昨日までの雨が嘘のようにやみ、カラッと晴れた空と暑い日差しの沖縄が私たちを迎えてくれた。
集団自決跡
渡嘉敷島は、沖縄戦において日本軍の命令により集団自決という悲劇が起こったところである。水先案内人の灰谷健次郎さんの話によると、この碑があるところで集団自決があったのではなく、さらにうしろの藪の中で行われたということだ。何人かがその藪の中に入っていった。私もついていったが、藪の中をどんどん進んでいくと、小さな川が見えた。こんな淋しいところで逝ってしまった人たちを思うと心が痛かった。
白玉之塔
これは、沖縄戦において、渡嘉敷島で亡くなった全ての人たちを供養するために建てられた塔である。ここには、島で亡くなった島民、軍人全ての人たちの名が刻まれた碑があった。島民を死に追いやった軍人の名を刻むなんて・・・と私は思ったが、「こんな悲劇が起こったのは軍人が悪いのではなく、戦争がそうさせたのだから仕方がない」と島の人は言っていたそうだ。自分の身内や友達が殺されたら、私はこんな風には考えられない、と思った私は、島の人の優しさと、強さを感じた。
灰谷さん宅訪問
今回のクルーズの水先案内人、灰谷健次郎さんのお宅を訪問した。灰谷さんのご自宅は、崖に建っており、窓からの眺めはサイコーにきれいだった。窓の下には、青い海が見え、かなりイケてるお家だった。
阿波連ビーチへ
真っ白い砂浜と、青く澄んだ海を見た瞬間、私は夢中で走りはじめていた。波は、思ったより高く、すぐにパンツまでビショビショになってしまったが、くじけず、砂浜に落ちている珍しい貝殻を拾った。シイタケや、カニかまぼこのような貝殻を見つけ、かなりご機嫌になった。それを海岸にいた島のおばあちゃんたちに自慢しに行った。とても温かい目で私を見てくれて、よく笑う面白いおばあちゃん達だった。このとき私は、白玉之塔できいた話しを思い浮かべていた。
渡嘉志久ビーチの珊瑚礁のまわりには、色鮮やかな魚が泳いでいて、竜宮城に行った気分になれた。島の人から戦争の話も聞いた。一人は、赤ちゃんの時、一人は、小学生の時にあの悲劇が起こった。悲惨な戦争体験を持つこの島だが、それ故に美しい海と、島の人たちの優しさが、私の心に素晴らしい思い出を刻んでくれた。また、渡嘉敷島に来ようと決心した。
(則長暁子)
さあ、いよいよこれから沖縄での活動が始まる。やはり沖縄は暑い、暑い。まずは那覇新港よりとまりん港へ。そこから、フェリー『けらま』に揺られること一時間十分、渡嘉敷島へ、島までは波が荒く、船が激揺れし、デッキにいたら思い切り頭から水しぶきをひっかぶってしまった。
こうした地獄(?)の時は過ぎ去り、いよいよ島へ上陸。那覇と違い、こっちには何もない。このような地に住処を構えている灰谷健次郎氏には尊敬の念を抱かずにはいられない。
しかし、海と空の美しさは言葉ではとても表現しきれぬもので、二十日に訪れた海水浴場のビーチの眺めはまるでパノラマのようだ。水平線を境に、海は少しずつその色に変化を付けてゆく。時には濃い藍色に、そしてスカイブルーに、そして淡い水色に。(夕暮れには紅色に・・・といいたいところだが残念ながら我々はその時は渡嘉敷島を後にしていた。)これらを見ていると海には生命が宿っているときり思えない。広瀬量平『海の詩』にも詠まれているが、まさに海は生き物なのである。そして我々のもつ感情表現にまさるともおとらない素晴らしい表現を披露する。それは時には荒れくるった高ぶりで我々を脅かし、そして時には淡々とした穏やかさで我々の心にホッと一息つくゆとりを与えてくれる----というわけで、この日(6/20)に我も忘れてこの素晴らしいパノラマ舞台を満喫しまくった。サンゴをけとばし、膝から血を出してもめげずに泳ぎまくり、おかげで那覇に戻ったときは、体中が10円玉の如く色づけされていた。
海の美しさ、自然の偉大さというものをここで改めて、骨の髄まで知らされたように思う。そしてそれは自分自身が思い切って旅の世界に踏み込んだからで、日頃のせわしない毎日を続けていればこういったことを見つめ直すのはなかなか困難ではなかろうか。このような点で今回のクルーズは自分にとってとてつもなく大きな収穫であっただろう。
二十一日の最終日はあっという間に過ぎた。今回は、自然をのんびりと味わうことで終わったが、しかし----沖縄にはまだまだ様々な問題がひそんでいる。沖縄本土にてくり広げられた激戦、それによってつけられた痛々しい傷跡、沖縄県民の抱く切ない思い・・・自分自身も今回の旅を土台に、これらのことに少しずつ取り組んでゆきたい。そして今後の二十一世紀が、少しでも周囲の方々の理想とする世界に近づけるべく貢献できたら光栄な次第である。
(本多康子)
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