援助は全く無く、まさに孤立無援の状態で独立闘争を戦ったのがエリトリアなのである。
国内情勢が悪化するエチオピアでは、エリトリアに隣接するティグレ州の独立を目指すグループなどと共闘する形でエチオピア人民革命戦線(EPRDF)が台頭し、1991年5月には首都のアジスアベバを制圧するに至った。このEPRDFと連帯することで支配領域を広げてきたEPLFも同日に現在の首都になっているアスマラを制圧し、暫定政府の樹立を発表する。そして1993年国連の監視のもとで独立の是非を問う住民投票が実施され、海外難民を含む約110万人が投票、99.8%という圧倒的な多数が独立を支持するという結果が出た。そして1993年5月24日にエリトリアは正式に独立を宣言した。しかし、約30年間におよぶ激闘で兵士16万人、市民4万人が死亡したと見られ、約75万人(うちスーダンに50万人)が難民として流出した。 |
独立後 |
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国会がEPLFのイサイアス書記長を大統領に選出、憲法制定と複数政党制による選挙実施を目指す4年間の暫定政府が樹立された。大統領は内閣に相当する諮問評議会を設置するなど新しい国づくりへの第一歩を踏み出した。しかし、振興独立国家の現状は厳しく、現在でも世界最貧国の一国に数えられる現状である。 |
エリトリアとピースボート |
1995年、ピースボートは地球一周クルーズの寄港地として約350人の日本人を連れてエリトリアを訪問。現地に対する援助物資として内戦による負傷兵のための車椅子47台、女性の自立を助けるための足踏みミシン18台、サッカーボール等のボール198個を届けた。また、現地では戦争で負傷した兵士達との交流、難民キャンプを訪れるなどした。
エリトリアは現在、自国の大使館が世界中に4つしかなく、日本にはもちろんない。そこでピースボートでは同国と協力してエリトリアインフォメーションセンターを作り、この国の存在を広く世間に知らせるプロジェクトを進行させようとしている。 |
古代へのロマン・アクスム王国 |
アクスムは、エリトリアとエチオピア国境付近、エチオピア高原の北部に位置する盆地です。エチオピアでは、エチオピア帝国の起源とされ、誇りにされているようです。アクスムには、紀元前からアラビア半島南部に住むセム語族のサバ語を話す人々が紅海を渡って移住し、農業や商業に従事していました。アクスム王国が存在した時期は、14世紀に編纂された「国王頌栄(ケブラ・ナガスト)」によると、前982年にまで溯りますが、確認できているのは、現在のところ紀元後1世紀以降までです。ちょうどローマ帝国の衰退に向かう時期に重なり、新興国のアクスムがローマ帝国に代わって、紅海貿易で繁栄していたのではないか、とも考えられてます。象牙の集散地として栄えていたようです。アラビア半島を支配していたシバの女王の話は、シバの女王マクェダとソロモン王の恋愛話として、聖書に登場します。現在のアクスムにある貯水池は「シバの女王の浴場」と言われ、シバの女王が水浴びをしたと語られています。さて、本当でしょうか?
アクスム王国は最盛期には、なんと、スーダン北部から南アラビア半島までを支配していたようです。エリトリアももちろん、当時アクスム王国の一部でした。アクスムから8日の旅程を要したというアドゥリスの街は、象牙、サイの角、カバの革、香辛料などの交易港として繁栄しました。金貨や銀貨を使用して、エジプト、ギリシア、ローマ、イエメン、ペルシャ、インド、さらには遠く中国とも交易をしていました。
アクスムには高さが一番高いもので24mもある、巨大なオベリスク(方尖柱)が立つ場所があります。以前に建っていた26mのオベリスクは、第二次イタリア・エチオピア戦争でエチオピアを占領したイタリアのムッソリーニ軍によって運び出され、今でもローマに建っているそうです。エチオピアで初めてキリスト教に改宗した為政者、エザナ王の石碑(327年?)も残されています。土に半分埋もれている33mのオベリスクには、南アラビア起源の宗教のシンボルである三日月と太陽のマークがあることから、エザナ王以前からこれらのオベリスクが建てられていたことがわかります。
ビザンチンと友好関係同盟関係にあったアクスム王国は、ササン朝ペルシアなどに攻撃を受け、イエメンでの支配権を失いました。そして最終的には、キリスト教とイスラム教の宗教上の対立、経済的な利害対立などによって、滅んだそうです。 |