エリトリア国について
エチオピア連邦共和国について
今回の紛争について「ふたつの視点」
エリトリアの視点
エチオピアの視点



 エリトリアは紅海に面したアフリカ大陸の北東部に位置する国で、北海道と九州を併せた程の面積を持つ。
 紅海に面するアッサブ、マッサワは、その地理的好条件から首都アスマラと共にエリトリアを代表する都市になっている。
 アラブ世界の影響を受け、エリトリアの人口のほぼ半分をイスラム教徒が占める。
 エリトリアは30年以上にも及ぶ内戦の後1993年にエティオピアから分離独立した、アフリカ諸国の中でも最も新しい独立国である。 エリトリアは古代エティオピア帝国の一部であったが、その支配勢力は時代と共に変化していった。

 1860年代までは、エリトリアはエジプトの一部であったが、1890年にはイタリアの植民地となった(エリトリアという名称はこの時正式に付与された)。

 1896年にはエティオピア軍がアドワの戦闘でイタリア軍を撃破し、エリトリアの侵略基地化を阻止した。しかし1936年にエティオピアがイタリアに併合されると、エリトリアは再びアフリカ侵略基地となった。
 イタリア軍は1941年にイギリス軍によって退去させられ、エリトリアは1942年にイギリスの保護領となった。エリトリアはこれ以降1952年までの10年間に渡りイギリスの管理下におかれた。

 1952年にはエリトリア住民の意思が問われることなく、国際連合の決定によりエティオピアと連邦が結成される。しかし次第に自治権を奪われ、1962年にはエチオピアの一部として併合された。エリトリアは自治権回復のため国際機関に訴えたが、国際連合、アフリカ統一機構共にこれを支持することはなかった。

 このような背景から、1961年にエティオピアからの分離独立を求めるエリトリア解放戦線(ELF)が結成され、武力闘争が開始された。ELFはアラブ諸国に支持され活動を続けたが、1970年代初頭に、思想の異なる一派がエリトリア人民解放戦線(EPLF)を結成した。この後両勢力はエティオピア政府との武力闘争を30年近くに渡り続けたが、その間に兵士16万人、市民4万人の死者を出し、約75万人の難民が流出したと言われている。

 1970年代に起きたエティオピアの帝政崩壊に伴い、アスマラ制圧を試みるが失敗し、事実上のアスマラ制圧は1991年5月のメンギスツ政権崩壊まで持ち越された。EPLFはアスマラを制圧すると、EPLFのイサイアス=アフォルキ暫定大統領を元首とするエリトリア臨時政府樹立を宣言した。

 1993年4月には国際連合の監視下でエリトリア地域の分離独立を問う住民投票が行われ、99.8%の支持により、同年5月24日にエティオピアからの独立を達成した。

 1993年5月、臨時政府は基本的人権及び複数政党制を保証する民主的憲法を制定し、同憲法に従い民選政府が樹立されるまで現体制を維持することとした。

 1994年12月、エリトリア政府はスーダン政府がエリトリアのイスラム原理主義過激派を支援し、エリトリアに対する敵対行為及び転覆行為をエスカレートさせているとして、スーダンを非難、国交を断絶した。翌年12月には紅海の大ハニシュ島の領有権をめぐりイエメンと武力衝突した。

 1997年5月、約3年間にわたる議論を経て制憲議会においてエリトリア憲法が採択された。同年11月、それまで使用していたエティオピア通貨ブルを廃止し、エリトリア独自の通貨であるナクファを導入した。

 1998年5月にはそれまで友好関係にあった隣国エティオピアと国境画定問題を巡って武力衝突が発生し、現在も紛争状態にある。同年10月、国際仲裁裁判所(ロンドン)の決定により、占拠していた大ハニシュ島をイエメンに返還、さらに翌月にはスーダンとの関係改善の為の覚書に調印している。

 エティオピアは日本の約3倍の面積を持つ、アフリカ大陸の北東部に位置する内陸国である。
 エティオピアの首都アディス・アベバにはアフリカ最大のの地域機構であるアフリカ統一機構(OAU)の本部がある。
 ほとんどのアフリカ諸国の独立が1960年代に成し遂げられた中で、エティオピアは、1936年から1941年まで一時的にイタリアに併合されたもの、ヨーロッパ列強に植民地化されることなく、実に紀元前から独立を保持している。
 エティオピアの人々は、このアフリカ最古の独立国であるという史実をとても誇りにしている。
エティオピアは、オロモ人(29.1%)、アムハラ人(28.3%)、ティグレ人(9.7%)など80以上の民族が共存している多民族国家である。

 1974年にハイレ=セラシエ皇帝が廃位されるまで、エティオピアにはソロモン王とシバの女王の子、メネリク一世の直系とされる皇帝による帝政が栄えた。

 1952年に旧イタリア領であったエリトリアと連邦を結成し、1962年にこれをエティオピアの一部として併合した。

 1974年に軍の改革派による革命でハイレ・セラシエ皇帝が廃位され、メンギスツ議長による臨時軍事行政評議会が設立された。

 1975年に正式に帝政に終焉が告げられると、共和国の樹立が宣言された。

 1977年にはメンギスツ大尉によるクーデターが成功した。また同年には、東部オガデン地方の分離独立を巡りソマリア軍と全面衝突するが、1978年にソマリア軍を撃退した。軍事政権はエティオピアの急激な社会主義化を進めた。

 1987年9月には、臨時軍事行政評議会による軍事政権から、国民議会を最高機関とする新政権に移行され、人民民主共和国が樹立され、初代大統領に軍最高司令官を兼任するメンギスツ氏が選出された。一方北部のエリトリア地方では1960年代初頭から分離独立を求めるエリトリア解放戦線(ELF)によるゲリラ活動が、ティグレ州では1975年にティグレ人民解放戦線(TPLF)による活動がそれぞれ開始された。

 1988年にはTPLFを主体とするエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が活動を開始し、エティオピアでは反政府勢力による内戦が激化した。

 1991年2月下旬以降のEPRDFによる激しい軍事攻勢により、5月メンギスツ大統領がジンバブエに亡命し、EPRDFが首都を制圧し事実上メンギスツ政権は崩壊した。同年7月にEPRDFのメレス=ゼナウィ書記長を大統領とする暫定政府を樹立した。暫定政府は、暫定憲章に従い、民族融和と民主化を軸に国づくりを進めた。

 1993年5月にはエリトリアが分離独立した。

 1994年6月初の複数政党制による制憲議会選挙にEPRDFが圧勝し、同年11月には国名を現在の「エティオピア連邦民主共和国」に改め、翌月には議院内閣制などを規定した新憲法が採択された。

 暫定期間の終了した1995年8月22日には、連邦共和制下の議院内閣制を採用した新国家体制が発足し、ネガソ・ギダダ大統領が就任した。

 エリトリアとは1993年7月に友好協力協定を結び、同年9月に政治、外交、軍事、経済など広範な分野での協力を定める25の議定書に署名するなど緊密な関係を維持していたが、98年5月、国境画定問題を巡って武力衝突が発生し、国交を断絶した。両国の武力衝突は断続的ではないものの、2000年5月現在、まだ解決には至っていない。

 1998年5月に突如として表面化したエリトリア、エティオピア両国の紛争は、5年以上経過した今、まだ解決に至っていない。両政府ともこの紛争に於ける正確な被害者数についての発表はしていないが、数万人の死者を出しているといわれている。
 この紛争において最も特徴的と言えるのは、中立的な視点での現場からの報告の不在である。一部西側報道によれば、これは両国政府が外国の報道機関が紛争地帯に立ち入ることを禁じており、また外国の報道機関に対して一部締め出しを行っているためである。このような事情から、ここでは両国の報道機関及び両国民からの情報を基に、今回の紛争の発端と解釈を紹介したい。

 今回の紛争は、エティオピア側がエリトリア領の国境付近の住民に対して行ってきた暴力行為に端を発する。この暴力行為は、エリトリア独立年である1993年12月30日に始まった。この時エティオピア軍は、インデリ川上流のハゾ人の住む村に侵攻し、彼らの家屋32棟が破壊された。

 翌年の7月20日、21日には、両国政府高官による話し合いが開かれ、国境問題については、両国が平和的に解決するための協力をすること、両国の国境地帯の担当者が3ヶ月ごとに話し合いの場を設けることなどが合意された。

 同年11月に予定されていた国境問題解決のための会談には、エティオピア側が不適当な参加者を派遣したために、延期された。しかし1995年になると、エティオピア軍による地域住民に対する小規模の暴力行為は再開された。

 1996年後半には4度に渡り国境地域に侵攻し、住民の監禁、住居の破壊などを行った。これらの国境地域に於ける事件についての平和的な解決を計るため、1997年4月には地方の行政担当者も含めた両国政府高官による会談も開かれ、その2ヶ月後には視察団を組織し、問題となっている地域の視察も行われた。このようにエリトリア側はエティオピア軍による度重なる住民への暴力行為に対して、平和的解決にむけて非暴力的かつ友好的に取り組んできた。

 そんな中で、1997年7月エティオピア軍はバドメ、ゲザ・シェリフ、バダ地方等に侵攻し、バドメに行政機関を設置した。時を同じくして、エティオピアのティグレ州政府はこの地域をエチオピア領土とする地図を発行し、この地域に生活するエリトリア住民を強制的に退去させた。この中には30年以上もエリトリア人として生活してきた住民も含まれていた。

 エティオピア側が自ら作成した地図を根拠に領土の所有権を主張している一方で、エリトリアがバドメ地区他三カ所の領有を主張する根拠はイタリア植民地時代の地図上の国境線に基づいている。
 エリトリアが一つの地域として初めて領土とされたのはイタリアによってであり、現在のエリトリア、エティオピア間の国境線のほとんどがその時代の国境線によるものである。つまり、現在問題となっている地域は今回エティオピア側が公式なものとして作成した地図によってのみ、エティオピアによる領有が肯定できるのである。
 また、エティオピアの攻撃がアッサブ・アジスアベバ幹線道路沿いに集中していることからも、この度のエティオピアによるエリトリアへの一連の攻撃が、一方的な領土拡大およびアッサブ奪回を狙ったものであることを裏付けることができる。また、エティオピア国内では、少数派のティグレ人が政権を担うことで、他民族、特に分離独立運動をすすめる多数派オロモ人などから、現政権への不満が高まっている。他民族国家であるエティオピアにとって、民族間の対立の緩和は最重要課題の一つであったにもかかわらず、現政権はティグレ人を要職に優先的に配置するなどして、この問題をなおざりにしてきた。

 エティオピア政府は、このような失政から生み出され助長されてきた民族対立から国民の関心を反らせるため、そして反エリトリアというスローガンのもとに国内の団結力をあおるための道具としてこの紛争を利用しようとしているのだ。
 エリトリア政府が国内のエティオピア人の権利を全く制限していないのに対し、エティオピア政府はこれまで様々な「エリトリア人狩り」を行い、不当にエリトリア人を虐待、国外追放してきた。このような行為は、両国がこれまで築いてきた友好的な関係の再構築を困難にさせるものとなりかねない。

 以上のように、平和的な手段で国境問題の安定化を実現させようと努めてきたエリトリアにとって、エティオピアへ武力行使に出なければならない理由は特になかった。もしあったとすれば、それはエティオピア軍が長期に渡って行ってきた暴力行為から地域住民を守るためであり、エティオピア軍さえもっと友好的にこの地域の安定化に取り組んでいたならばこのような事態にはならなかったであろう。

 この紛争は1998年5月6日にエティオピアの北西部ティグレ州に武装したエリトリア兵が侵入したことに端を発する。

 続いて12日にはエリトリア軍がエティオピア北部の国境近くの町、バドメに侵攻した。22日にエティオピアの交易の50%を担うエリトリアのアッサブ港、同じく15%を担うマッサワ港からエティオピアの海運会社は閉め出され、同国内にいるエティオピア人2万4000人が不当に追放された。

 6月に入り、3日にエリトリア軍はザル・アンバサに侵攻、5日にティグレ州の州都メケレを空爆し、11日にはアディグラットを空爆、さらに北東部の町ブレにも侵攻した。メケレの空爆では、50人近くの一般市民の命が失われた。

 エリトリアが領有権を主張しているバドメをはじめとする国境地帯は、エリトリア独立後の現在も、歴史的に見ても、エティオピアの領土である。その根拠として、現在発行されている国際的な地図でも、エティオピアが発行している地図と同様、バドメ地区はエティオピアの領土とされている。
 つまり、エリトリアは元来問題などなかったこの地域に国境問題をねつ造し、エティオピア国民の平和を乱そう画策しているのである。
 もし、この地域に国境の不明確による問題が存在するならば、その原因はエリトリアの現政権の前身である反政府ゲリラとしてのEPLF(エリトリア人民解放戦線)にある。

 エリトリア独立前の1988年にエティオピアの現政権の前身であるTPLF(ティグレ人民解放戦線)がスーダンのハルツームに於いてEPLFとの領土境界線の明確化を提案した際に、EPLF側はこれに応じなかったという過去がある。
 また、エティオピアはこれまで、エリトリアが主張するこの国境問題を平和的に解決するべく、両国の代表からなる合同委員会(Joint Commission)を通じて話し合いに応じてきた。
 この合同委員会の1997年11月に開催された会合では、両国がこの国境問題に対して、完全に決着するまで現状を維持すること、そして両国がこの地域の緊張を緩和するための相互協力することなどについて合意された。この合同委員会は1998年5月8日に次回の開催が決定していたにもかかわらず、エリトリアはこうした合意に反し、この問題の解決を平和的手段に委ねることなく、突如として武力に訴えてきた。

 エリトリアの1998年5月の武力行使は、エリトリア政府の策略によるものといえる。その根拠には、エリトリアの経済危機をあげることができる。

 エリトリアでは、1997年11月にそれまで流通していたエティオピア通貨のブルが廃止され、新通貨ナクファが導入された。エリトリア経済は独立以来エティオピアに依存しており、この新通貨発行に当たりエティオピア側はエリトリアにこれ以降、ブルでもナクファでもなく、ドルでの決済を要求した。貿易収支を国際的な信用の厚いドルなどのハードカレンシーで行うことは、一般的であるが、外貨準備高の低いエリトリアにとってドル決済は痛手となり、国内で食糧をはじめとするインフレが進んだ。

 このような背景から、エリトリア政府はこの度の紛争を起こし、自国の経済混乱から国民の目をそらすことを目論んでいる。 このように、エティオピア側がこの紛争を自ら起こさなければならない理由は皆無であるのに対し、一方エリトリア政府には自らの失政を隠すためという動機があるのである。
和平会議トップページへエリトリアチームトップページへ