[インドマハトマ・ガンジーとインドの独立]
1869年、イギリス支配下のインド帝国で、小さな王国の大臣の息子として生まれたマハトマ・ガンジー。インド有数のエリートとして、イギリスに留学して弁護士の資格を取った彼は弁護士として南アフリカへ向かう。そこで彼を待ち受けていたのは、自身を含むインド人移民、有色人種へに冷たい差別の目だった。アパルトヘイト制度化にはまだ間があったものの、列車の特等席の切符を持っていながら、その車両に乗ることを拒否されるなどの体験をし
たという。
インド人同胞と共に差別への闘いを始めた彼は、やがて故郷インドの独立運動に身を投じる 。彼が呼びかけたのは、「非暴力と非服従」だった。闘いはしない、けれど服従もしない。「彼らは私たちの死体は手にできても、服従は手にできない」ガンジーの訴えは、やがて大き
な波となっていった。
第二次世界大戦後、ガンジーが何よりも望んだインドの「独立」は実現した。しかしそれは イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立による、パキスタンとの分離独立という形で、だった。
宗教の融和と寛容を訴え、両国の統一に力を注ごうとしたガンジーは、1948年、狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺された。インドとパキスタンの対立は、それから50年以上が経った今も、終わりを迎えてはいない。
[カシミール問題と印パ対立]
インドとパキスタンの分離独立が決定したとき、大きな火種となって残ったのが、北部カシミール 地方の帰属問題だった。この地方の住民の多くはイスラム教徒。いっぽうで、イギリス植民地時代に領主としてこの地域を治めていたのはヒンドゥー教徒のスルタン。「ヒンドゥー教徒のインド」と「イスラム教徒のパキスタン」は、ともにこの地方の領有を主張し、1948年、戦争に突入した。第一次印パ戦争である。
この戦争は国連の仲介によって停戦にこぎつけ、停戦ラインが事実上の国境とされた。しかし、その後も両国は第二次印パ戦争(1965年)、そしてヒンドゥー教徒が住民の大半を占める東パキスタン州(のちのバングラデシュ)の独立をめぐる第三次印パ戦争(1971年)と争いを続ける。
1990年代後半からは、徐々に和平ムードが高まってきていたものの、1998年、両国が争うように強行した核実験で、ふたたびその関係は悪化。2001年12月にも、イスラム武装組織によるインド国会襲撃事件が発生、緊張関係が続いている。
|