国名
 社会主義人民リビア・アラブ国  Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya

ことば
 アラビア語
・歴史
 紀元前の時代から、地中海都市のフェニキアギリシャなどの植民都市が多数建設された場所。アフリカ大陸にありながら、長くヨーロッパ世界の一部としての繁栄を続けていたが、7世紀からイスラム化が進み、16世紀にはオスマン・トルコの支配下に入った。
 イタリアなどの支配を経て、第二次世界大戦終結後の1951年、リビア王国として独立。1969年には、現在最高指導者の地位にあるカダフィ大佐が無血クーデターにより政権を奪取。カダフィの唱える「緑の書」理論に基づく社会主義国家が建設された。
 60年代に発見された潤沢な石油資源により、GNPはアフリカ諸国の中でもトップクラス。が、1980年代からの石油価格下落に加え、リビアを「テロ国家」とするアメリカによる経済制裁、米パンナム機爆破事件との関与を理由とする国連による経済制裁を受け、経済は低迷に陥った。1999年からは、米パンナム機爆破事件の容疑者を国連へ引き渡すなどの「歩み寄り」を受けて、国連の経済制裁は凍結され、開放政策も進められている。
 レプティス・マグナをはじめ、世界でも指折りのローマ遺跡を抱えるが、観光開発はあまり進んでいない。

レプティス・マグナのローマ遺跡へ
トリポリより車で約1時間半、紀元前1000年前後から地中海で広く交易を行ってきたフィニュキア人がアフリカでの拠点として建設、紀元前1世紀後半にはローマ帝国の支配下で発展したレプティス・マグナの遺跡を訪れた。
レプティス・マグナの「レプティス」は「偉大な」という意味。その名に相応しい圧倒的なスケールと美しさに思わず言葉を失い、またこれだけの文化を築き上げた当時の人々に思いを馳せながら歩いた。

リビアでウルルン体験
トリポリ市内にある音楽演劇専門学校では、約650人の学生たちが演劇、歌、ダンス、舞台美術やメーキャッ プ、ビデオ編集などを学んでいます。いわゆる「学科」的な勉強よりも、実践的なワークショップに力を入れているのが特色で、生き生きと学ぶ姿が印象的でした。
ワークショップ見学に続いてリビアの伝統舞踊を教えてもらったら、そのお返しにとこちらから“パラパラ”をレッスン。短い時間でしたが、学生らと共に校内のステージ上にて、リビア伝統舞踊と“パラパラ”2つの踊りで、息のあったステップを披露。少々不安だった“パラパラ”の評判は意外(?)に上々。しかし、ここで出会った学生たちにとって日本の踊りといえば“パラパラ”となることを考えると、少々複雑な気分にもなるのでした。
(尾崎)

リビアに生きる女性たち
リビアの革命評議会の女性メンバーと共に、「リビアに生きる女性たち」の現状を徹底検証するコース。
メンバーのひとり、マレーナさんの案内で最初に訪れたのは、1989年に設立された看護婦養成センター。
これまでに4500人が卒業したこのセンターでは、看護婦を志す女性たちが、16歳から「週の6日はトレーニング」という日々を送っています。、3日は語学などいくつかの科目を勉強、そして残りの3日は実地訓練を行うのだとか。
リビアでは、看護婦は女性の仕事として大変重視されており、真剣に学ぶ生徒たち様子が印象的でした。
続いて訪問したのは、トリポリ市内のフィットネスクラブ。宗教上の理由で女性が肌を出すことが難しい中にあって、ここは週3日間男性の出入りの一切を禁止することで、女性たちの利用を可能にしています(ピースボートからの男性参加者3名も、もちろん足を踏み入れることは許されませんでした)。
ダイエット前・後の写真を撮って成果を確認する様子には、ちょっと日本に通ずるものを感じてしまったり。
伝統的にその地位を低いものとして見られがちなイスラム圏にあって、リビアの女性たちは、国の最高指導者カダフィー大佐の「緑の書」にも記されるように、その地位を尊重されるとともに、社会進出の機会も多くあるよう。日本の女性に負けないほどパワフルで、明るく、気さくな人が多いように感じました。

神秘の世界遺産ガダーミスとサハラ砂漠
ローマ時代からトリポリとアフリカ内陸部を結ぶ交易ルートの中継地点として活気をみせた、サハラ砂漠のオアシスの街ガダーミスを訪れた。
密集した白亜の家々の間には、アーケード状に張り巡らされた薄暗い通路があり、街全体がまるで迷路。
屋内に施された華麗な装飾や伝統工芸など、この地方には独特の文化があったが、近年のオアシスの枯渇によって、人々が新市街へ移動、それによって文化の継承が難しくなっているという。

ローマの古代都市サブラタ遺跡
トリポリから西へ約100km、古代フェニキア時代に交易の拠点として築かれ、その後も貿易都市として栄えたサブラタ遺跡を訪れました。
この地が最も栄えたのは、ローマ帝国の支配下にあった1〜3世紀頃。その当時作られた、北アフリカ最大規模の最大収容人数7500人の円形劇場、神殿、浴場などが残されています。円形劇場のバルコニーに施された繊細なレリーフに、かつての壮麗な姿が思い浮かびます。そして、巨大かつ緻密に計算された建築物を数千年もの昔の人々が作り上げたという事実に圧倒されてしまいました。
(村松)

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