▼南部戦跡をじっくり巡る▼
第41回ピ−スボート「地球一周の船旅」の、最初の寄港地として選ばれたのが沖縄・那覇。いまやすっかり「ブーム」となっている沖縄はしかし、太平洋戦争で唯一地上戦を繰り広げたところでもある。今回は、その激戦地となった沖縄本島南部地方をめぐるツアーに参加した。
このツアーは、市民団体沖縄平和ネットワークの平和ガイド・大城美代子さんによる案内で進められた。大城さんは沖縄出身の戦後生まれだが、父親は元日本海軍兵であり、母親・姉が沖縄戦体験者である。今回のツアーに際して、「皆さんにバトンを渡すようなつもりで話をします。ぜひ58年前の風景を想像し、感じ取ってください。」と参加者に呼びかけていた。
米軍侵攻に備える沖縄守備軍は、沖縄県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、学徒隊を編成し戦場へとかりたてた。そこで負傷兵の看護や薬品・食料などを運んでいたのが、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女子校の生徒、有名なひめゆり学徒達だ。沖縄戦では、職員・学徒合わせて219名もが命を失った。
これは、彼女達の鎮魂と世界平和を訴え続けるためにつくられたもの。10代の若さで味わうことになってしまった、この世の地獄とも言える彼女達の証言を風化させてはならないと強く感じた。
「ガマ」とは鍾乳洞のこと。沖縄にはこの「ガマ」がたくさんある。沖縄戦では、この「ガマ」が陣地・病院・住居として重要な役割を果たした。この糸数の壕は、「南風原陸軍病院」として使用されていたが、多くの市民も逃げ込んだ場所だという。
懐中電灯を握りしめ、さっそく中へ入った。ライトを消すとそこは「闇」がすべて。「もしこの世に地獄があるとするならば、地獄以外の何ものでもない…。」大城さんが語る生存者の証言が、すべてを物語る。現在、このガマ訪問は修学旅行にも取り入れられる様になっており、「ガマの教育力」が注目されているという。
海を望む広大な敷地につくられた「平和の礎」。これは、沖縄戦で犠牲となった人々の名が国籍・人種に関わりなく刻まれている。その一角には、朝鮮半島から連れてこられた人たちのハングルの名前も…。日本だけでなく、多くの「外国人」もまた、沖縄戦で犠牲となっていることも忘れてはならない事実だ。
(徳満理恵)
那覇寄港地レポートインデックス
/
41回クルーズレポートインデックス