ケニアの歴史
15世紀 アラブ人都市国家がモンバサを中心に繁栄
16世紀 ポルトガルが東アフリカ全域を支配下に
18世紀 奴隷と象牙の『供給地』となる
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19世紀初頭 アラブ国家オマーンが東アフリカ全域を支配
1895年 現在のケニアが「イギリス東アフリカ保護領」となる
1902年 白人入植者を優遇するホワイトハイランドが形成される
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1920年 イギリス直轄植民地に移行
1963年 イギリスから独立
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1964年 共和制に移行
1978年 モイ大統領誕生
自身の所属政党以外を非合法化
1991年 複数政党制に
1992年 首都ナイロビで10万人以上が参加する反政府集会

 [「奴隷積み出し港」モンバサ]
 東アフリカでの奴隷貿易が本格化したのは18世紀。当時東アフリカはアラブ国家の支配下にあった。イスラム法では、イスラム教徒を奴隷にすることが禁止されていたため、奴隷供給地は、まだイスラム化が進んでいなかった内陸部へと広がっていく。集められた奴隷は、モンバサなどのインド洋沿岸、そしてこのころ奴隷貿易の中心地であったザンジバル(現タンザニア領)から西アジアなどに送られ、農業や土木作業に従事させられた。また、18世紀半ばころからは、フランスがモーリシャスなどにコーヒーやサトウキビなどのプランテーションを建設したため、そこに送られた人々も多かったという。この奴隷貿易は、数々の批判を受けながらも、19世紀末まで続いた。

 [過酷な収奪組織としてのホワイトハイランド]
 1897年の大旱魃によって大多数の住民が亡くなったギクユの大地が、ヨーロッパでは「広大で肥沃な無人の地」と喧伝され、入植者が急増した。そして、1902年には、「王地条例」によって英国王の土地と一方的に宣言され、この土地を白人のみに譲渡できるという決定がなされた。格安かつ999年間有効という法的な根拠も与えられたことから、イギリスの没落貴族などがこぞってプランテーション運営に力を注ぎ、「ホワイト・ハイランド」と呼ばれる大植民地が現れた。さらに、白人経営者は無税であるにも関わらず、アフリカ人労働者には重税を課し、その税金はさらにプランテーション運営のための社会基盤整備に費やされるという巧妙かつ過酷なしかけとなっていた。これが、アフリカ人を支配するための「基礎」をより強固なものにしていったのだった。

 [イギリスからの独立]
 1952年、ケニアのイギリス植民地政府は、ケニア全土に非常事態宣言を出し、政治団体KAU〈ケニア・アフリカ人同盟〉のメンバー183名を逮捕した。KAUの中の独立急進派がテロを実行し、政府に脅威を与えていたときだった。この事件は、のちに「アフリカ人による白人殺し運動・マウマウの反乱」の発端として宣伝されるようになる。
 翌年、政府は2万7000人ものアフリカ人を逮捕。「非常事態」は1959年まで解かれることなく続いた。この間、「土地の奪還と白人の追放」を求めるグループは、政府とイギリス軍に対して巧みなゲリラ戦を展開。イギリスはこの鎮圧のために、合計5万の軍隊と警官をケニアに送り込んだという。
 1963年、総選挙を経て、ケニアは英国領内の自治領として独立。さらに翌年、共和制への移行を果たした。初代大統領であるケニヤッタは、KAUのリーダーとして活躍、1952年に投獄された人物である。

モンバサ寄港地インフォメーション