[フランス領インドシナ領]
フランスが、自らの植民地であるベトナム、ラオス、カンボジアの三国で形成した連邦。これ以前にベトナム全土を支配していたグエン王朝は、フランスの支援を受けて成立したために、フランスの政治介入、ひいては侵略を招く結果となった。1862年にはサイゴンが、そして82年には都であったフエが陥落。以後、フランスのベトナム支配は50年以上も続いた。
[ホーチミン]
ベトナム「建国の父」。1930年にインドシナ共産党を結成し、対仏独立抗争を開始する。日本軍のインドシナ進駐後は、1941年にベトナム独立同盟(ベトミン)を設立し、日仏二重支配に抵抗。日本が降伏した45年には、ベトナム民主共和国の独立宣言を自ら読み上げた。
[インドシナ戦争]
日本が降伏したあと、かつての盟主フランスは、「日本の敗戦処理」という名目で、ふたたびベトナムに進出。本部に拠点を置いていたベトミンとの間に起こった戦いを、第一次インドシナ戦争という。
1954年ぶジュネーブで結ばれた休戦協定では、「北緯17度線を軍事境界線としてベトナム南北は分割。2年後の1956年にベトナム全土で統一選挙をおこなう」とされていた。が、南ベトナム国家「ベトナム共和国」政府は統一選挙を拒否。ベトナムは、ふたたび戦火に巻き込まれていく。
[ベトナム戦争]
アメリカの支援を受けて成立した、南ベトナムのゴ・ジン・ジェム独裁政権。弾圧を受けた農民や仏教徒を中心に、「反ゴ政権」のうねりは大きくなっていく。1960年には、外国勢力からの「解放」を掲げる「南ベトナム解放民族戦線」(「ベトコン」は南政府側からの蔑称)が成立。ベトナム戦争が勃発した。
時代は冷戦の真っ只中。アメリカは、「南ベトナムが共産化されれば、アジアは次々に共産主義に征服される」という「ドミノ理論」を主張して、この戦争への介入を正当化した。65年からは、北ベトナムへの空爆を開始。アメリカがベトナム全土に撒き散らした枯葉剤は、いまも人々に重い後遺症を残している。
しかし、世界的レベルで巻き起こった「ベトナム反戦」の波に押されるように、アメリカは73年、ベトナムからの完全撤退を取り決めたパリ条約に調印する。うしろだてを失った南ベトナム政府は、もはや力を持たなかった。75年4月、ついに首都サイゴンが陥落。翌年、南北ベトナムを統一して「ベトナム社会主義共和国」が成立した。
[ドイモイ政策]
「ドイ」はベトナム語で「変える」、「モイ」は「新しくする」。1986年末からベトナム共産党が採択した改革・開放路線を目指す。
戦争終了後、計画経済を進めたベトナムだったが、その急速さに経済は混乱。社会主義化に反発する人々はボート・ピープルとなって国外に逃れた。ドイモイは、この破綻した経済を、市場原理の導入により立て直そうとしたものだ。個人の所有権の認可、海外からの送金の自由化などの政策がとられ、外国からの投資も増加。93年には10%近い経済成長が記録された。92年に発行された新憲法では、ドイモイが国の基本政策のひとつとして明文化されている。
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