検証・カンボジア地雷教室
 ベトナムから約20名がオリビア号を離れ、空路カンボジアへ。1970年代、ポル・ポトが政権を握ったカンボジアでおこなわれた大虐殺・ベトナムとの国境紛争や、カンボジア国内でのポル・ポト派とそれに対する勢力による内戦の時にうめられた地雷は、今なお人々に大きな影響をもたらし続けている。このツアーでは、主に「戦争」・「地雷」に焦点をあて、カンボジアの過去・現在の状況を検証。また、地雷撤去に取り組む人々や地雷被害者にも、直接会って話を聞くことができた。
 ここは「ツールスレーン」。ポル・ポト政権時代、ここでは、知識人を中心とする多くの人々に対して拷問がおこなわれていた。ここでは、実に1700以上の人たちが収容され、最終的に残ったのはたった5人ともいわれている。この写真は、当時のまま残されている牢獄を写したもの。今もベットの上には「足かせ」が残されたままだ。壁には、実際に拷問された被害者が横たわっている写真も展示されていた。「つい数年前までは、床などについた血の臭いが残っていました」と、現地のガイドさんが教えてくれた。
 カンボジアには、内戦時に埋められた地雷が多く残されている。地雷は値段も安く、金銭的に貧しい国の、特に内戦などで多く使われるものだ。
 カンボジアで地雷撤去活動をしている政府機関「CMAC」の隊員が着ていた防御服を着せてもらったが、思ったよりずっと軽い。逆に、彼らが使っている「金属探知器」はかなり重く、ちょっと動かすだけでも大変だ。これを彼らは毎日、何時間もの間おこなっている。また、地雷原では「探知犬」という地雷探知に活躍する犬がいる。彼らは、火薬の匂いを覚えさせられ、半径2メートル以内に地雷があると座り込むよう教育されているという。私たちが地雷原を見学させてもらっていると、その探知犬によって本物の地雷が発見された。
 NGO「カンボジア・トラスト」では、地雷被害者に無料で義肢・装具を配布している。日本人義肢・装具士である保坂さんに案内され、義肢装具の説明を聞いた。このNGOでは、義肢・装具無料配布だけではなく、治療費や修理費、また交通費まで負担しているそうだ。今回、私たちはカンボジアの商品を買い、船内・日本で売るという企画を考えた。その売り上げはすべて、このNGOの活動資金となるというものだ。
 ピースボートがおこなった募金によって建てられた、という小学校を訪れた。
 この小学校は以前は地雷原の中にあり、今となっては自由に遊べるが、以前はいつ地雷が爆発するかわからない危険な土地だったという。
 ここでは、子どもたちのためにサッカーボールを10個プレゼント。ここに写っている女性はこの学校の先生。挨拶するときには手を合わせるのがカンボジアの文化ということでさっそくマネしてみたものの、ボールを持っていたのでこんなポーズになってしまった。カンボジアでは,バレーボールが盛んだが、最近ではサッカーも人気スポーツの一つとなってきているそうだ。また参加者から、ノートや鉛筆などの文房具も手渡された。
 近所に住む地雷被害者に話を聞いた。ここで話を聞けたのは7人。ほとんどの人が農作業中の事故だ。片足のない人がほとんどで、その半数ぐらいの方が義肢・装具をつけ、半数は松葉杖だった。義肢・装具は必要とされているが、被害者の多くは農作業に従事するため、でこぼこの多い農地には義肢・装具が向かないとして使用しない人もいるという。「私たちにどんなことを望むか?」と聞くと、物質的援助の他に、これ以上地雷被害者を増やさないために地雷撤去をさらに進めてほしいとのことだった。
 首都プノンペンのはずれには、市内から集めたゴミが山積しており、それは現在、カンボジアが抱える社会問題の一つとなっている。車で走っていると急にそれまでとは全く違う風景が広がった。車から降りると、強烈な臭いが鼻についた。大量のゴミの山からは白いガスが発生し、視界が悪くなっていた。そこには、子どもからお年寄りまで、幅広い人たちが集まったコミュニティーができている。毎日毎日、彼等はよりよいゴミを探しゴミ山をあさる。そこにいた男の子は「アルミニウムは再生して使うため、高く売れるよ」と教えてくれた。
 しかし、このゴミ山は、もうすぐ許容量を超える。そしてその時には、集積所も変わる。彼らのコミュニティー、彼らの生活は、いったいどうなってしまうのだろうか。
(上泰歩)
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