スペインサッカー1部リーグ、「リーガ・エスパニョーラ」。イングランドのプレミア・リーグ、イタリアのセリエAとともに、世界のスーパースターが集結し、世界最高峰のレベルを誇るサッカーリーグです。
その「リーガ・エスパニョーラ」を引っ張るビック・クラブが、マドリードの「レアル・マドリード」、そしてバルセロナの「FCバルセロナ」。バルセロナの歴史と、歴史の中におけるサッカー、そして、バルセロナ市民「みんなのクラブ」だというFCバルセロナについて、水先案内人・金丸知好さんにお聞きしました。 |
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――スペインの「多様性」
まず「スペイン」という国について、に簡単に触れておく必要があります。現在、スペインは右図のような17の州によって成り立っています。日本でいう「関東地方、東北地方…」といった感じですね。
しかし、各地方の地域色は日本では想像もつかないくらいに強い。
例えば言語面では、マドリードでは「カスティーリャ語(いわゆるスペイン語)」が話されていますが、カタルーニャの公用語は「カタルーニャ語」という独自言語。また、バスク地方も同様に「バスク語」という独自言語を持っています。また、南部のアンダルシア地方なんかは、イスラム文化の影響を色濃く受ける地域ですし、ヨーロッパ大陸から離れたカナリア諸島に至っては、アフリカやカリブの影響も受けています。
ここでは細かく説明できませんが、私たち日本人からは想像もつかないくらい、スペインは「多様性」に富んだ国なんですね。
この「多様性」がサッカーにも色濃く表れているんです。顕著な例で言えば、バスク地方のビルバオを拠点とする「アスレティック・ビルバオ」。リーガ・エスパニョーラの中でもひじょうに強いチームですが、チーム設立から現在も、「バスク人」しか参加出来ないチームなんです。同じバスクにある、「アラベス」というチームも、「スペイン人」は採用せず、「バスク人」か「外国人」のみのチームとなっています。
バスクの2チームは特にわかりやすいケースですが、どのチームにも何かしらのルールや特長があって、それらは、スペインの「多様性」によるものなんですよ。 |
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――バルセロナの歴史
ピースボートが入港するバルセロナは、12世紀には“カタルーニャ王国・バルセロナ”として地中海貿易の最大拠点になりました。やがて隣接するアラゴン王国と合併。アラゴン王国によるレコンキスタの進展と、地中海進出の恩恵を受け、バルセロナはジェノヴァやヴェネツィアと並ぶ地中海交易の中心地として大いに繁栄します。しかし、15世紀に入ると、アラゴン王国がカスティーリャ王国を合併し、スペイン王国を形成。スペインの中心はカスティーリャの中心地、マドリードに移ってゆきます。
その後のカタルーニャの歴史は、中央支配の強化に対する「抵抗の歴史」として展開してゆくことになり、その中で、カタルーニャ人独特の意識を育んでいくことになるんです。
そして1936年、カタルーニャに自治権を与える「カタルーニャ自治法」の復活に反対する、フランシスコ・フランコ将軍率いる「反乱軍」が蜂起、スペイン市民戦争が勃発します。1939年にはフランコ将軍による独裁体制が成立。カタルーニャやバスクなど、「自治」「独立」を求める人々は激しい弾圧の対象となり、カタルーニャ語の使用は禁止。街の名前や標識などもすべてカスティーリャ語(スペイン語)に変えられます。
この後、60年代には、カタルーニャ語を公用語とすることが認められますが、カタルーニャの自治権復活は、1975年のフランコ将軍の死と、それに伴うスペインの民主化を待たねばならなかったのです。
こうした「弾圧」の歴史の中で、サッカーは重要な位置を占めてきました。カタルーニャ語が禁止されていた当時、カタルーニャの人たちにとっては、サッカースタジアムがカタルーニャ語で会話できる唯一の場所。そして、他の地域、主にマドリードに対して自分たちの存在や感性を示すことの出来る場所でもあったのです。
サッカーは、かつて押さえつけられてきた歴史の「はけ口」とも言える存在であり、今もそうなんですよ。 |
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――バルサとレアル
バルセロナとマドリードの間にある「根っこの深い」問題は、バルセロナの歴史の中から何となく見えてきたと思いますが、サッカーの試合になると、それはもぅスゴイです。ちょうど先日(2002年11月23日)、FCバルセロナとレアル・マドリードの試合が、FCバルセロナのホーム・グラウンド「カンプ・ノウ」にておこなわれました。「バルサvsレアル」というこのカードは、「スペイン・ダービー」とも呼ばれ世界中の注目を集める試合ですから、ニュース等で見かけた人も多いのではないでしょうか。
その試合において、ひじょうに「わかりやすい」トラブルが起きています。
現在、レアル・マドリードに所属するルイス・フィーゴがコーナーキックを蹴る際、FCバルセロナのサポーターからの大ブーイングに遭いました。9万人収容のスタジアムが揺れ動かんばかりのブーイングが起こっただけでなく、ゴミやらペットボトルやらウイスキーの瓶やら…あらゆるものがフィーゴめがけて投げつけられました。あまりの騒動に、試合が一時中断してしまったほどです。
フィーゴは95年から2000年7月まで、FCバルセロナのトップ選手として、絶大な人気を得てきました。それが2000年7月24日、永遠のライバルチーム、レアル・マドリードへ移籍したのです。移籍の「裏」には様々な憶測や噂があるようで、実際、純粋な「移籍」だったのか否かの真相はわかりません。しかし、サポーターにとって一大事であることに違いはありません。(2002年12月現在)史上2番目に高額な移籍金を受け取ってレアル・マドリードに行ったフィーゴは、FCバルセロナサポーターからすれば「金の亡者」「裏切り者」です。その結果があの「大ブーイング」だったんですね。
――「ペーニャ」が支える「独立」の象徴
FCバルセロナのサポーターは大きく分けると「クラブ会員」「シーズンチケット・ホルダー」そして「ペーニャ」の3つに分類されます。この「ペーニャ」というのが、ひじょうに重要なんです。
フランコ政権の弾圧にあい、FCバルセロナは財政面・精神面ともに支援を必要としていました。そこで、FCバルセロナを支援する「社交クラブ兼サポータークラブ」として1940年代なかばに生まれたのが「ペーニャ」です。
ペーニャが生まれたことで、人々は「FCバルセロナを応援する者」として集まり、酒を飲み、禁止されていたカタルーニャ語で話しました。ペーニャは、人々に社交の場を提供したんですね。そして1953年、FCバルセロナに出資していたペーニャ連合によって、現在のメイン・スタジアム「カンプ・ノウ」の建設プランが生まれ、1957年に「カンプ・ノウ」は落成します。
ペーニャは、裕福な地元住民グループではなく、あらゆる社会階層の人々を巻き込んでいったことが大きな特長です。現在、FCバルセロナのペーニャは1200以上もあって、それぞれが異なる名前、特長、習慣を持っているんです。FCバルセロナから生まれたペーニャを、今はほとんどのクラブ・チームが持っていますが、これほど多くのペーニャを持っているチームはありません。
次にテレビなどでFCバルセロナの選手を見かけることがあったら、そのユニフォームに注目してください。あの「青とえんじ」のユニフォームには、スポンサーのロゴはいっさいありません。これはFCバルセロナが多くのペーニャに、ペーニャに所属するサポーターに支えられていることの証明なんです。
「弾圧」の歴史の中で、白い巨人「レアル・マドリード」に、ひいてはそのバックにいる「フランコ将軍」に抵抗してきた、バルセロナ市民にとってのFCバルセロナはその「抵抗」の象徴なのかもしれません。チームをペーニャが支えているのも、ユニフォームからわかるように、チームのイメージを独立したものにしておきたい、という思いもあってのことでしょう。FCバルセロナは、そんな「独立」の象徴でもあるのでしょうね。 |
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